感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]『掃う』と『祓う』

突然何の話をするのかと思われるかもしれないが、私は雑巾掛けが好きだ。

今は二、三日に一度は家を雑巾掛けするようにしている。

 

本当は毎日したいのだが、今は妊娠しているためか疲れが出やすく、毎日すると疲れから体調を崩しやすいので、このぐらいのペースが今の自分にはちょうど良いようだ。

 

我が家には神棚があるのだが、神棚にお供えし終わった塩を毎日バケツに捨てるようにしていて、その塩を溶かした水で雑巾掛けする。

昔、霊感の強い人に、粗塩を溶いた水で雑巾掛けすると邪気を払えると聞いたからそうしているのだが、効果の程はよくわからない。

しかし、なんだかさっぱりした気持ちにはなるし、たいしたコストもかからないので、ちょっとしたおまじないのつもりでやっている。

 

掃除であれば、掃除機を使うのが一般的かもしれないが、私はやっぱり雑巾掛けが好きだ。

なぜかと言えば、目線がゴミの溜まりやすい位置にくるので、掃除機よりも汚れがわかりやすいからだ。

また、妊娠中は雑巾掛けの姿勢が逆子対策や安産に良いと聞いたのもあって、これもまたおまじないのつもりでやっている部分もある。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

昔の私は、掃除なんて全く興味がなかった。

 

むしろ、どうせすぐに汚れるのになぜ掃除しなければならないのかと思って、家がひどい状態になるまで極力やらないようにしていた。その方が、無駄な時間や労力といったコストを払わなくて済むような気がしたのだ。

 

なんてったって私は自分にとって得と思えることしかしたくない、セコい人間なのだ。

 

だが、娘の妊娠を期に毎日雑巾掛けをするようになって(理由はもちろん、安産に良いと聞いたからだ・・・自分に何か得があると思うと私は行動ができる人間だ)、私の意識は変わった。

 

人間の目は、良くも悪くも慣れるということに気がついたのである。

 

 

私が毎日雑巾掛けをして、まず気がついたのは、家はそれまで思ってた以上に汚れているという事実だった

不思議なことに、雑巾掛けなどしていなかった時には全く気づかなかったような汚れに、気がつくようになったのだ。

そして、綺麗な状態に目が慣れるようになると、少し汚れただけでも雑巾掛けをしたくなるようになった。

また、家というのは私が思っている以上に毎日汚れるものだった。

雑巾掛けを頻繁にすることで、綺麗な状態が自分のスタンダードになり、汚れに気づくセンサーが働くようになる・・・

こうして好循環が生み出され、私は毎日雑巾掛けをすることを苦と思わなくなっていった。

 

 

私の母はズボラで掃除が苦手なタイプだが、一度実家に帰った時に、あまりに風呂壁が汚れているので指摘したことがある。

驚いたことに、母はその汚れに全く気がついていなかった。

母は私が代わりに掃除をしてあげて初めて、それまでの壁が汚れていたことに気がついたのだ。

目が慣れると言うことはこういうことなのか・・・と驚愕した出来事であった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

そういうわけで、現在は二日に一度のペースで雑巾掛けを繰り返しているのだが、毎回改めて思うことがある。

それは、どんなに綺麗に雑巾掛けをしているつもりでも、翌日にはやっぱり汚れているし、2日経てばびっくりするほどチリや埃が出ている・・・ということだ。

 

そして、その度に思うのが、人の心というのも、それと同じようなものではないかということなのだ。

だから、家の中も心の中も、汚れは小まめに「はらう」ことが大事なのではないか、と思うのだ。

 

 

「はらう」という言葉。

ゴミを除去するときであれば「掃う(払う)」、心身の不浄を取り除く時であれば「祓う」という字が当てられるが、どちらの「はらう」も、同じような意味を指している気がしている。

(語源などを調べればそのような話も出てくるのかもしれないが、調べたことはない)

 

 

心の汚れも、見て見ぬふりをすることは簡単だ。

『あいつが悪いから、人格否定するのも仕方がない』『このくらいなら、陰口を言っても許される』『正義のためなら、このぐらいの嘘をついても大丈夫』

・・・そういう言い訳を並べれば、相手を攻撃したり、事実を偽ったりすることなど簡単にできてしまう。

そうするうちに、いつしかその汚れに目が慣れて、心はますます汚い状態になってしまうのかもしれない。

 

