感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

動くと変わる(こともある)

その日、私は激怒していた。

 

 

来年、幼稚園の制服が変わるのだ。しかも、ブラウスやスカートだけではない。上着も、リュックも、帽子も、全てが変わるらしいのだ。

変わった理由は、それまでの制服が原材料高騰のため値上がりするからで、新しい制服はもっと廉価なものになるとのことだった。

それは良い。少しでも安い制服に変わるなら新しく入園する方達は嬉しいことだろう。

問題は、旧式の制服のお下がりは不可で、来年以降入園する児童はみんな新しい制服を買わねばならないと通達されたことだった。

 

 

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我が家には、4人の子供がいて、下2人は来年以降の入園となる予定だった。

しかも上から女、男、女、男という順番で生まれ、全員2歳差である。

つまり、幼稚園の決定によれば、我が家は既に持っている旧式の制服男女2種類に加えて、新式の制服一式も男女2種類買わなければいけないことになるのである。

 

こんなバカな話があるか!

 

 

…くだらないと思われるかもしれないが、私ははらわたが煮えくりかえる思いをしていた。

私は生まれも育ちも大阪の生粋の大阪人、ケチに生まれケチに育てられケチなことに誇りを持つ人種である。

必要なものにお金を払うのならいい。しかし、高い金を出して払った制服はまだまだ使えるし、せっかく上の子が卒園した直後に下の子に使える歳の差なのに、なぜ新しく買わねばならんのだ。

 

おまけに、長女は、最初制服を買った時よりも想定を超えてでかくなったので、昨年はさらに大きなサイズのものを買い足していた。

それもこれも、下の子におさがりできるからいいという気持ちで買い足したのだ!その目論見がパァになって、私は過去の自分の首を絞めたい気分になった。

 

 

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そもそも、制服が変わるという知らせは夏頃に聞いていた。

だが、その頃の私はまだ楽観視していた。

(制服だけならまぁ…きっとスカートやズボンが変わるのかな?ブラウスやリュックとかは変わらないでしょ)

(お下がりなら、旧式の制服も使って良いでしょ)

そう思っていたのだ。

実際、ママ友の通わせてる幼稚園は、制服が切り替わった後でも旧式の制服は使ってもオッケーで、

「時々それいつの時代の?レベルの昔の制服着てくる子もいるわよ〜!」と言っていたからだ。

 

ところが秋になり、幼稚園の先生に聞いてみると、制服はスカートどころかブラウスやリュックまで変わるし、切り替わった後に入園した児童は旧式制服は一切着てはいけないという。

ちなみに制服の切り替えは幼稚園が開園して以来一度も行われたことがなく、これが数十年で初めての変更だとのことだった。

申し訳なさそうにそう話す先生に、私はとても「わかりました」とは言えなかった。

 

「…納得できないです。でもこれは園長先生が決めることですよね。私、園長先生に話してみます」

 

そう伝えて、私は帰途についた。

 

私の魂には、熱い炎がついていた。

なんとか自分が動かねばならない、と思ったのだ。

 

 

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…熱い炎がついた、とは言ったものの、最初の私は自分が動くことに100%の気持ちでいたわけではない。

頭の中ではこう自分を説得する気弱な声もあった。

 

「まあ、夫が急に転勤することだってあるし、そうなったら幼稚園の制服はどのみち買い替えるものよ?」

「知り合いのTさんは、車を買った後に海外転勤になっちゃったわよ?」

「幼馴染のYちゃんのご両親なんか、家を買った1週間後に海外転勤になって30年以上経ったのよ?」

「それよりずっとマシじゃない!幼稚園の制服代なんて、そんな小さなお金にケチケチしちゃ恥ずかしいわよ!」

 

しかしそうやって自分を何度説得しても、どうしても納得できないのだ。

自分の事情で買い換えるのは仕方ない。

でも数十年間、制服の切り替わりがなかった時には皆お下がりができたのに、切り替わり時期に在籍していたというだけでそれができないのはあまりに理不尽に思った。

それも、ただでさえ兄弟育児でお金がかかるし、物価もどんどん上がっている中である。

 

