感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

感受性が強い子を育てて 1

感受性の強い子供を育てることは、正直すごく大変だ。

あなたの子供がもし感受性が強いならば、きっとあなたも大変な思いをしているのではないだろうか。

 

私自身、小さい頃は感受性の強い子供だった。

 

些細なことで機嫌が悪くなり、そのことで母から咎められたり、周りを困らせたりすることが辛かった。

 

母はよく「そんなことで泣くなんて」と私を嗤ったり、「何でそんなことを言うの!」と怒ったりしたから、私は自分がそんな感情を抱くこと自体が良くないと思うようになった。

 

そうして私はいつしか、自分の感じていることやしたいことがわからなくなってしまった。

 

だが、どんな感情でも持っていいということや、感情を押し殺すことは自分を尊重しないことだと気づいてからは、少しずつ自分の感情に素直になれるようになっていった。

 

娘が生まれた時、私は自分ならば子供の感情を尊重する子育てができると自負していた。

 

だが実際に自我が強くなっていく娘を育てていくうちに、それが難しいことを理解するようになった。

何故なら、子供の感受性を尊重することが、まるで子供のわがままを押し通してしまうように感じ、躾として良くないと思ってしまうからだ。

私は親になって初めて、母がなぜ私の感受性を尊重できなかったかも理解できるようになり、母も母で大変だったのだろうと思えるようになった。

 

しかし、自分なりに試行錯誤したり仮説を立てて実践してみたりして、

感受性の強い子がどうしてワガママに見えるのか、という原因を理解できるようになった。

 

それを今回はシェアしたいと思う。

 

あなたがもし、子育てをしていて

「どうしてこんなに理不尽なことをするの!?」だとか

「どうしてこんなにワガママなことを言うの!?」と腹が立った時、

この私の話が役に立てばいいなと思う。

 

人が人に腹を立てる時というのは、大抵の場合、相手のことが理解できない時だ。

 

私の話は、「こんなふうに育てましょう!」だとか「こうすればうまくいく!」というような話ではない。

だが、子供のわがままや理不尽に見える行動が何故起きているかを理解することには役立つかもしれない。

 

理解できると、頭に血が昇ることが少なくなる。

頭に血が昇ることが少なくなれば、冷静に解決策を考えることができるようになる。

 

人はそれぞれ違うから、私の解決策はあなたの子供には役立たないかもしれないけれど

あなたが解決策を導くための、支えになるとすごく嬉しいなと思う。

 

それではこれから、本題に入る。

 

 

 

☆そもそもなぜ、子供がわがままに見えるのか

子供が、「パンが食べたい」と言ったのにパンが食卓に出てから「ご飯がいい」だとか

「このお菓子嫌い」とお菓子をくれた人の目の前で言うだとか

「明日は必ず幼稚園に行く」と約束したのに起きると突然「行きたくない!」だとか言って、腹が立ったことはないだろうか。

 

なぜこんなことが起きるかと言えば、「子供は考えていることをそのまま口に出すから」である。

 

私たちだって普段は「さっきプリンを注文したけどやっぱりケーキがいいな」だとか「この人好きじゃないけど、波風立てないためにニコニコしておかないとな」だとか「もうお酒は飲まないって約束したけど、飲みたいな」のような、表立っては言えないけど思ってしまうあまり品のよくないことというのはあるはずだ。

 

子供はそれをそのまま、口に出しているだけなのだ。

 

あなたがもし、約束を決して破らず愛想笑いをしたこともない清廉潔白な人間ならば「そんなことを言うな」という権利があるかもしれないが、そうでないのならば「ああ、私が心の中で思っていることを口に出しているのね」と思っておくと、子供の言うことを全否定せずに済むだろう。

 

「そんなこと言うな」とつい言いたくなることも多いかもしれないが、そうすると子供は自分がそんな気持ちになったこと自体を責める可能性がある。

 

ここでおすすめの言い方は、「言うな」ではなく、「思ってもいいけど、それをすると約束を破ることになるから守ろう」だとか「思っちゃうのはわかるけど、聞いた人が傷つくから言うのはやめておこう」などである。

つまりは、そうした感情や思考を持つこと自体は尊重するが、表には出さない方がいいと伝えることである。

 

 

 

