前回の記事[エッセイ]「成功」と「失敗」 - 感情の考察、日常の幸福
を書いていて気づいたことなのだけれど、
私が以前批判していた、偽スピリチュアルや高額な自己啓発セミナー、マルチ商法などの一番の問題点は、その理論が合っているかどうかや、商品が良い物かどうかよりも、
「方向性が間違っている時に、そうと気づかせない点」にあるのだと思う。
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例えば、某有名心理カウンセラーの男性が以前
「子供は叩いてもいい」と言って炎上したことがあった。
もちろん、子供を叩くことを肯定すること自体も問題なのだけれど、
もっと問題なのは、それを実践した人が、
問題解決に近づかない・・むしろ問題がひどくなってしまうにもかかわらず、問題解決すると思い込んでやり続けてしまうこと
にあるのだと思う。
私自身、イヤイヤ期の子供を育てているので、子供を叩きたいぐらいイライラする気持ちになることはよくわかる。
私は幸い、実際に子供を叩いたことはまだ無いけれど、思い返すと
「もし私が他のことで追い詰められていたら、思わず叩いてしまったかもな・・」
と思うような、ギリギリの状態だったことは何度もある。
もしあの時、子供を叩いていたとしたら、きっと子供はショックを受けて泣き叫び、私は後悔と自己嫌悪の気持ちに苛まれていただろう。
だが、「こんな風に後で悔いるぐらいなら、もう二度と叩かないようにしよう」と、自分のやり方を変えようとしただろうと想像もつく。
そして、叩いたという過去を変えることはできないけれども・・これからどうすれば叩かずに済むのかを、模索していただろう。
しかしもし、私がその心理カウンセラーの言葉を鵜呑みにしたとしたら
「子供を叩いてもいいんだ」
「こんな風に自己嫌悪する必要はないんだ」
「子供を叩く自分を肯定しよう」
と、叩く自分に対して違和感を抱いてるにも関わらず、その違和感を見なかったフリしていただろう。
その違和感は、本当は自分が間違った方向に行っていることを知らせてくれるヒントだったのにもかかわらず、だ。
こうして、自分が自分に対して投げかけてくれているヒントを無視するたびに、
私は自分の感覚や理性、あるいは虫の知らせといったものを封じ込めることとなる。
そうするたびにどんどん、私は自分で考える力をなくすのだろう。
そうして、私が信奉する教祖様の言葉だけが頭に残ることとなる。
その言葉だけを頼りに、自分の生き方を決めるゾンビのような人間になっていただろう。
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もう何度も書いてきたことだが、私は某心理カウンセラーやら子宮系女子やら引き寄せ女子やらマルチ商法やらのことを全否定するつもりは全くない。
彼らが支持されるのは、彼らの理論に何らかの説得力があったり、正しい部分もあるからだとも思っている。
マルチ商法の商品の中にも、効能が優れたものもあるかもしれない。
(余談だが、私の知り合いでマルチ商法が大嫌いな人がいるが、某マルチで売られているとあるサプリだけはその人の体質に合っているらしく、どうしてもそれを手放せないらしい)
信者になった人も、きっと彼らの理論や商品のなかで効果を実感したものがあったからこそ、彼らを信じることになったのだろう。
問題なのは、彼らの理論を全て鵜呑みにしたり、彼らの言うことだけが正解、あるいは商品だけが素晴らしいと思ってしまうことである。
なぜそれが問題かといえば、そのような物の見方をしている限り、
他のあらゆる可能性や、解決策が見えなくなってしまうからである。
また、偽スピリチュアルの教祖様や子宮系女子や某心理カウンセラーやマルチ商法の人自身も、そのように情報を伝えてしまっている。
「私の言うことを聞いていれば大丈夫」
「私についてこれば大丈夫」
「ウチの商品はどこよりも素晴らしい」と、言ってしまう。
なぜなら、そうすることが、集金するために最も手っ取り早い手段だからだ。
また、言われた側もそれを鵜呑みにしてしまう。
そうすることで、思考停止したまま、安心感だけを得られる気がするからだ。
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例えば、あなたが吹き出物に悩んでいるとすれば、その原因を色々さぐるだろう。
