感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]「成功」と「失敗」

最近、自分の良くないところに気がついた。

 

 

 

それは、『勝手に相手のことを幸せか不幸かジャッジしてしまうところ』。

 

 

 

私の性格の悪さがバレる話になるのだけど、

例えば、誰かの『有名な企業を辞めた』という話を聞くと、私はすぐ

「ああ・・そんな会社を辞めるなんてもったいない」

「嫌なことから逃げても、また嫌なことが起きるだけなのに」

などと、勝手にあれこれ考えて、そのことを『失敗』とカテゴライズしてしまう。

本当に、失礼な話である。

 

 

仕事だけでなく、失敗談や離婚話にも、いちいち

「そんな目に合うなんて可哀想だな」

「大変だったんだな」

と、考えてしまう・・・。

 

 

しかし、最近思うのだけれど、そうした出来事を

「失敗」や「不幸」と、カテゴライズして、本当にいいのだろうか。

 

 

例えば、先程の例でいえば、

元いた有名企業が良い企業とは限らない。

転職した先の会社が自分にぴったりで、仕事が楽しくなる可能性は十分にある。

或いは、起業して成功する可能性もある。

 

 

離婚したことで、新たな出会いが生まれてもっと幸せな結婚ができるかもしれないし、

或いは一人で生きていく方が自分に合っていると気付いて、自由気ままに生きるのを楽しめるかもしれない。

 

 

それぞれの出来事がどんな未来に繋がるかなんて誰にもわからないのだ。

 

 

もっというと、

有名企業に勤め続けていれば、精神を病んで仕事ができなくなるかもしれない。

いや逆に、辛抱強くあと3年頑張れば、出世して仕事も楽しくなっていた可能性もある。

 

結婚生活を我慢して続けていたら、ストレスで体調を崩していたかもしれない。

いやもしかすると、結婚生活を続けるために夫婦で話し合った結果、自分を省みることができて、仲が良くなった可能性もある。

 

 

つまりは、どんな選択をしたからといって、すぐにそれが「成功」「失敗」と言い切れるわけがないし、ましてやそれによって「幸福」「不幸」が確定するわけでも無いのである。

 

 

 

しかし私は、どの選択をするかで、人生の幸不幸が決まると思ってしまう癖がある。

大切なことは、どんな選択をするかではなく、選択した先でどのように生きるかなのに。

 

 

☆☆☆

 

 

私の娘はこの春から、幼稚園に行き始めた。

実は、私の住んでいる地域ではとある幼稚園がものすごく人気がある。

施設も綺麗だし、先生達のコミュニケーションも良く取れているし、園の取り組みも面白いそうだ。

 

私の周りのママさんは、ほとんどがその幼稚園に行かせている。

私もできることなら、その幼稚園に行かせたいなと思ったが、それはできなかった。

 

そこは少し遠く、車を持たない我が家では、いざという時の送り迎えができなかったからだ。

結局私は、家から近い幼稚園に通わせることにした。

 

笑われてしまうかもしれないが、家に近い方の幼稚園に通わせることになった当初、私の心はいつもビクビクとしていた。

 

果たしてあの幼稚園で良かったのだろうか・・

大切な娘に、最良の選択ができなかったのではないか・・

もし、人気の幼稚園に通わせていたら、もっと娘の人生が充実していたのだとしたら、

私はとんでもなく申し訳ないことをしてしまったのではないか・・

 

そうした不安が頭に浮かぶと、苦しくて仕方がなかった。

 

 

今思えば、全く、通わせている幼稚園に失礼極まりない考え方である。

 

しかし私は怖くて仕方がなかった。

自分の選んだ道が、最良ではないかと思うと気が気ではなかった。

自分のことならまだしも、大切な娘のことである。

 

 

不安でたまらなくなるたびに、私は自分の頭の中を洞察することにした。

そして、あることに気がついたのだ。

それは、幼稚園選びを「成功」「失敗」の二択で考えていたことである。

もっというと、「失敗」をすればそれは「不幸」そのものになってしまうと、無意識に考えていたということである。

 

 

