感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[メッセージ]感覚を忘れて、彷徨う人たちへ

※この文章は、エッセイでも理論でもないなと思ったので、メッセージとしてカテゴライズしました。

 

 

恐らく、以前の私のブログやツイッターを読んでくれていた人の中には、自己啓発セミナーや偽スピリチュアルへの批判記事をきっかけに、知ってくれた人もいるでしょう。

 

元々私は、『自分なりに思う幸せになる方法』を漫画調に描いていました。

なぜそんなものを描いていたかと言うと、昔の私はものすごく生きづらさを抱えていたのですが、

人生の節目節目で不思議な縁をいただき、出会った人たちから幸せになるために大切なことを教えてもらいました。

感謝が大切なことや、事実を受け止めること、自分を愛することを、教えてもらったのです。

 

それを他の人にも広めたいと思ったのが、漫画や文章を書くきっかけでした。

 

また、娘が産まれたことも影響しています。

娘が産まれた時、私は自分が人生で学んだことを子供にも伝えていきたいと思いました。

しかし、もし娘が私の言葉を理解できる前に、私が不慮の事故や病気で急にいなくなってしまったら、それが伝えられないことになってしまうと気づいたのです。

そう思うと、この数々の知恵や教えというのは、何か形にして残さなければいけないのでないか、と思ったのです。

 

そうして細々と、漫画を描いていたのですが、ある時有名な自己啓発セミナーの講師が

「子供を叩いてもいい」という発言で炎上しているのを知りました。

 

また、それまで「自己肯定感を高める」ことを説いていると思っていたブロガーや、セミナー講師たちが、「自分勝手になること」と「自己肯定感を高めること」を履き違え、

子供を捨ててもいいだの、借金を返さなくていいだの、

とんでもないことを教えていると知り、いてもたってもいられなくなったのです。

 

自分を愛することは幸福感を得るためには絶対に大切なことですが、こんな歪んだ解釈を広めたら、不幸な人が増えてしまうし、『自分を愛する』という言葉自体が忌み嫌われるのではないかと思うと、恐ろしかったのです。

 

そうしてこれを機に、私は怪しい自己啓発セミナーをする人や、俗に言う「子宮系」と呼ばれるブロガー達について、その理論がなぜ破綻しているかを書くようになりました。

 

 

ただ、ひとつ、自分の中で不思議なことがありました。

それは、自己啓発セミナー講師や、ブロガー達の言うことは、全てが間違えているわけではないし、部分的に取り入れればプラスになることもあるのに、

どうしてその信者達は幸福に見えないのか、ということでした。

 

例えば、「どんな自分も愛そう」「思い込みをやめよう」「感謝しよう」といった文言は、それ自体はおかしいものではないし、良いことだと私も思うのです。

 

しかし、そうした講師たち(俗に言う教祖様たち)の言うことを一言一句間に受けているはずの信者は、

本をいくら買っても、セミナーをいくら受けても、ちっとも幸せそうに見えないのです。

否、幸せになった人も恐らくいるかもしれないのですが、熱心な信者の中で、本当に幸せそうな人がいないのです。

信者たちは

「あの人の新刊が出るから買わなきゃ!」

セミナーに行かなきゃ!」

と、同じような文言の書かれた教材に散財し、それで「変われそうな感覚」「真実を知った感覚」だけは味わえているようなのですが、時間が過ぎるとまた同じような刺激を求めています。

 

セミナー講師の言う通りにすれば幸福になるのなら、同じようなテキストはいくつもいらないはずです。

セミナーは相当内容が変わらない限り、一度受ければ十分なはずだし、そもそも本があればセミナーに行く必要もないはずではありませんか。

 

 

そうして私はある、ひとつの答えにたどり着きました。

 

 

それは、幸福というのはさまざまな自分の感覚を通じて、形作られていくものであるのに、

じぶんの感覚を忘れてしまった人間が、その感覚を取り戻さないまま『幸せ』になろうとすることにあるのではないか、ということです。

感覚を忘れた人たちは、自分の感覚に自信がないから、あるいは過去のトラウマで感じることが怖いから、自分の感覚を呼び覚ますことではなく、他人に『幸福を定義してもらうこと』で幸せになろうとします。

