感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]幸福な人生と不幸な人生

幸福な人生、そして不幸な人生とはどんなものか、最近よく考える。

 

もともと「自分なりに思う、幸せになる方法」を謳って漫画描いてたのになんでやねーんとツッコミを入れられてしまいそうだが、自分の中での「幸福」の定義が、最近変わってきたように思う。

 

 

 

以前の私は、恐らく世間一般の認識と同じように『健康で、豊かで、愛情が満たされていること』こそが幸福な人生だと思っていた。

でも最近、本当にそうなのかな?と思うようになったのだ。

というのも、祖母の人生を知ってからである。

 

 

私の祖母の人生は、壮絶なものだった。

 

幼い頃に戦争のためにドイツ人の父親と離れ、養子で入った家では養育費を使い込まれたために貧しい暮らしをし、結婚したものの長男を病気で亡くし、夫とはうまくいかず末の子が1歳の時に離婚し、子供とは生き別れとなり、十数年後にようやく子供と再会できた時には余命僅かで、若くして癌で亡くなってしまった。

それが私の祖母である。

 

 

普通に考えると「不幸な人生」そのものだと思う。

だから、私はずっと祖母のことを、可哀想な悲劇のヒロインだと思っていた。

 

 

だけれど、実態はどうも違ったらしいのだ。

 

 

というのも、祖母はすごくピシッとした厳しい感じの賢い女性で、様々な困難を潔く受け入れ、潔く生きた、ということを、以前占いしてもらった霊能力がある人に言われたから。

霊能力で言われたことを100%真に受けるのもどうかと言われそうなのだけども(^_^;)

ただ、祖母を一番よく知る伯母に聞いても、その通りだと言っていたので、私はそのことを本当だと信じている。

 

そして、私の伯母はこう言っていた。

「母は死ぬまでの数ヶ月間に、人生で大切なこと・・周りの人を愛することの大切さを教えてくれた」と。

 

 

 

祖母の人生は本当に「不幸な人生」だったのだろうか。

 

 

 

私は祖母のことを思えば思うほど、幸せや不幸というものを杓子定規ではかって人に当てはめることの怖さ、そして傲慢さを感じるようになったのだ。

 

 

 

例えば、これは実在する人物ではないけれど、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ

彼女の人生だって、家や財産を失い、恋に破れ、子供を失い、やっと気付いた本当の愛さえも失うという、普通に考えれば不幸のオンパレードな人生なわけだけれど、

どんな時も希望を失わずに、未来を信じて逞しく生きる彼女の姿は、決して「可哀想」に見えないと思う。

 

 

 

私はこれまで祖母のことを「可哀想」だと思っていたが、伯母の話を聞いて、

そう思うことはかえって彼女に対してすごく失礼なことではないか、と思うようになったのだ。

 

 

 

私が祖母を「可哀想な人」「不幸な人」と形容してしまうことは、彼女が数々の辛く悲しい出来事を乗り越えたこと、そしてそれを乗り越えて伯母たちに伝えてくれたことを無かったことにしてしまうような、そんな気がするのだ。

 

 

 

そして、祖母のことを思うと対照的に思い出すのが、父のことだ。

 

 

 

私の父は、1歳の時に母親(先程出てきた祖母)と離れた。父親は育児に無関心だったため、曽祖父母や親戚に育てられた。

そして彼らからは「母親に捨てられたなんて可哀想に」「子供を捨てるなんて犬畜生にも劣る母親だ」といったことを言われながら、とにかく甘やかされて育ったらしい。

そんな父がどうなったかというと、

小さな幸せに感謝できず、どんなことにも悪意があるように受け止め、嫌なことは全て周りや自分の運のせいにする人間になってしまった。

(ただ、年をとってご先祖様に手を合わせる習慣をつけてからは、その癖もだいぶ落ち着いたようだ。)

そうして彼は三度の結婚に失敗し、今は一人で暮らしている。

曽祖母はそんな風に育ててしまったことをずっと悔やんでいたらしい。

 

 

私は、父の不幸感を増幅させたのは、母親を失うという悲しみよりもむしろ、周りの人間の「可哀想」という言葉だったのではないかと思うのだ。

 

 

 

 

「お前は不幸だ」「可哀想だ」という言葉は、本当に相手を不幸で可哀想な人間にしてしまうだけのインパクトがある。

また、この言葉の厄介なところは、言われた人にとって絶妙に居心地がいいところだ。

なぜなら、可哀想という言葉にぶら下がっていれば、自分は何の努力をしなくても、何を改善しなくてもいいような気がするし、「不幸だ」という言葉を信じれば、自分の身に起きる全ての災厄は運のせいにすることができるからだ。

つまり、「可哀想」「不幸」でいることは、楽なのだ。

 