食べているものの栄養が偏っているからかもしれないし、精神的なストレスかもしれない。
使っている枕の衛生状態が良くないかもしれないし、或いは化粧水が肌に合っていないのかもしれない。
こういう場合、それぞれの考えられる原因に対して、一つずつ対策を取ってみて、一番の要因を探ってみるはずだ。
だが、もしここで「この化粧水さえ使っていれば肌が綺麗になれるよ」と謳われている化粧水を使っていると、
化粧水が自分に合っていないかもしれないということに気がつくことができない。
或いは、「このサプリさえとっていれば肌が綺麗になるよ」と言われてしまうと、
枕が汚いかや、食べ物に偏りがあるかもしれないという他の要因を考えることができなくなる。
そこでさらに、カルトたちがよく使う言葉がある。
「最初は好転反応で悪いものが出てくるけど、そのあと良くなるから」
「うまくいかないのは、心の何処かで疑っている証拠」
「3年続けてみたらきっと変わるから」
(私の友人は、マルチ商法で実際に「辛いことは多いが、3年続ければ必ず人間力が上がることを保証する」と言われていた)
こうした言葉の中には、人によっては本当に当てはまることもあるかもしれない。
実際に、「好転反応」というものがあったという話を聞いたこともある。
だが、例えばとある化粧水を使ってみて、吹き出物が出てきた人の中には、ただ単に肌と合わなかっただけの人もいるだろう。
しかしそれを「これは好転反応だ」という結論だけに安易に結びつけてしまうと、
その人はずっと合わない化粧水にお金を支払い続けることとなる。
その人は間違った方向に自分が進んでいるにも関わらず、そのことに気づけないままお金と時間を浪費してしまう。
さらには浪費すればするほど、引き返すことが怖くなっていく。
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子宮系女子を信じたり、某心理カウンセラーの本を読んだり、或いはマルチ商法の化粧品を使うことが本質的な問題ではないのだ。
「この人の言うことだけが正解」
「これだけが素晴らしい」と思って、
引き返すタイミングを逸してしまうことが一番の問題なのだ。
以前の私は、そうした某心理カウンセラーやマルチ商法に、できるだけハマる人が出ないように注意喚起したいと思っていた。
でも、今の私は、たとえ某心理カウンセラーの本を読んでいたとしても、子宮系女子の売っているノートを使っていたとしても、自己啓発セミナーにお金をつぎこんでいたとしても、そのことを別に恥じたり、否定したりすることは無いと思っている。
もしかしたら、自分にとって良い情報が何かあったかもしれないし、
彼らにお金をつぎ込んで何の効果が得られなかったとしても、
そのおかげで「お金は大事に使わないといけないな」「他力本願で使うお金には効果がないな」ということに気がつけたなら、それはそれでいい学びになったとも言える。
ただ、うまくいかない壁にぶち当たった時に、
「ひょっとしたら、私が信じているものでは効果がないのかも・・」
「彼のこの理論は良かったけど、別の理論は私には合わないのかも・・」
「この商品は良かったけど、他の商品は私に必要がないかも・・」
と、立ち止まって考えてみることだけは、忘れてはいけないのだ。
たとえそれらを信じたことが、自分にとって恥ずかしい過去になったとしても、周りから笑われるような失敗だったとしても、
そのことに気がついて、次に同じ過ちを繰り返さない方法を考えれば、それは糧となる。
だが、そこで、明らかに自分が違和感を抱いていたり、おかしな症状が出ていたりするのに
「彼らの理論をやればいい」
「この商品を使い続ければ良い」と思い込んでやりつづけてしまうと、どんどんおかしな道へ進んでしまう。
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失敗を認めることは痛い。
悔いを感じることは苦い。
カルトにハマるタイプの人は、繊細な人が多いと思う。
繊細だから、悲しみや痛みや苦みを感じることが怖いと思ってしまうのだ。
特にちょっとしたことで悲しみや痛みや苦みを感じることを、他人から馬鹿にされたり、叱られたことのある人は、