☆「我慢しなさい!」と言いたくなるわけ

子供がワガママを言った時に、つい「我慢しなさい!」「そんなこと言うな!」と言いたくなることはないだろうか。

それは何故かと言えば、子供は不満を述べる時に、感情を乗せてしまうからだ。

 

たとえば、子供が家まであと少しというときに「歩きたくない!」と言うと、「我慢しなさい」とつい言いたくなる。

しかし、もし子供が「ごめん、どうしても疲れたから抱っこしてほしいな」と申し訳なさそうに言うと、あなたは子供のために何かしてあげたくならないだろうか。

子供はこういう言い方ができない、というより知らないだけなのだ。

 

そして、不満の言い方は感情のバロメーターでもある。

子供は不快を強く感じているほど、その感情が言葉に乗って言い方がキツくなる。

また感受性の強い子供は他人よりも感じ取る分が多いものだから、感受性が強ければ強いほど言い方はキツくなるだろう。

そして、子供がこうした言い方をした時に、あなたがイライラしたり、怒ったりしてしまうのも無理はないと思う。

なぜなら、怒りの感情はぶつけられると怒りで応酬したくなるものだからだ。

しかも子供は暑いだとか寒いだとかの、こちらにはどうもできない自然現象に対してまでこちらに怒りをぶつけてくる。理不尽に見えても仕方がない。

 

ここで伝えるべきメッセージは「我慢しろ」ではないとは私は思う。

何故ならば、不満は自分がどうすれば快適になるかを教えてくれるヒントだからだ。

これを我慢してしまうと、もっと言うと感じ取ることを禁止してしまうと、いずれ自分がどういう状態を心地よく感じるかがわからなくなってしまうのだ。

 

ここで言うべきは「不満を伝えるのはいいけれど、そんな言い方をされると傷つくからやめてね」だとか「不満を言うのも仕方ないけれど、怒りの気持ちをこちらにぶつけるのはやめてね」ということである。

他人に怒りをぶつけるのはマナー違反ということを、伝えるのである。

また、「怒りをぶつけながら言うと、相手は言うことを聞きたくなくなっちゃうんだよ。それは損だよ」と伝えるのもオススメだ。

子供にも実際に体感してもらうのもいいかもしれない。たとえば「それ取って!」と怒りながら言ってみた場合と「それ、取ってくれない?」と優しく言ってみた場合を再現してみて、どちらがより相手に協力したくなるかを尋ねてみるといい。きっと後者と答えるだろう。

 

 

余談だが、私は「我慢しなさい」という言葉は極力言わないようにしている。

我慢というのは一見、美徳のように思えるが、どうすれば自分の不満を解決できるか思考する機会を奪うのだ。

また、「我慢しなさい」と言われると、その感情を持つこと自体を禁止されてる感覚がする(これは私だけかもしれないが)

もちろん時には少しの間耐えてほしい状況も出てくるが、そんな時は私は我慢ではなく「耐えてね」だとか「辛抱してね」だとかの言葉を使う。

 

「少しの間、暑いのを我慢して」と言われると、暑いと感じること自体を罪と言われてるような気がするが

「少しの間、暑いのを耐えてね」と言われば、暑いと感じつつも涼しくなるのを待とう、と言われてる気にはならないだろうか(私だけかもしれないけど)

そもそも我慢というのはもともとは我に執着する意味であり、語源からしてあまり良い言葉ではないようだ。

そういうこともあって私は我慢という言葉を使わないようにしている。

代わりに「どうすればその不満は解決できると思う?」と尋ねるか、前述の通り「あと少しだから耐えてね」と声掛けするようにしている。

 

先程、不満の言い方は感情のバロメーターだと言ったが、この考え方はあなたが辛くならないためにも大切なことだと思う。

子供が理不尽なことに感情的に文句を言う時、つい自分自身を責められているような気がするが、そうではない。

それは子供がどれだけ不満を感じているかの指標であり、子供自身がそれに困っているから溢れ出てしまうだけなのだ。

そう考えると、子供のことを「意地悪な加害者」ではなく「すごく困っている人」と捉えられるようになり、手を差し伸べたくなるだろう。

 

 

 

☆心の傷が身体にも影響する

我が家では以前こんなことがあった。

みんなで公園に行こうと言う時、娘がちょっと危ないことをしようとしたので私が注意すると、娘は体が動かなくなった。

早く公園に行こう、と言っても「歩けない」と言う。

私はイライラした。公園で遊びたいのは娘なのに、公園で遊べるぐらい元気なら歩けて当たり前なのに、何を言うのだと思った。

「歩くのが辛いなら、公園で遊ぶのも無理でしょ?家に帰ろう」と言うと、娘は「公園で遊びたい」と言う。

この現象、すごくワガママに見えないだろうか?

