感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]"幸福"と"幸運"

以前、テレビでこんな質問がされているのを見た。

それは、「あなたが一番幸せを感じた時は?」

というものだ。

 

その番組では「子供が産まれた時」「家を建てた時」といった回答があったのだが、それを見て自分なら一体どう答えるだろうと考えて、しばし悩んでしまった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

もしこの質問が、

「あなたが一番ラッキーだったと思うことは?」

という質問だったなら、私はすぐにこう回答しただろう。

 

「夫と結婚したこと」だ。

 

だが、夫と結婚できたことも、夫の大好きなミュージシャンやスポーツ選手と会う夢を叶えたことも、いろいろな懸賞に当たったことも、『幸福』かと聞かれると、なんだかしっくりこない。

 

どれも、私にとっての『幸福』の感覚と違うからだ。

 

もちろん、これらは確実に、私にとって『ラッキーだったこと』ではある。すごく嬉しかったし、大きな喜びも感じた。

だが、感覚としては、私の中での『幸福感』の定義とは全く異なっているのだ。

 

 

 

私が幸福を感じる時は、

たとえば日課である雑巾掛けをして綺麗になった床を眺めた時、

子供達の穏やかな寝顔を眺めている時、

食べたいと思った料理を自分で作ってみて、それがうまく再現できた時、

幼稚園の通園バスから降りてきた娘の笑顔を見た時、

趣味の裁縫で作った洋服が上手に完成できた時、

お気に入りの美しいお皿を使ってお茶とお菓子をいただく時、

家族との楽しかった思い出に浸る時・・・等である。

 

 

そして、これらの時に感じる幸福感はどれも同じぐらいの強さ、大きさなのだ。

つまり、『一番』と呼べるものがない。

 

その時の感覚は、喩えるならば、胸の奥から細かい泡とともにちょうどいい暖かさの温泉が湧いてきて、そこから自分の心や身体全てがじんわりと温まっていくようなものだ。

その温泉の温度はいつも同じぐらいだし、心地良さも一定だから、どの瞬間が一番と比べることができないのだ。

 

 

だから、私の人生の一大イベントであった結婚式の時と、何の変哲もない平凡な日の今日に子供の寝顔を見た時の、どちらが幸福かと聞かれれば、どちらも同じぐらい幸福だと答える。

 

 

 

・・・そんなことを考えているうちに、私はふとこう思った。

 

それは世の中で『幸せ』と呼ばれるものは、"幸福"と"幸運(による喜び)"の二種類があるのではないか-ということと、

その違いを把握していない人ほど、『自分が幸福ではない』ということに悩み、カルト的な物に縋ろうとする人が多いのではないか-

ということだ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

先ほど、『幸福感』について私はこんな感覚であると述べた。

 

胸の奥から細かい泡とともにちょうどいい暖かさの温泉が湧いてきて、そこから自分の心や身体全てがじんわりと温まっていくようなものだ。

 

では、『幸運による喜び』の方はどうだろうか。

 

私が幸運により喜びや嬉しさを感じている時は、自分の心がゴム毬のようにぴょんぴょん跳ねているような感じがする。

そして、その幸運の大きさによって跳ね具合は変わる。

 

 

新婚一年目に夫が大好きなミュージシャンの楽屋招待券に当選した時、私は文字通り跳ね上がって喜んだ。

喜びの強さで言えば、あれは人生で一番大きなもののひとつだっただろう。

 

ちなみに先日、夫が会社のイベントの福引きで一等賞をとって黒毛和牛のカタログギフトが当たった。

勿論、その時も両手をあげて喜んだが、楽屋招待券が当たった時ほど心が"跳ねる"感じはしなかった。

 

そういえば、私の娘は嬉しい時はぴょんぴょん飛び跳ねる習性?がある。

それを見ると、「ああ今娘の心は飛び跳ねるほど喜んでいるんだなあ」と思う。

 

喜びを感じている時は楽しいし気持ちいいが、行き過ぎるとちょっと疲れる感じもする。

それに喜びを感じ切った後は、急に現実に戻る感じがして、寂しさも感じる。

 

 

 

対して、『幸福感』が湧き上がる時は、心が跳ねる感じはしない。変化するのは心の温度だ。そしてそれは急激に変化するのではなく、じわじわと上がっていく感じがする。

 

幸福感は喜びよりも地味だけれども、心地よい温泉に入ってるような感覚だから、疲れる感じはしない。そして、その幸福感は喜びのように急に消えることがあまりない。ただ時間が経つうちにまたじわじわと、元の温度に戻っていく感じがする。

 

 

↑わかりづらいかもしれないけど、自分の心の変化を手探りで文章化するとこうなる(^_^;)

 

 

 

だからといって私は、別に喜びがダメだとか、幸福感の方が優れていると言いたいわけではない。

 

ただ、それぞれ種類が違うというだけの話だ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

これは、恋と愛の違いにも似ているのかもしれない。

 

恋は、夏に飲むソーダフロートの味がする・・・気がする。

愛は、冬に飲むココアの味がする気がする。(ロマンティックではないけど、梅昆布茶でもいい)

 

どちらもその時にしか味わえない美味しさがある。

 

余談だが、昔友人二人(一人が既婚で、もう一人は彼氏がいる子だった)とお茶している時に、未婚の子の方が「彼氏のことは好きだけど、一緒にいると落ち着く感じだからドキドキはしないんだよね・・・結婚してもいいのかなあ」と言い出したことがあった。

 

私ももう一人の友人は、「そんな相手こそ結婚相手に選ぶべき!」と強く推した。

 