評判の良い幼稚園に通わせることが、全ての子供にとって良いこととは限らない。

子供によっては、違う幼稚園のほうが相性が良いこともあるだろう。

それに、仮に通わせている幼稚園が娘に合わなかったとしても、

別の園に転園すればいい話である。

あるいは、転園しても状況が一向に良くならないのなら、幼稚園を辞めることだって選択肢の一つだ。

 

 

そして、その経験から娘や私が得ることもあるかもしれない。

「こういう雰囲気の人や施設は合わないな」ということがわかるかもしれない。

もし小学校に入った時に「幼稚園より小学校のほうが楽しい」と思ったとしても、その時に、「何故幼稚園よりも小学校の方が楽しいと思えるのか」ということに着目してみれば、

自分に合う環境や、人付き合いの仕方が見えてくるかもしれない。

するとその情報は、もっと先の進路を考えるうえで、良いヒントになるだろう。

 

 

要は、嬉しい経験にも悲しい経験にも、合う場所にも合わない場所にも、それぞれ学ぶことはあるのである。

第一、自分にどんなものが合うかというのは、「合わないもの」を経験してみないと、わからないのである。

 

 

☆☆☆

 

 

 

私は昔、営業や事務の仕事をしたことがあったが、

自分にはまるっきり合わない仕事だった。

会社からの帰り道、私はいつも仕事ができない自分自身を責めていた。

どうして他の人はちゃんとできるのに、自分にはできないのだろうと思うと、苦しくて仕方がなかった。

 

主婦の現在は、毎日大好きな家事ができることを幸せに思っているが、

時々ふと「合わない仕事なんてやらずに、最初からお嫁さんになってた方が良かったのかな・・」と思うことがあった。

 

しかし、もし働いていなければ、仕事の大変さがわからないままだったので、夫に今ほど優しく接することができなかっただろうし、

「合わない仕事をする辛さ」がわからないので、子供に対しても、その子の適正よりも「給与が高い仕事をするべきだ」という価値観で、仕事を強制するような母親になっていたかもしれない。

また、自分が仕事よりも家事の方が楽しくできる人間だと気づかなかっただろうから、外で働く夫のことを妬ましく思ってしまったかもしれない。

 

それに何より、自分がいかに仕事ができないかを受け入れてから、不完全な自分を愛せるようになったことを思うと、やはりあのときの経験は、

毎日叱られて、恥ずかしくて、悔しくて、二度と戻りたくはない日々だけども、

やっておいたことに損はないなと思うのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

恋愛に関しても、同じ経験がある。

 

最近、知人と雑談した時に、

「何故ご主人を結婚相手に選んだんですか?」と聞かれたことがあった。

私が夫を選んだ理由は、『誰よりも私のことを大切にしてくれたから』である。

そう答えると、「若いうちにそのことに気づかれて良かったですね」と言われた。

 

 

私は若い頃は、ダメな恋愛ばかりしていた。

かっこいい人を見てはすぐに舞い上がり、運命の恋だと信じて突っ走っていた。

なので、真面目なイケメンにはドン引きされてフラれるか、遊び人のイケメンからは遊ばれて終わる恋愛ばかりしていた。

 

そんな恋愛ばかりして、やっと気づいたことは、

「見た目のかっこよさなんてどうでもいい、誰よりも私のことを大切にしてくれる人がいい」

ということだった。

 

私の夫は、私は個人的には好みの顔なのだが、世間一般で言う、いわゆる『イケメン』ではない。

ファッションも、付き合ってた頃は正直、ダサかった。

どこで買ったのか謎な変な刺繍が入った服や、中学生が着るような英字プリントTシャツを着ていた。

 

 

しかし夫は、それまで出会ったどんな男性よりも、私のことを大切にしてくれる人だった。

 

 

 

知人の「若いうちにそのことに気づかれて良かったですね」という言葉を聞いた時、私の心に思い浮かんだのは

若い時にダメな恋愛ばかりして、傷つく経験をたくさんしたからこそ、夫の良さがわかったんだろうな・・ということだった。

 

 