「可哀想」でいることの真の恐ろしさは、身の回りにあるささやかな幸せや喜びに気がつけないことにある。

むしろ小さなことで感謝するのは、損だとすら思うようになる。

感謝するのは自分の幸せのためであって、他人のためではないのに。

そして自分は不幸だから、可哀想だから何をやっても許されるという間違った認識を肥大させると、ゆくゆくは他人を傷つけることを正当化してしまう。

そしてまた、他人の不幸をも生み出してしまう生き方をしてしまうのである。

 

 

 

さて、先程の私の父の話を読んで、結婚に何度も失敗して一人で過ごす父のことを「不幸な人間」と思った人もいるかもしれない。

そんなあなたはまた、自分の「可哀想」の定義の罠にハマってしまっている。

 

父は今、独り身ではあるが、昔よりもずっと楽しそうに生きている。

結局、彼は幼い頃のコンプレックスから、温かな家庭に憧れがありつつも、実際は家庭に身を置くというのが向いてなかった人間だったように思う。

 

私は父には若干の恨みはありつつも、父の優しさを知っているし、金銭的に支えになってくれたことは本当に感謝しているから、娘として出来る限りの事はしたいと思っている。

だから父の日や誕生日のギフトは欠かさないし、年に数回は帰省するし、子供たちの写真を送ったり、ビデオ通話をしたりもしている。

 

この、普段は一人で自由気ままに過ごしつつも、年に数回家族サービスを受けるぐらいの距離感が、父にとっては一番過ごしやすいものらしい。

(恐らくだが、父が私と同居したとしても、最初は嬉しいかもしれないが、そのうち息苦しさを覚えるだろう)

 

父が結婚に何度も失敗したことは、確かに父にとって悲しい辛い出来事だったとは思うが、だからといって彼を「不幸な人」と定義付けてしまうことは、彼が離婚を通して経験したことや学んだこと、離婚したからこそ味わえる今の喜びをも、全て否定してしまうことになってしまう。

 

実際のところ、私は少し前まで父のことを「可哀想」だと思っていたが、今はそう思うのはやめた。

それはやっぱり父に対してすごく失礼なことだからだ。

 

 

 

さて、それでは、どんなことでも「幸せ!」「喜び!」と思い込んで生きれば幸せになるかといえば、そうでもないと思う。

昔の私がそうだった。

 

実は私、中学生の頃は自分のことを「可哀想」だと思っていたのだけど、尊敬する人から「自分のこと、可哀想って思っちゃダメよ」とすごく念を押して言われたことがあった。

そしてその人はそれからすぐ亡くなってしまった。

その言葉が強く残っていて、それからはずっと、自分のことを可哀想だと思わないようにいつも気をつけていた。

 

でも、私は大事なことを知らなかった。

 

それは、「可哀想」と「悲しい」は別、だということ。

 

私は自分のことを可哀想と思いたくないあまりに、悲しいことや辛いことが起きた時もいつも「これも幸せ」「感謝しなくちゃ!」と思い込むようにして、自分の悲しみを無かったことにしていた。

 

でもそうすると、自分が心の底で感じている悲しみを否定することになる。自分の心を否定することは、自分自身を否定することと同じである。

すると、何でもない時に涙が出たり、無気力になったり、過食や衝動買いに走ったり、ダメな恋愛に依存したりと、私ははたから見て、到底幸せとは呼べない状態に陥ってしまった。

 

そのことに気がついてからは、私は悲しいときは「悲しいな」、辛いときは「辛いな」と素直に認めることにした。

そうして、自分の心を満たすために何ができるかを考えて、自分に優しくするようにした。

 

そうすると、悲しみを否定していた時よりずっと元気になり、また心が強くなった。

ダメな恋愛やドカ食いや衝動買いなどの不健全なことをしなくなり、心から幸せを感じられるようになった。

 

だから、悲しみや苦しみを感じている時に無理に「幸せ」と思い込む生き方も、やっぱり幸福とは呼べないと思う。

 

 

 

さて、結局「幸福な人生」「不幸な人生」とは一体なんだろう。

 

 

 

悲しい出来事を全て「不幸」と捉えて、周りにある幸せや喜びに気がつけないのは当然不幸であるし、

「不幸」になりたくないあまりに、悲しみを押し殺す生き方も、本人がどれだけ自分を幸福と思い込んでいるとしても、はたから見れば到底幸せには思えないと思う。

 

 

自分の人生は「幸福である」と信じて、今ある幸せや喜びに目を向け感謝すること、

生きていく中で「悲しみ」や「苦しみ」を感じた時には、それを受け止めて糧としていくこと・・

そんな生き方を、幸福な人生と呼ぶのかなと、今の私は思っている。

 

 

ただ、他人の人生を「幸福」「不幸」とジャッジする権利は誰にもない。

それをしていいのは、自分の人生だけである。

 

 

だから私は、自分の人生が幸福であることを信じて、今日という一日を生きていくのだ。