そうして、幸せになる感覚は人それぞれ違うのに、その感覚を他人に定めて、定義してもらおうとするからこそ、いつまでも終わらない幸せ探しをしてしまうのではないか、と感じるのです。

 

そもそも、自己啓発やスピリチュアルにのめり込む人々と言うのは、自己肯定感が低い人が多いです。

自己肯定感が低いからこそ、「ありのままの自分を愛そう」「今のあなたで大丈夫」と語りかけてくれる教祖様の言葉を心地よく感じるのです。

信者の自己肯定感が低いのはまさしく、「自分自身の感覚」を、過去に否定され、無理に封じ込めてしまったり、忘れてしまったりしたがゆえなのです。

なぜなら、私の理論で以前説明したことなのですが、自分の感情や感覚を否定することは、自分自身の『心』を否定することと同じで、自分の心をひどく傷つけることだからです。

彼らが幸せを味わうために本当に必要なのは、自分自身の感覚を取り戻すことなのに、それは自分にしかわからないことなのに、

信者たちは、自分の感覚を誰かに否定されることが怖くて、他人の『幸せそうな』生き方を真似することで、幸福になろうとしているのではないでしょうか。

でも、それは自分が本心から感じている幸福ではないので、どうもしっくり来ず、同じところを彷徨ってしまうのです。

 

 

 

 

もっと具体的な例を挙げましょう。

 

とある女性がいるとします。

その女性は、クラシック音楽と、水色が好きでした。

しかし、小さい頃に、親から

「女の子なのに水色が好きなんて変よ。ピンクにしなさい」と言われて、ピンクの服を押し付けられたとします。

すると彼女の中で、「水色が好きなのはダメだ、ピンクが好きでないと」という意識が出来上がります。

何故なら、好きなものを、大好きな親に否定される悲しみを味わいたくないからです。

また、小学校では「クラシック音楽なんてダサい」と同級生から言われるとします。

すると彼女の中で、「クラシック音楽なんてダサいからダメだ」という意識が出来上がります。

何故なら、人から馬鹿にされる悲しみを二度と味わいたくないからです。

そうして彼女は、自分が好きだからではなく、人から否定されないために、服や音楽や趣味を選ぶようになります。

着たくもないピンクの服を着たり、聴きたくもないJ-POPを聴いたりするようになります。

でも、本当は苦しいのです。彼女が好きなのはクラシック音楽と水色なのですから。

勿論、ピンクやJ-POPが悪いわけでは無いのです。ただ、彼女が好きでは無いだけなのです。

 

そんな彼女が大人になり、ふとしたきっかけから自己啓発セミナーに行ってみるとします。

セミナー講師は、「ありのままのあなたで良い」と優しい言葉をかけてくれました。

彼女は自分がずっとかけてもらいたかった言葉を聞き、初めてありのままの、自分らしい自分を受け止めてもらった気がします。

しかし、ありのままの自分とは何だろう?

彼女は本来の自分をずっと否定してきたため、自分が本当は何色が好きかを、どんな音楽が好きかを忘れてしまっているのです。

ここで彼女は、自分の感覚を思い出すのではなく、セミナー講師を手本にしようとします。

なぜなら、そのセミナー講師は『幸せになる方法』を教えているし、幸せそうに見えるからです。

本当の答えは彼女自身の中にあるのに、彼女は自分の感覚を信じることができないのです。もしくは、再び自分の感覚を否定されることが怖いのです。

 

セミナー講師の好きな音楽はヒップホップで、好きな色がオレンジ色だとします。

彼女はヒップホップを聴き、オレンジ色の服を身につけるようになります。

『幸福そうな』セミナー講師の真似をしているのだから、幸福になれるはずです。

しかし彼女はどこかしっくりきません。

それも当然です、彼女が好きなのは『水色』と『クラシック音楽』なのですから。

 

色や音楽ならまだ良いのですが、生き方の場合はもっと問題です。

セミナー講師がそのことを理解して、人それぞれの生き方を尊重する話し方をしていれば良いのですが、

しかし例えば、自分の認定講師を作り、その認定料で儲けたいと考えていると、講師は自然と「私と同じセミナー講師になれば私のように幸せになれるよ」というメッセージを発してしまいます。