とにかく、園長先生と話さなければならない。

 

…そう思ったが、電話するのは憚られた。

 

私は、怒るとかなり口が悪い。

しかもこの時はかなり頭に血が昇っていたため、電話だと汚い関西弁で罵ってしまいそうだった。

「テメー何考えてんねんボケ!なんでテメェの勝手でこっちが金払わなあかんのじゃコラ!」

ぐらい言ってしまいそうだった。これでは我が家の品格が疑われてしまう。

 

それから、一番の問題は、自分が抱いているのが怒りの感情だということだった。

 

30年以上生きてきて経験として理解したことなのだが、怒ってる時に動くとあまり良いことがない。

たいてい良くない結果になるし、もし怒り口調でまくしたてて脅すように自分の言うことを聞かせられたとしても、その時は良く見えても後で必ず嫌な結果になるのだ。

私の母風にスピリチュアルっぽく言えば、"出してる波動が悪い"のであろう。

 

この感情の状態で動くと、絶対に、間違いなく、悪い結果になる気がした。

深呼吸して心を落ち着かせようとしたが、私の頭は相当にほてっていて、すぐには冷めなかった。

 

そこで私はとある秘密兵器を出すことにした。

 

アイスである。

 

 

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冷凍庫には、普段から精神安定剤と称してアイスを備蓄してあった。

このアイスは、育児でどうしようもなく腹が立った時、子供達が寝た後にそっと食べるために備えているものだ。

しばらく使っていなかったそれを使う時がきた。

 

夜、子供達が寝静まった後、私は備蓄の中でも一番高級なハーゲンダッツを取り出し、食べた。

甘味と冷たさが、身体中に染み渡る。

今日は幼稚園へのお迎えもあって疲れてたし、そんな中で制服の話を聞いて、私が思っているより心と身体はヘトヘトだったんだな…と気がついた。

1個じゃこの疲れた悲しみは癒えそうになかったので、もう1個食べた。

少しだけ、心が軽くなった気がした。

 

 

アイスを食べながら、園長先生にどう話そう…そう考えた時、良いアイディアが浮かんだ。

手紙だ、手紙を書くのだ!

 

電話だったら感情的になってしまうかもしれないし、要点がぼやけるかもしれない。

でも手紙なら、怒りの感情は込めづらいし、論理的に伝えることができる!

しかし、その日はもう遅かったし、まだ自分の怒りの感情は落ち着いていなかった。

それに夜というのは、文章を書くとキツくなりやすいとどこかで聞いたことがある。

私は次の日に手紙を書くことに決め、寝ることにした。

 

 

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翌日。

さあ手紙を書こうと思ったが、まだイライラしている気がした。

こんな時にすぐ文章を書くのは良くない。

 

こういう時は…掃除だ!

 

というのも、私は掃除の時に文章が浮かびやすい。

今までも、掃除の時にふと浮かんだ言葉をTwitterに書いたら不思議と反響があったり、良い喩えが思いついたりした。

以前書いた小説も、掃除の時にいつも描きたいシーンや文章が思い浮かんだものだ。

それに、手紙の前で思いついた言葉を書くよりも、掃除をしながら推敲した文章を書く方が、ずっと伝わりやすいものが書ける気がした。

さらに、掃除をするとそれだけで気持ちがスッキリするから、それだけでイライラを一層鎮ませることもできる。

私は雑巾がけをしながら、どんな風に園長先生に伝えようかと考え始めた。

 

考え始めて、ひとつ大切なことに気がついた。

それは、私がいったい何を求めているか自分自身もわかっていない、ということである。

もっと言うと、怒りの感情に邪魔されて、自分が何を求めているかがハッキリ見えてこない感覚があったのだ。

この点をクリアーにしなくては、相手の心を打つような文章は書けない気がした。

というのも、怒りの感情で支配されている時は、感情を消化することと、相手に何かを求めることを履き違えやすいのだ。

 