もし、私が若い頃に夫から告白されたとしても、

顔立ちや、ファッションのダサさにばかり気を取られ、きっと夫の持つ素晴らしさ・・優しさや誠実さや知性といったものは、目に入ってこなかっただろう。

 

 

失敗の経験は思い出すたびに胸がチクリと痛むが(というか恥ずかしくて布団でジタバタしたくなるが)そのおかげで夫の素晴らしさに気がつけたのだとしたら、やはりあの失敗の数々は、自分の糧になっているのだと思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

だから今の私は、失敗も成功と同じくらい、人生においては必要なものだと思えるようになったのだけれど、

失敗を糧とするためには、避けてはいけない感情があるなとも、思っている。

 

それは「悔い」である。

 

 

失敗したことに気がついた時、自分の過ちに気がついた時というのは、

心の中が苦い感情で一杯になる。

この苦い感情の正体こそが、「悔い」だ。

 

その経験に後悔するほど、苦くて苦くてたまらない味がする。

 

ただ、その苦みは避けてはいけないのだ。

 

良薬口に苦しという言葉があるが、その言葉通り、

悔いという苦味は自分の未熟さを気づかせ、成長を促してくれる薬なのだ。

 

(ただ、間違えてはいけないのは、『悔い』という感情と『自分をけなすこと』は別物ということである。

このことは昔のブログにも書いたことがある。)

悔いという感情の考察 | 小咲もものブログ

 

 

過去の私は、何か失敗した時、悔いを味わいたくないばかりに、すぐ「きっとこれで良かったんだ」「自分にとっての学びになったんだ」と、自分に言い聞かせる癖があった。

そうすることで、悔いという苦みから逃げたかったのだ。

 

 

だが、そうやって、悔いから逃げるために自分に言い聞かせる「これで良かったんだ」という声は、

ただの自己弁護や現実逃避の声なのだ。

それは真の意味での「悔い」を味わったことにはならない。

悔いをきちんと味合わずに言い聞かせる「これで良かったのだ」という言葉は、どこか浮き足立った、空虚なものに聞こえる。

 

 

「あの時間違えて良かったな」

「あの時の失敗のおかげで、今があるんだな」という言葉は、自分に言い聞かせる呪文ではなく、悔いという苦味を消化した後に、自然と溢れてくる感情である。

 

 

悔いの苦みから逃げることは簡単だが、逃げてしまうと、またいつか同じ失敗を繰り返すこととなってしまう。

それは、自分の欠点を治すための薬を、飲まずに放置することと同じだからだ。

 

 

 

また、良いものであれ悪いものであれ、『感情』を打ち消すことはできない。

なぜなら感情は、コントロールできないものだからだ。

無理にコントロールしようとすると、心は傷ついてしまう。

心は傷つくと、過食や買い物依存などの、色々な問題を引き起こす。

だから、悔いという感情も、無理に打ち消してしまうと、やっぱり何か問題を引き起こしてしまうものなのだ。

 

 

 

だから、「悔い」はきちんと味合わなくてはならないのだ。

「この苦味は、自分を治すために必要な苦味なのだ」と信じて、感じなければならないのだ。

 

 

 

私はこれからも、何度も失敗はするだろうし、

その度にあの「苦〜い感情」を味合わなくてはいけないのだろうけども、

「この苦みは、自分を成長させてくれる薬なのだな」と思いながら、私は悔いという感情を味わうのだろう。

 

 

 

そして、その苦味を味わった後で、その失敗を糧に進むことができれば、

それはより良い未来に繋がるだろう。

その時、「あの時に失敗したおかげで、今の自分がいるんだな」と思うと、

過去の失敗は自分にとって無くてはならない、素晴らしい経験となるのだろう。

 

 

 

そして、このことを思った時に、私は偽スピリチュアルや自己啓発セミナーなどのカルトの本質的な問題点が、わかった気がする。

だから、次回はそれについて、語りたいと思う。

 

 

 

また、ちょうどこの記事を書いてる時に、「自分の失敗が糧となった」と思える出来事が起きたので、その時の話も、後々書こうと思う。