それを読んでくれている人が講師に向いているかはわからないのに。

物販やセミナー料で儲けたいと考えている人は、「このグッズを買えば幸せになれるよ」「このセミナーを受ければ幸せになれるよ」というメッセージを発してしまいます。

それが本当にその人にとって必要かはわからないのに。

 

もちろん全ての人にとって、模倣することがダメなわけではありません。

運良く、自分に合うものに出会える場合だってあるでしょう。

例えば、生まれつきオレンジ色とヒップホップが好きな人なら、先ほどの講師に出会えれば、幸福感が得られるかもしれません。

或いは、セミナー講師が向いてる人であれば、認定講師になればやりがいを持って仕事ができるかもしれません。

また、模倣したことをきっかけに、「自分はセミナー講師の人とは好きなものが違うんだな」と気付くことができたのなら、それはそれで自分の感覚を取り戻す手がかりになるので、幸福に近づけたと言えるかもしれません。

 

ただ、本当はちっとも自分に合わないものなのに、『これを選ばないと幸福になれない』と思い込んで模倣し続ける人生は、幸福とは呼べないと思うのです。

 

ピンク色がダメなわけでも、オレンジ色がダメなわけでも、水色が優れているわけでもないのです。

ただ、その人それぞれに美しい、心地いいと感じるものや生き方は違うだけなのです。

 

 

この世界の人々は似ているようで皆違います。

好きな音楽、色、服装、快適に感じる気温、好みのタイプ、生き方・・全てが人それぞれ違います。

クラシック音楽が好きでも、ピンク色が好きな人もいますし、

水色が好きで、J-POPが好きな人もいます。

人間の数だけ、その組み合わせがあって、 

あなたがどれだけ誰かのことを尊敬し、愛していても、

あなたはあなたという人間にしかなれないのです。

 

 

 

 

子供を見ていて思うのですが、人間は本来、少しのことで幸福を味わえるはずなのです。

娘が赤ん坊の頃、私と目が合うだけで、ニッコリと笑ってくれたものです。

それは本能的なものかもしれませんし、その時幸福感を彼女が感じていたかはわからないのですが、私は彼女のその笑顔から、幸福とは何かについて考えさせられました。

本当は、自分の愛する人が微笑みかけてくれるだけで、幸福というのは感じられるものなのです。

しかし成長するにつれ、周りが見えてくるようになります。そして無意識に、周りと自分を比較するようになります。

そして友人が自分よりも容姿が優れていることや、テレビに出てくるおもちゃを自分が持っていないことに、不平不満が出てきます。

自分しか存在しない世界であれば満足できたはずが、途端に『不足』しているように感じてしまうのです。

だからといって、自分しか存在しない世界で終わればそれが幸福かといえば、そうではありません。

人は他者との関わりの中で、自分という存在をはっきりと認識していきます。自分の輪郭が鮮明になっていくのです。

人より不足しているものもあれば、恵まれているものもあるという違いを受け入れながら、それでも自分で良い、自分として生まれてきてよかったと思えることこそが、本当の『自分への愛』と言えるでしょう。

 

 

 

 

お金がないよりもある方が嬉しいことは事実でしょう。

しかし、幸福になるために、本当はそんなにたくさんのお金など必要ないと思うのです。

世界中の贅沢なグルメを取り寄せられたとしても、あなたの胃袋の容量を何十倍に増やすことなどできません。

お城のような大豪邸をいくつも持っていても、高級ブランドの服を何千と買うことができても、あなたの身体は一つしかありません。

 

ところが『幸せになる方法』を売る人間は、「今のあなたで十分ですよ、幸せですよ」と言ってくれません。

 