相手に何を求めるかを決めないまま、ただ怒りをぶつける人はよくいる。

インターネットで、芸能人の不倫を叩く人や、いわゆる萌え絵を叩く人はこのタイプが多いように思う。

そういう人の何が問題かというと、ゴールが見えない点だ。

自分の不快な感情が続いている限り、相手を変えようとするし、ゴールがどこかを自分自身で理解していないので、相手が何をやっても叩き続け、結果相手を必要以上に追い込んでしまうことになる。

そうなっては泥試合となってしまうので、まず私は、自分が何を求めているか…つまり最終的なゴールはどこなのかを考えることにした。

 

だから私は、自分の心を洞察することにした。

すると、自分の心の中で、怒りの感情が煙のように立ち込めているせいで、自分が求めているゴールが見えづらくなっていると思った。

じゃあ、私に必要なことは、この怒りの感情の発生源を見てみることだ。

怒りが湧く時は、根底に大抵悲しみが潜んでいる。

(なぜなら、悲しみを味合わせまいと、自分の心を守るために湧く感情が"怒り"だからだ)

つまり、自分が何を悲しいと思っているかがわかれば、自分の求めるゴールも見えてくるだろう、と私は考えた。

 

だから私は、「何故、私は怒っているの?」ではなく、

「私は一体、何が悲しかったんだろう?」と、自分の心に尋ねてみることにした。

 

私の心はこう答えた。

「まだ使える制服があるのに、たくさんお金がかかるのが悲しい」

 

じゃあどうすれば、その悲しみを癒せるか…を考える。

制服を変えるな、というのは違う。新しい制服の方が安いのなら、新入生の親御さんはそちらの方がいいだろう。

私が求めるのは、家に旧式の制服があるなら、旧式でも通園可能にしてもらうことだ。

つまり、私の一番のゴールは、「きょうだい児のいる家庭では、旧式の制服でも通園可能」にしてもらうことだと設定した。

 

続いて、この一番のゴールが却下された場合、どういう妥協点があるかを考えた。

まずは自分のゴールのデメリットを考える。

すると、「写真撮影の時などにクラスの統一感が出てこない」という問題があるのでは、と思った。

もし、統一感がないからダメだと言われたら、「写真撮影で映らない帽子やリュックだけでも旧式を認めてもらう」というのを、次のゴールと設定した。

 

それでもダメと言われたら…私はその場合も考えた。

私の怒りの根底にあるのは、いらんお金を使わなければいけないという悲しみともうひとつ、どれだけお金がかかるのかわからないという不安だ。

この不安をなくすにはどうしたらいいかを考えた。

不安は、知りたいことがぼんやりしているから起きる。

つまり「新しい制服の値段がいくらで、旧式よりどのぐらい安くなるかを知ること」で、この不安は軽減されるだろうと思った。

 

自分の目的がハッキリしたことで、私の心は随分スッキリした。

先ほども書いた通り、

①きょうだい児の旧式制服を認めてもらう

②リュックや小物のみ、旧式を認めてもらう

③新しい制服の値段を教えてもらう

この三段階で私のゴールを設定し、後は園長先生に交渉するのだ!

 

そんなわけで、私は早速手紙を書くことにした。

 

 

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手紙を書く時に最も気をつけたのは、怒りの感情を込めないことだった。

こういうのは、気をつけていても文章に出る。

ではどうすればいいかというと、自分の悲しみに焦点を当てて、文章を書くのだ。

私が伝えたいことは、制服が変わる怒りではなく、新しい制服のために余分にお金がかかる悲しみだ。

だから、その悲しみをまず伝えようと考えた。

 

