前回のエッセイで、悲しむ時間を与えることについて書いたのだが、
子供が感情的になった時に、悲しむ時間を与えることと同じくらい大切だ、と私が個人的に思っていることがある。
それは、「感情」と「言動」は分けて考えなくてはならないということだ。
娘は感情的になったとき、暴言を吐いたり、物を投げたりすることがあるのだが、
「怒ってるからといって、暴言を吐いたり、暴力をしたりしてはいけない」ということを教えることは、絶対に必要なのだ。
これには苦い経験がある。
小さい頃、私は一度機嫌が悪くなると、元どおりになるまで時間がかかる子供であった。
その理由は前のエッセイで説明した通り、自分がどうして機嫌が悪くなっているのかをうまく説明できなかったし、
機嫌が悪い自分自身を責めることで余計に機嫌が悪くなっていたからだ。
私は機嫌が悪い時、平気で母に暴言を吐いたし、暴れまわった。
そんな私を、母は幼い頃は注意してくれていたように思う。
しかし、感情的になった私は、母に注意されるとますます激昂した。
前回のエッセイでも書いたが、感情の真っ只中にいる時に諭されると、人は自分の心を否定されたように感じて余計に辛くなるからだ。
そのうち母は、私に注意することはなくなった。
何を言っても無駄だと諦めてしまったからだ。
母は私が何をしても注意しなかったので、私は自分が暴言を吐いているということ、他人を傷つけるような酷い言葉を口にしているということに、気づいていなかった。
そんな私がどうなったかといえば、成長するにつれ、人間関係で苦労するようになった。
自分の感情と行動を、切り離して考えることができない人間になってしまったからだ。
誓って言うが、私は「あの子が嫌いだから、陥れよう」と思って誰かに意地悪をしたことなど一度もない。
だから、自分は『善人』であると信じていた。
しかし一方で、「自分の機嫌が悪い時であれば、人を傷つける言動をしても仕方がないし、許される」とも信じていた。
なぜなら母は、私が感情的な時に暴言を吐いても、何も言わなかったからだ。
私は、自分が他人を傷つけている『加害者』になっている事実に、気づいていなかった。
私は、自分が相手のことを好きならば、態度や言葉が悪くても、この愛は伝わるから嫌われることはないだろうと思い込んでいた。
自分の心は相手に伝わるはず、という都合の良い精神論を信じていたのだ。
なぜなら私がどれだけ暴言を吐いても、私が大好きな母は私を愛してくれたからだ。
私は、母が私を愛してくれるのは、私の心が伝わっているからではなく、『娘だから』だという事実に、気づいていなかった。
他人に嫌なことをされた時、友達に嫌われてしまった時、私は相手の性格が悪いのだと思った。
自分は常に被害者だと信じて疑わなかった。
私には、自分の言動を客観的に見る視点が欠落していた。
嫌な出来事の中には、私に原因がなかった場合もあるかもしれない。
ただ、若い時に起きた人間関係のトラブルは、こうした自分の驕りが原因にあったことが多かったように思う。
自分の言動が誰かを傷つけることがある、
相手のことをどれだけ好きでも、嫌な言動をすると嫌われてしまう、
自分は常に被害者というわけではない、
という数々の当たり前の事実に気づいたのは25歳を過ぎてからだった。
この時の衝撃は、言葉ではうまく表せないほど大きいものだった。
しばらく私は自分自身が嫌いになったし、黒歴史の数々を思い出すたびに死にたくなった。
一応言っておくと、母に対して恨みはない。
母も、感情の仕組みについて詳しくなかったし、私のあまりの感受性の強さに、どう注意すれば良いのかわからなかったのだろう。
また、自己肯定感の低い人だったから、私に何を言われても受け入れてしまったのかもしれない。
あんなにワガママな私を育ててくれたことには本当に感謝している。私だったら自分のような人間は絶対に育てたくない。
こうしてだいぶ遠回りをしたが、私は苦い経験の数々から、どれだけ自分の感情が傷ついていても、他人を傷つける言動をしてはいけない、
どれだけ仲のいい相手であっても、相手の嫌がることをしては嫌われてしまう、
という当たり前のことを学んだのだった。
「賢者は歴史から、愚者は経験から学ぶ」という有名な言葉があるが、私はまさしく愚者だった。
私は娘に、同じ苦労をして欲しくないので、娘が感情的になった時、人を傷つける言動をしたら、必ず注意するようにしている。
ただし、注意するのは、子供の感情が消化して、落ち着いてからだが。
「怒るのはいいけど、物を投げてはいけないよ」
「あんな言い方をされて、ママは悲しかったし傷ついたよ」
「ママは何をされても娘ちゃんが好きだけど、お友達に同じことをしたら嫌われてしまうよ」
と、娘が『加害者』になっている事実を伝える。
一度、娘が怒って物を投げたあと、
「怒ってごめんなさい」と謝ってきたことがあった。
その時は、「怒ってもいいけど、物は投げないでね」と伝えた。
感情は、コントロールできないから、どんなものを持ってもいいのだ。
しかし、誰かを傷つける言動は、慎まなければならない。
それはいつか自分の首を絞めてしまうからだ。
娘はまだ3歳なので、まだ完璧に言動のコントロールができるわけではないが、
こうしたことの積み重ねで、ちょっとずつその癖を直していってほしいなと思う。
自分がどう感じたかと、自分がどう行動するかは別物で、切り離して考えなければいけない。
自分がどんな感情を抱えていても、誰かを傷つける言い訳にしてはいけないのだ。
思えば、世の中にある揉め事や諍いといったものは、この基本的なルールが守れてないことが原因であることが多い気がする。
暴言はダメだと頭ではわかっていても、「私の心は傷ついてるのだから、ひどいことを言ってもいい」と思ったり、
他人が嫌がることをしてはいけないと知っていても、「愛があるから、やっても大丈夫」と思ったり、
こうした『甘え』によって今日もどこかで、他人を傷つけることを正当化している人がいるのだと思う。
パワハラやモラハラは、こうした『甘え』の精神構造がもたらしているものに思えて仕方がない。
私自身、この甘えから完全に抜け出せているかといえば、まだ自信がない。
自分の感情や心が、他者にも通じているはずという甘えを持っている限り、人は自分の感情という檻の中でしか行動ができない。
その檻から抜け出した時、すなわち自分の感情と他人とは無関係であると知った時、人は初めて世界の広さと己の小ささに気づくのである。