否、口では言っている人もいるかもしれません。

しかし、彼らが自分の『幸せになる』メソッドを売るために発しなければならないのは、

「今のお前のままだといけない」「これを買わねば幸せにはなれない」というメッセージであったり、

自分がいかに金持ちか、高級ブランドを持っているか、贅沢品を食べているかをアピールする写真なのです。

実は、教祖様も悪意があって、そんなアピールをしている人は少ないと思うのです。

本当は彼らも自信がないのです。自分が幸せだという自信が。

教祖様自身も、誰かに「あなたは幸せだね」と思ってほしいと願っています。そうして自分が幸福な人間だと信じたいのです。

自分がいかに豊かかをアピールすることで、信者たちから「幸福な人」と認めてほしいのです。

なぜなら彼らも、自分の感覚を忘れてしまっているからです。

そう、教祖様も信者と同じように、幸福を自分の感覚ではなく、他人に定義してもらうことで、手に入れようとしているのです。

だから、高価なブランド品や海外旅行などの、一目見てわかりやすい富の象徴を見せびらかします。

こうしてそんなメッセージやアピールを間に受けた信者達は、自分がいかに「不足」しているかを強く認識させられ、

教祖様に縋り付かなければ幸福になれないという恐怖を感じるのです。

 

 

 

 

幸福というのは、喜びや楽しみ、嬉しさといったさまざまな感情を通して、形作られるものです。

だからあなたが幸福になりたいのなら、自分の感覚に素直になることが必要なのです。

そうして何よりも、あなたに大切な人がいるのであれば、その人と過ごす時間を大切にしてほしいのです。

先日、こんな名言を知りました。

 

人生の終わりに、テストに合格しなかったとか、裁判に負けたこと、取引をまとめられなかったことなどを、決して後悔しないでしょう。夫や子供、友人、あるいは、親と共に過ごさなかった時間を後悔することになるのです。

バーバラ・ブッシュ

 

 

 

 

私は食器やカトラリー集めが好きなのですが、

子育て中はなかなか外に買いに行くことができないので、利用するのは専らネットショップです。

この世界には美しい食器がたくさんあるものですから、見ているとついあれもこれも欲しくなってしまうことがあります。

しかし、欲しいものを全て買うには到底、お小遣いでは足りません。

そうして見ているうちに、いつしか「食器を買うこと」が手段ではなく目的となっていることに気づきます。

本当は、美しい食器を使って手作りのお菓子を、大好きな家族や友人と食べたいと望んでいたはずなのに、

食器を買うこと自体が自分の望みだと勘違いしている自分がいるのです。

そうすると途端に、食器をたくさん買えるほどのお金がない自分を『不幸』であるかのように感じてしまいます。

私は、お菓子を作ることにしました。

今が旬の苺を使ったタルトを。

そうして作った苺タルトを、今すでに持っている食器に盛り付け、家族で食べました。

そう、私が食器を通して本当に味わいたかった幸福は、集めること自体にあるのではないのです。

大切な人と過ごす時間に、「美味しいね」と喜びながら食べる時間に、その食器を使うことにあるのです。

そうしてそれは、新しい食器でももちろん味わえますが、今持っているお気に入りの食器でも十分味わうことができるのです。

 

 

 

 

幸福のためのセミナーやグッズを売る人たちを見ると、ダイエット業界と似ているとつくづく思います。

ダイエットも、時代ごとに「林檎ダイエット」「レコーディングダイエット」「低糖質ダイエット」だとか、様々なメソッドが現れては消えてゆきます。

そのどれも、体質や性格により、合う人合わない人がいます。

しかし提唱者、あるいは出版社は、そのメソッドがさも「真実の方法」で「誰にでも効果がある」かのように謳います。

また、ダイエット食品やエクササイズグッズも、「これだけで痩せる」「〇〇するだけ」と、さも簡単に魔法のように、効果が出るように宣伝されます。

しかし、残念ながら、何かを購入するだけで、魔法のようにたちまち痩せることなど無理です。

幸福もこれと同じなのです。

それぞれの方法に向き不向きがあり、優劣があるわけではありません。

また、何かグッズを買うだけ、セミナーに行くだけで、すぐに幸福な人生に変わることはありません。

筋トレを1日やっただけでは、置き換えダイエットを一食しただけでは痩せないように、

幸福も毎日の積み重ねで形作られるものなのです。

ひとは、細やかな喜びを見つける日々を繰り返すことで、幸福な人生を描くのです。

 

 

 

 