そのことを感じてしまうと負けだと思ってしまう。
本当は悲しみを感じることは、負けることでも惨めなことでもないのに。
こうして悲しみや苦しみから逃げるために、
「嬉しいことしか起こらない人生」を探し、カルトにすがっていく。
守護霊だとか、神様だとか、魔法の歌だとか、不思議なノートだとか、パワーストーンだとかの力で、
「嬉しいことしか起こらない人生」を手に入れたいと願う。
そうすれば、悲しみを味合わなくて済むはずだからだ。
もっと言えば、悲しみを誰かに否定されたり、馬鹿にされたりする絶望を、味合わなくて済むからだ。
また、カルトたちも絶妙に、「悲しみを感じなくて良い」「後悔をしなくても良い」という甘い囁きをしてくる。
「それはあなたが生まれる前に選んできた運命なのですよ」
「あなたが選んだ道は全て幸せに続いているのですよ」といった言葉を利用することで、
『失敗』『後悔』という痛みや苦みは感じなくて良いものだと言い聞かせる。
本当は、その痛みや苦みは自分を成長させるために必要な栄養にも関わらず、だ。
失敗だったと認めること、悔いを感じることで、自分の価値がなくなることは無い。
繊細な信者たちが、彼らの真の幸せのために、本当に必要としているのは、
「あなたは失敗したのではない」「後悔する必要などない」という甘い囁きをする人間ではなく、
「失敗して悲しかったね」「悔しかったね」と、痛む心を、苦い思いを、一緒に受け止めてくれ、
「でも、大丈夫だよ。ここから進もう」と温かい声をかけてくれる存在なのである。
そうした存在とどうすれば出会えるか・・だが、
自分の心の中に作り上げるのである。
あなたが失敗したとき、自分の心に
「失敗して悲しかったね」と語りかけてみると良い。
あなたが後悔していることを思い出した時は、自分の心に
「悔しかったね」と語りかけるのだ。
そうして、悲しみと悔しさを味わった後にこう心に語りかけてみてほしい。
「ここから進んでいこう、大丈夫だよ」と。
☆☆☆
失敗と成功と言うと、エジソンの言葉が有名だ。
「私は失敗したのではなく、1万通りのうまくいかない方法を見つけたのだ」という言葉。
もし、エジソンが電球を作ろうとした時に、明らかに電球が付いていないにもかかわらず
「電球が付いている」と思い込んだとしたら、彼は最終的に電球を発明することはできなかっただろう。
失敗を失敗と認めず、「これで良かった」と思い込もうとすることは、
付いていない電球を「付いている」と言い聞かせることに似ているだろう。
「この方法では電球はつかなかった」ということを認めた上で、
「ではどうすれば、電球がつくのか?」を考えることこそが、
失敗を成功の母とする方法なのである。
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先ほど、カルトを信じる人は繊細な人が多い・・と書いたが、
そうした偽スピリチュアルにハマった人たちが、おかしな方向にいっていることが多いのも
それが原因かもしれないと最近考えている。
一時期流行った某心理カウンセラーや、子宮系などは、
それを信じて借金をしたり、不倫をしたり、子供を棄てた人が出てきたとも聞く。
彼らの頭には、きっとこんな声が聞こえていたと思うのだ。
「そんなことをしたら、子供は傷つくよ」
「周りの人に優しくしたほうが気持ちがいいよ」
「後先考えずにお金を使ったら、あとで大変なことになるよ」
きっとそれは、彼らの理性や第六感的な声だっただろう。
だが、「本能の赴くままにすればいい」
「常識外れなことをすることこそが、幸せへの道」という教祖様の言葉を鵜呑みにして、自分の声を掻き消してしまうことは
結局は自己を否定することと同じなのだ。
つまりは自分のことをちっとも大切にしてはいないのだ。
「自分勝手で迷惑をかけることが、自分を大切にすること」という思い込みをして、
自分の理性や、善意の声をないがしろにしていると、
本当は全く自分を大切にしていないにもかかわらず、自分は自分のことを大切にしている気がしてしまう。
そうして自分の理性的な声や第六感的な声を否定しつづけると、その声はだんだんと小さくなっていき、
自分が本当はどんなことに喜びを感じていたかまで忘れてしまうのだ。
自分自身を大切にすることは、たしかに気持ちのいいことだけれど、