手紙を書いていて改めて気づいたのだが、怒りの感情で伝えようとすると、自分が正義で相手が敵のような言い方をしてしまう。

たとえば、「こんなに無駄なお金をかけさせるなんて、一体どういうつもりなんですか!」というような口調だ。

これが、良くないのだと思う。

この世の中、どんな人も頑張っているのに、その人のできる限りのことをしているのに、はなから敵扱いをされて良い気持ちになる人なんていないし、ましてや協力したくなる人なんて皆無だろう。

また、そんな言い方をする人とは歩み寄りもしたくならない。

 

でも、悲しみを主体に伝えると、相手を敵ではなく、味方として見られるようになる。

「私はこんな理由で困っていて、こんなふうに助けて欲しいのです」というふうに言える。

そうすれば、相手は自分の敵ではなく仲間になってくれやすいのだ。

 

 

私は手紙に以下の点を書いた。

○まだ使える制服が着れなくなるのは勿体無いと思うこと

○他の幼稚園では、制服が切り替わっても旧式のものは着用可としている園もあること

○きょうだい児のみ、お下がりを認めて欲しいこと

○物価高の現在、そのような措置をしてくれるとすごく助かること

 

 

第二第三のゴールである、「せめてリュックや小物だけでもおさがり可能にして欲しい」だとか「新しい制服の値段を教えて欲しい」というのは、書かないでおいた。

これは、第一のゴールが達成できない場合に提案すべきことだと思ったからだ。

 

 

 

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さて、結果がどうなったかといえば…

無事、私の意見が認められ、きょうだい児の場合は旧式の制服も着用可能となった!

 

電話で知らせを受けた時、本当に嬉しくてありがたくて、「ありがとうございます!本当に助かります!」と心からお礼を言えた。

 

これがもし、喧嘩腰に怒りをぶつけて認めさせる形になったら、たぶん、ありがとうを言えなかったんじゃないかと思う。

「そのぐらい認めて当然でしょ!」というさもしい気持ちになっていた気がする。

そうするときっと、相手方にも不快な思いをさせてしまっただろうし、怒りの状態で会話しなくてよかったと思う。

 

 

計算してみると、制服やリュックを全て買い換えるとおそらく1人3万円前後かかる。

この出費がなくなったことは本当にありがたい。

もちろん、旧式の制服で通わせて、もしかしたら、下の子達が「他の子と制服が違うのが嫌」と言い出す可能性もあるかもしれないが、

そうなった時は、子供のためと納得して買い換えることができるだろう。

 

 

 

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そういえば、つい最近、「外国で、舐めた態度で席の横取りをしてきた現地の人に、日本語でキレたらうまく席を取り返せた」という話をTwitterで見た。

なるほど、怒りの感情は、こちらを舐めてかかる人間に対しては有効なエネルギーで、全てが悪いものではないのかもな…と思わされた。

 

私も若かりし頃、露出狂にあった時には「テメェふざけんなコラァァァァ」なんてドス黒い声で叫んだら露出狂が逃げてったこともあったっけ…(でもこれは、襲うタイプの変質者じゃなくてたまたまラッキーだったのもあるけれど)

 

じゃあ、ぶつけたらうまくいきづらい怒りと、ぶつけることで効果の出る怒りの違いは何だろう…と考えてみた。

 

結果、自分なりに出た答えなのだが、

ゴールがどこにあるかハッキリしているかと、

相手に悪意があるのかというのが大きな指標になると思う。

 

ぶつけると悪い結果になる怒りの感情は、ゴールが見えていない。

何かのため、ではなく、自分が抱いている怒りを発散させるためにぶつけるものだ。

 

だが、たとえば奪われた席を取り戻す、露出狂を撃退する、みたいなゴールがハッキリしてることで、相手に悪意がある場合には、怒りというのは自分を守る大きなエネルギーになりうるのかもしれない。

 

今の私はそんなふうに考えている。

 

 

とにもかくにも、動いてよかった。

生きていたら多少の理不尽はあって仕方のないことかもしれないけれど、

どうしても納得できないことには、こうやって動きかけることも大事なんだなと改めて気付かされた出来事だった。