「ドキドキするのは最初はいいけど疲れる」「一緒にいてて心地よい安心感こそが結婚生活には大切」「ドキドキしたいなら恋愛漫画でも読めばいい」というのが私ともう一人の友人の共通見解であった。

 

・・・結局、友人はその彼と結婚し、現在は幸せな家庭を築いている。

 

恋と愛の違いについて考えるたび、私はこの時のことを思い出す。

 

 

 

☆☆☆

 

 

話が滅茶苦茶に逸れてしまったのだけれど、結局、幸福感とは何なのだろう。

 

それは、かけがえのない人々と出会えた奇跡や、自分の能力をうまく発揮できたことや、恵まれていることに感謝するときに味わう気持ち・・・

私なりの解釈で言うと、自分が自分として、今この場所、この瞬間に生きていて良かったと実感する気持ちな気がする。

 

 

そして、幸福とは必ずしも喜びだけと結びつくわけではない。

 

たとえば、大切な人の死を乗り越えて、その人のことを懐かしみ、その人から受けた愛を思い返す時・・・そこには少しばかりの悲しみも存在しているけど、きっとそれは幸福なひとときと呼べるだろう

 

子供の寝顔を見て愛しいと感じた時、少し言い過ぎたことを思い出して反省したり、子供に腹を立てたことを思い出して大変だったなぁと思うこともあるけれど、その苦い感情もひっくるめて、私はやはり幸福を感じる。

 

 

その逆に、たとえ喜びを強く感じることが起きたとしても・・・たとえば、かっこいい彼氏ができるとか宝くじが当たるとかしても、それが長い目で見た幸福に繋がるとは限らないことは、誰もが想像できうることだろう。

 

かっこいい彼氏が、DVやモラハラや浮気をするような人だったら、その人との関係に幸福を感じることはできないだろう。

宝くじに当たったことで、身の丈に合わない散財をしたり人間関係で揉めたりして、かえって貧乏になった人や孤独に生きる人などたくさんいる。

 

つまり、喜びを感じたからといって幸福になる道が確定したわけでも、悲しみを感じたからといって不幸になる道に絶対に進むわけでもないのだ。

 

喜びも悲しみも怒りも、一時的な感情の推移でしかないからだ。

 

 

だから、幸福になるために喜びを求めなくてもいいし、悲しみを感じた時に自分を不幸だと思わなくても良いのだ。

逆に、喜びを自重することも、悲しみを無理にポジティブに無理に変換する必要もない。そうすると自分の心を偽ることになり、苦しくなるからだ。

 

 

嬉しい時にはただ嬉しいと、悲しい時にはただ悲しいという気持ちを受け止めるだけで十分だし、それこそが人が人として生まれてきた醍醐味なのだと思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

これまで私は、偽スピリチュアルやマルチ商法に関して批判をしてきた。

そしてそれらを観察していくうちに、そうしたものにハマりやすい人にある共通点を見出した。

 

それは、ネガティブな感情を消化するのが苦手だということだ。

なぜネガティブな感情を消化するのが苦手かと言えば、彼らの多くは、悲しみを感じること自体を不幸なものだと捉えているからではないかと思う。

 

悲しみを感じることは、ただ一時的な感情の推移であるのに、彼らは一度悲しみを味わったらもう二度と幸福な道を歩むことができないと考えてしまうのだ。

 

だから、不幸にならないために、悲しみを味わいそうなものを徹底的に排除しようとする。

 

そうして子供に注射する痛みを味合わせないために反ワクチンに偏ったり、想定外の出来事に遭う悲しみを味合わないためにインチキ霊能者を頼ったりするのではないだろうか。

 

 

また、彼らが陥りやすいもう一つの過ちが、幸福を喜びそのものだと捉えることだ。

だから、自分を"幸福"な人間だと信じるために、お金がたくさん手に入るだとか、結婚ができるとかいう一時的な喜び・・・つまり、幸福ではなく"幸運"を手にしようとする。

 

そのために、「不労所得で儲けられる」と謳うマルチ商法や、「これさえすれば愛される」と謳う偽スピリチュアルに縋ってしまうのではないかと思う。

 

彼らに必要なことは、幸運と幸福とは別物であるということ、

悲しみ=不幸ではないし、喜び=幸福ではないと気づくこと。

そして幸福感というのは喜びよりも地味なうえに、人により感じる対象が違うから、他人に教わろうとするのではなく、自分の感覚を研ぎ澄まして、自分が何に幸福を感じているかを知ることではないだろうか。

 

先ほども言った通り、幸福とは自分が自分として生きて良かったと実感するときに味わう気持ちなのであるから。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

余談だが、私の娘は今、『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』というEテレのアニメにハマっている。

 


原作は本らしい

 

ストーリーはオムニバス形式で、ふしぎな駄菓子屋に迷い込んだ客たちの悲喜こもごもを描いているのだが、そのアニメを見るたびに、私は幸福について考えてしまう。

 

客たちは自分の"幸運"の力を使って、悩み事を解決する不思議な駄菓子を手に入れるのだが、皆が皆"幸福"になるとは限らない。

調子に乗ったり使い方を誤ったりすると不幸な結末を迎えるし、謙虚でいたり人のために力を使ったりする人間は幸福な結末を迎えるのだ。

 

"幸運"と"幸福"とは別物だということが、わかりやすく描かれているなと思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

さて、先程私は幸福感に気づくためには『自分の感覚を研ぎ澄ますことが必要』と書いた。

そのためにはどうしたらいいのかについて、自分なりの経験則的なものを次回書こうと思う。