例えば、

『50歳で亡くなった貧乏なAさん』と、

『90歳で亡くなったお金持ちなBさん』と、

どちらの方が幸せな感じがしますか。

きっとBさんでしょう。

でも、Aさんは愛する人といつも仲良く過ごし、ご飯が食べられることや太陽のあたたかさ、家族の存在に毎日感謝しながら生きた人で、

Bさんは家族といつも喧嘩して、疎まれ、何を食べても「美味しくない」と貶してばかりいた人だとしたら、

果たしてどちらが幸せな人生を送ったと言えるでしょう。

 

或いは、『生涯独身だったCさん』と

『結婚して3人の子供に恵まれたDさん』と、どちらが幸せな人に見えるでしょう。

もしかすると、Dさんかもしれません。

しかしCさんは、やりがいのある仕事をして、心許せる友人との食事や、一人で自由気ままに旅することを楽しむ人生を送っていて、

Dさんは家庭に閉じ込められることを恨み、憎みながら過ごし、子供のこともちっとも可愛いと思えず、夫と毎日喧嘩して過ごしていたとしたら、

いったいどちらの方が『幸せな人』と言えるでしょう。

幸福は『お金持ち』『結婚』といった条件にあるのではなく、その人それぞれの日々の過ごし方にあると思いませんか。

 

 

 

 

幸福は、喜びは、セミナーで教えてくれる未来にあるのでも、

スマホ越しに見える教祖様が知っているわけでもないのです。

今ここに存在するあなたの中にあるのです。

スマホを置いて、周りの景色をよく見てください。

教祖様にお金をかけるのを辞めて、一度その大切なお金を、10分の1、100分の1でもいいから、あなた自身か、もしくは大切な人のために使ってください。

使いたいものが思い浮かばないなら、大事に貯めておくのも良いでしょう。

「使ってはいけません、貯めておきなさい」と叱られながらする貯金は確かにつまらないものですが、

「いつか素敵なものを見つけた時に使おう」と思いながらする貯金は、使うのとまた違った楽しみがあるのではありませんか。

 

私は、教祖様の本やセミナーの全てを否定するわけではありません。

私自身、自己啓発の本で得られて感謝している知識もあります。

『趣味の範疇』、つまり自分のお小遣いの範囲でなら、(また、周りの人を不快にさせる行動をしないのであれば、)そうしたものを楽しむのも良いと思うのです。

しかし、そういったものに、あなたの大切なお金を、何万何十万とかけているのなら、(勿論あなたが億万長者なら別ですが)、それはやめたほうがいいと思うのです。

 

 

 

 

私の母はスピリチュアルやセミナーが好きです。

彼女は熱心に誰かの信者になることはありませんが、しょっちゅう怪しげなスピリチュアルグッズを買ったり能力開発セミナーに行ったりしては、ちっとも身にならずに飽き、また新たな面白そうなものを探します。

私は母のそんなところが好きではありませんが、それも母の一部なので仕方がありません。

母自身で稼いだお金の使える範囲でやっていることですし、私に何か迷惑をかけているわけでもないので、私に口出しする権利はないのです。

私は母のスピリチュアルグッズやセミナーにお金をかけることが理解できないように、

母は私が食器にお金をかけることを理解できないし、もしかすると無駄だと思っているかもしれません。

それこそが個人の幸福の感じ方の違いなのです。

 

 

 

 

時間がある日には、掃除をしましょう。

大切なあなたが過ごす場所ですから、綺麗にしましょう。

めんどくさければ、リビングの気になる部分だけ片付けましょう。

 

そうして綺麗になった部屋で、あなたが用意できる範囲で、好きなお菓子を食べてみましょう。

お気に入りのコンビニ菓子でもいいし、お菓子作りが好きなら何か作ってみるのもいいかもしれません。

甘いものが苦手ならば、好きなおつまみも素敵ですね。

そうして、あなたのお気に入りのカップで、好きな飲み物を入れましょう。

食器に興味がないのなら、紙コップでも十分ですし、コンビニのコーヒーを買うのも良いでしょう。

 

食べることに興味がないならば、大好きな本や漫画を読みましょう。

感動した映画を観たり、音楽を流したりするのも素敵ですね。

 

お金をかけなくても、どこかへ行かなくても、幸せはそこにあることに気づくはずです。