 

この時、私は少しの間だけ抱っこをして連れていくことを了承したのだが、こう思うようになった。

(もしかして、心が傷ついたからそれが身体にも影響したのか?)と。

そして娘にこう尋ねてみた。

「もしかしてさっきママが注意したことで、心が傷ついたの?だから動ける元気がなくなっちゃったの?」と。

すると娘は「うん」と言った。

私が「じゃあ、心が傷ついて動ける元気がない、って言ってくれたらわかりやすいよ」と伝えると、娘はこう言った。

「その言い方が難しくて、わかんなかった」と。

確かに、こんな言い方は4歳の娘ができなくて当たり前だなと思った。

 

私自身、心が辛くなると体が動かなくなる経験はしたことがある。鬱病も、こうした状況と似ているものだと思う。

だが子供のこととなると、そうなることをちっとも考えられなかった。

 

子供は、特に感受性の強い子供は、些細なことで傷つく。

大人はそれを軽く見て「この程度のことでどうして身体が動かなくなるの」「ただのワガママでしょ」とつい思ってしまう。

或いは子供が大人を困らせるためにわざとやってるようにすら見える。

だが子供にとっては、それは体が動かなくなるほどの辛いことかもしれないし、本当に体が動かなくて困ってるかもしれないのだ。

 

こんな時、つい「このぐらい大丈夫でしょ!」と言ったり、無理矢理体を動かそうとしたり、或いは体が動かないことを怒ったりしてしまいたくなるが、

鬱病の人にそれをして良くなるか考えてみれば、この方法はかえって子供を苦しめることになることがわかるのではないだろうか。

 

こんな時に必要なのは、見守ることと優しい声掛けと手助けだ。

子供の気分が回復するのを見守り、少し気分が回復してきたら優しく声をかけ、必要ならば手助けするのだ。

 

私もまだまだ完全ではなくて、つい自分が抑えられず感情的に怒ってしまうことがある。時間に焦ってるときは特にそうだ。

だが最近だんだんその頻度は減ってきた。

なぜなら、感情的に怒ったら余計に子供の気分が回復しなくなり、そうなるといろんな物事がさらにうまく回らなくなることを体感したからだ。

私は自分に損なことはしたくない性格なので、感情的になりそうなときは「でもここで感情的になったら後で余計にしんどくなるしな」と思うと、ぐっとこらえることができる(できないこともたまにあるけど)

 

 

ちなみに、感情的に怒ってしまって子供がそれに反発すると、あとは感情の応酬になるので、言葉がどんどんキツくなる。つまりはひどい言葉を言ってより相手を傷つけられる方が勝つ。或いは感受性が強くて怒りのパワーをたくさん出せる方が勝つ。

言葉でその決着がつかなくなると、最終的には力でねじ伏せなければならなくなるので、そうなると人は暴力に頼るんだろうなと思う。

昔は虐待のニュースを見ると、「ひどい親」と憤っていたけど、虐待する親の中には子供を苦しめたいからしてるわけではなくて、どうすればこの感情の応酬を終わらせられるかを知らなくて、ただ相手をねじ伏せることで言うことを聞かせなければ躾にならないと思い込んで、してしまう人もいるんじゃないかなと思う。

 

 

 

そんなことで、ざっと自分の経験則的なことを書いてみたけどかなり長くなりそうなので、次回もまたこうした経験則を書こうと思う。

 

感受性の強い子供を育てるのは本当に大変だ、もちろん感受性の強い子にもいいところはたくさんあって、それはまた次回書くつもりだけど、

少し前の私のように、子供が何故こんなに理不尽な、或いはわがままなのかが理解できなくて、辛い思いやしんどい思いをしている親御さんが他にもいるんではないかと思う。

 

そんな親御さんの力になれたら私は本当に嬉しい。

 

 

あなたは頑張ってる。

そして、あなたの子供もきっと、頑張ってる。

 

 

 

つづく。