それと同じくらい、誰かの役に立つことや、社会ために働くことも、気持ちがいいものだ。
そのバランスをうまくとることこそが、幸福な生活を送る上で必要なことなのだ。
自分の利益のために他人を傷つける生き方は、そうした社会的な喜びを、あなたが感じていたはずの喜びを、否定する生き方なのである。
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先ほど述べた通り、カルト的なものの理論の全てが間違っているわけでは無いし、
自分にとって良いと思った理論があるなら、そのことまで否定することはないだろう。
そして、信じた結果、ひどい目にあったとしても、
それを失敗だったと認めた上で、また違う方向へ進めば良いのだ。
ただひとつ、カルトの理論の中で許してはいけないことがあるとすれば、
それは他人を明確に傷つけることである。
勿論、自分を傷つけることだって、やらない方がいいに決まっているが、
自分が自分につけた心の傷は、自分で責任を持って、自力で癒すことができる。
だが、他人の心につけた傷は、自分の力で治すことはできないのだ。
なぜなら、心の傷は自分自身でしか癒すことができないからだ。
某心理カウンセラーの理論に触発され、仕事を辞めて人がいたとして、
辞めたことを後悔したとしても、また一から出直せばいいのである。
「前の仕事のこういうところは良かったな」
「でもこの点が嫌だったから、辞めたくなったんだな」
「だから次にはこんな仕事を目指そう」ということを発見しながら、また一歩ずつ歩めばいいのである。
しかし、子供を叩いたとしたら、どうだろう。
そのことを反省して、二度としないと決めたとしても、子供の心に傷をつけた事実は変わることはない。
どれだけ懺悔しても、どれだけ愛情を伝えても、子供の心が回復するかどうかはわからない。
ひょっとしたら回復するかもしれないし、しないかもしれない。
それは子供自身の心に委ねるしかないのだ。
私は、かつて「自分を大切にすること」について、とある老紳士のDさんという方から色々教わったことがあったが、
彼は「自分が責任を負える範囲で、自分のことを甘やかしなさい」と言っていた。
誰かの理論を取り入れる際にも、この考え方は有効だろう。
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偽スピリチュアルや自己啓発セミナーや某心理カウンセラーやマルチ商法を、
「やってみようかな」
「話を聞いてみようかな」と思う人がもし身近に現れたら、
今の私は、そのことを否定しなくてもいいかもしれない、と思っている。
「間違ってるな、おかしいなと思った時に、いつでも引き返せるならいいんじゃない?」
「相手の情報を鵜呑みにしなければ、いいんじゃない?」
「これだけは絶対に正しい!って思い込まなければいいんじゃない?」と、声をかけるかもしれない。
冷静な目で、いい部分と悪い部分を分けて考える目があるなら、大丈夫かもしれない。
だが、皮肉なことに、
「私は分別がつく人間だから大丈夫」
「冷静だから騙されることはない」という自信がある人ほど、一度信用してしまうと、のめり込みやすいのもまた事実である。
だからやっぱり、
「私は鵜呑みにしないから大丈夫!」と言う人には、
「そう言うタイプほど、鵜呑みにしやすいから辞めたほうがいいよ」と言ってしまうだろうし、
「私は騙されてしまうかも・・」という恐れがある人は、怖くて近づかないだろうから、
どちらにしても、「近づかないほうがいいよ」という結論に至ってしまう。
既にハマっている人に対しては、
「良い部分があることは理解できるけど、全部を正しいと思わないほうがいいから、
違和感を抱いたら立ち止まる勇気を持ってみて」と声をかけるかな・・・。
何が言いたいかわからなくなってきたけれど、
「自分たちこそが正しい」
「自分たちに着いてこれば大丈夫」
と、自信を持って言う組織や人は、
たとえそれがどんなに良いことを言っていても、
どんなに良い商品を作っていても、
一歩引いて見ている方が良い気がしている。
何度も言うが、
カルトの一番の問題点は、その論理が間違えていることでも、信じることで失敗することでもない。
ただ、間違えたことや、失敗したことに気づかせない点にあるのである。