そう思うと、少しの汚れであっても、やはり小まめに『はらう』ことが大切なのではないだろうか。

 

でも、人間は誰しも完璧ではないから、汚れを見つけたからと言って、自分を責めたり、卑下したりする必要もない。

 

ただ、「ああ、汚れてるんだな」「そりゃあ生きていたら、汚れも出るわな」と、ただ淡々とその事実を受け止めて無くしていく心掛けが必要なのだと思う。

そう、毎日の雑巾掛けで出るゴミに、わざわざ責め立てたり腹を立てたりせず、ただ黙々と『掃う』のと同じように。

 

そうしていけば、心の中の目も、だんだんと綺麗な状態に慣れていくのだと思う。

 

 

私はたまに、偽スピリチュアルやマルチ商法の批判をしているわけだけれども、これも同じように、『正義のため』『相手が悪いから』と言い訳をして、やり過ぎてはいけないんだなと思う。

私が言っても説得力はないかもしれないのだけれど(^_^;)

正直、これまでも何度か、自分の中で『批判』になっているか『悪口』になっているか、ちょっと不安になることがあった。多分過去の私の発言の中には、行きすぎて悪口になっているものもあったかと思う。

今もその線引きに自信があるわけではないけれど、最近はできるだけ、『友達や大切な人に対して言わないような言葉は、批判相手にもかけない』ということと、『負の感情を込めて文章を書かない』ことを心がけている。

 

 

話が逸れてしまったが、やはり掃除はいいものだ。

家を綺麗にするだけで、自分がもてなされているような感じがして、家で過ごすことが楽しくなる。自分を大切にしている感覚になるし、何よりスッキリする。

しかも雑巾掛けは、古布を使えばタダでできる(私は汚くなってきたタオルやふきん、着なくなった服、趣味の裁縫で余ったハギレを使うようにしている。ゴミが有効活用できて一石二鳥だ)

 

過去の私のように『掃除は面倒くさい』『どうせすぐ汚れるのに意味がない』と思っている人ほど、是非やってみてほしい。

 

一週間やってみれば、あなたの目が『綺麗な状態に慣れる』ということがどのようなことなのか、きっとわかると思う。

 

 

ちなみに、長く続けるポイントは、一日の目標を出来るだけ低くすること!

 

例えば、トイレだとか、玄関といった家の中でも狭くてすぐ終わる場所だけは毎日掃除するとか、一日の掃除の時間を5分だけにする。

そうして、その目標を達成し終わって、余力があれば他の場所も掃除したり、時間を延長したりすれば良いし、目標だけで疲れたならそこで終わってOKにするのだ。決して自分を責めてはいけない。

なぜならここでの目標は、一日だけ頑張ることではなく長く続けることにあるからだ。

 

私も掃除をするときは、まずは玄関かトイレから始めるようにしている。

少し面倒くさいなと思う時でも、「まあ玄関だけでも・・」と思えば、「そのぐらいならやれるか」と腰を上げられるものだ。

それに、人間というのは行動を起こす時、0から1にすること・・・つまり始める瞬間が一番エネルギーを必要とするものだ。

だから、始めるときのハードルを低くしておけば、「やってみたら案外いけそう」と思うようになり、最後までやり遂げられることはよくあるのだ。

 

話の中では雑巾掛けばかり推してしまったのだが、もちろん別に雑巾が優れているわけではない。

腰が痛くて屈むのがしんどい人は、クイックルワイパーや掃除機や箒を使うのも良いと思うし、

ルンバを持っている人なら床はルンバに任せて、そのかわりキッチンや棚の上を綺麗にするのでも良いと思う。

 

最近、私は何事にも「正解」はなくて、「相性」があるだけなのだなと思うようになったのだが、

掃除のことも、正解があるのではなく、ただ相性があるのだと思って欲しい。

私にとっては、雑巾が相性よかっただけのことで、それは人によって違う。

 

 

いろんなところに話が飛躍してしまったが、住まいを小まめに『掃う』こと、私は是非おすすめしたい。

『掃う』を繰り返すことで、心を『祓う』という感覚が、わかるようになる・・・かもしれない。