感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[理論]幸福感に気づきやすくなる方法

前回の記事[エッセイ]"幸福"と"幸運" - 感情の考察、日常の幸福で、偽スピリチュアルやマルチ商法などにハマりやすい人達は、自分の感覚を研ぎ澄まして、自分が何に幸福を感じているかを知るのが必要・・・と書いた。

 

何故かと言えば、幸福感というのは、地味だからだ。

喜びのようにわかりやすく派手なものではない。

 

幸運のもたらす鮮やかな快楽を求める人にとっては、幸福感というのは気付きづらいものなのだ。

 

では、それに気づきやすくするためにはどうすればいいのだろう?

今回は私のオススメの方法を紹介する。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

幸福感を味わうために最も大切な要素は何かといえば、『感謝』だと私は思う。

だが、難しい点は、科学技術や医療が発展した現代においては物があることや便利なことや生きていられることは当たり前になりすぎていて、なかなかその有り難みに気付けないということだ。

どれだけ恵まれている人であっても、それが恵まれていることと気が付かない限り、感謝することは難しい。

それどころか、自分よりもさらに恵まれている他人を見ると不満すら覚えてしまうだろう。

 

 

娘が赤ちゃんの時、こちらが近づくだけでにっこりと微笑みかけてくれる姿を見て、

『本来は、愛する人がそばにいるだけで、人間というのは幸せなものなんだろうな』とふと思ったことがある。

成長するうちに、他人と比較するようになって、自分に不足しているものが見えると、その幸福に気づかなくなるのかもしれない・・・そんなことを考えたものだ。

 

話がまたもや逸れてしまったが、では、感謝するのに大切なことはなんだろう?

 

それは、やはり色々な本などでも言われてることだけれども、まずは身の回りの感謝できることを見つけることだろう。

健康であること、ご飯が食べられること、水道や電気が使えるということ・・・

できれば紙やノート、面倒くさければスマホのメモ機能にでも、思いついたものを書き出すことをオススメする。(これは単に、書き記したり見返したりすることで思い出しやすくするためである)

 

 

ちなみに、私自身は昔、感謝なんて絶対にしたくない人間であった。

貧しい子供時代を過ごし、中学時代はいじめを受けていた私は、周りの恵まれた人を見ると、感謝などしたら負けのような気すらしていた。

なんとなく、自分の心がもったいないような気がしたのだ。

でも、人生の恩人から「幸福になりたいのなら、感謝しなさい」と言われたことをきっかけに、様々な物事に感謝してみて、これは何より自分が良い気分になるために必要なことなのだと気が付いた。

何より、タダでできることである。

 

「感謝しなさい」と言うとどうしても宗教臭くなりそうであまり強く言いたくないのだが、やはり感謝というのは大切なことだと私は思う。

 

そして、あなたが何か感謝できることを見つけた時、そこに「幸せだなぁ」という一言を加えてみることをお勧めする。

 

言葉にすることで、幸せという感覚がどういうものかを、身体が覚えやすくなるからだ。

 

 

前のブログにも載せた話かと思うが、私は以前アルバイトしていたレストランで、「美味しかったですか?」と客に尋ねることを上司に勧められた。

なぜなら、店員にそう聞かれれば、よほど不味くない限りは大抵の人は「美味しかった」と答えてくれるだろう。

そうすると脳は実際の味よりも言葉の方を強く記憶するので、『美味しい店』と覚えてもらいやすくなるから・・・と言われたのだ。

 

「幸せだなぁ」と口にするのも、これと同じ原理だ。

 

 

ただ、ここで気をつけなくてはならないことは、あなたが悲しみや怒りなどのネガティブな感情にいる時は、そんなことはしなくて良いのだ。むしろ、しないほうがいい。

 

ネガティブなときは、ネガティブな感情をただ受け止めるだけで十分だ。

 

私は昔、これでやらかしてしまって・・・というのも、ネガティブな時に無理に感謝できることを探して、心がしんどくなってしまったことがあったのだ。

今思えば、あの時の私はネガティブな感情を抱くことを悪いことだとか、それこそ不幸だとか考えていて、そこから逃げるために感謝をしようとしていた。

 

でもそれは自分の心を偽ることだから、後でその反動が来てしまう。

だから、ネガティブな時には、とにかく「ああ、今私は悲しいんだな」「辛いんだな」と感情を受け止めながら、自分に優しくしているだけでいい。

 

 

感謝できることを探すときは、自分の心がフラットな状態にある時のほうがいい。

もちろん、喜びなどのポジティブな感情を抱いてる時にするのもいいわけだが、嬉しい時に感謝するのはわりと簡単なものだ。

心がフラットな時にこそ、当たり前と思っているものに何か感謝できることはないか探してみることをオススメする。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

先程、感謝できることを見つけた時に「幸せだなぁ」と言ってみるといい・・・と書いたのだけれども、

実際に、私が幸福感というのに気づきやすくなったのも、「しあわせだなぁ」と声に出していたからだと思う。

 

 

きっかけは、夫と結婚したことだった。

まだ新婚の時、とある本で私は『男性は、パートナーを幸せにしていると実感することで幸福を感じやすい』という説を読んだ。

 

なので、私は小さなことでも、何か嬉しいことが起きた時や美味しいものを食べた時など、快の気持ちを感じた際には、夫に聞こえるように声に出して「しあわせだなぁ」と言うようにしたのだ。

そして「これもあなたと結婚したからね」「あなたのおかげね」とも伝えるようにしていた。

 

そうすることで、夫がたくさんの幸せを感じてくれたら良いなと思ったのだ。

夫が家で幸せな気分でいてくれたら、それは仕事のストレス軽減にも繋がるだろうし、それは巡り巡って自分の元に返ってくるに違いないから、自分にとっても得なことだと思った。

何よりこれは、タダでできることである。セコい私にはうってつけの方法だった。

 

でも、これを実践してみて・・・夫の幸福のためと思ってし始めたことだったのに、自分の幸福を感じ取る能力も敏感になっていったことに気がついた。

 

 

たとえ小さな事でも、「しあわせだなぁ」と口に出すことで、自分の脳は「こういう状態が幸せなのか」と記憶するようになっていったのだ。

 

 

今の私は、意識してるわけでなくとも、満たされた気持ちになった時はつい「しあわせだなぁ」と口にしてしまう。

しかもそれが、家族の顔を見た時や、温かいお風呂に入った時、ご飯を食べた時などの、日常にありふれた、ささやかなことですぐ口にするので、一日に何度口にしてるかわからない。

まさに幸せの大安売り、バーゲンセールである。

 

だから別にしょっちゅう懸賞に当たったりだとか、欲しかった高級ブランド品が買えたりだとかの、わかりやすい『幸運』があるわけでは無いし、毎日の90%は同じようなことの繰り返しだけれども、自分は幸福だと心から感じることができている。

 

 

今まで書いたことをまとめると

 

  • 心がフラットな時に、感謝できることを探してメモしてみる。
  • そのメモに書いたことをふと思い出した時(例えば、手を洗っている時に『水道が使えることが有難い』ということを思い出したりなど)に、「ありがたいな、しあわせだな」と声に出してみる。(周りに人がいて恥ずかしければ、心の中で)
  • 心が温かくなった時、快の感情を抱いた時に、「しあわせだな」と声に出してみる。(オススメは、美味しいものを食べた時。なぜなら食事は一日に三度もあるから、たくさん幸せを感じられる。もちろん人がいて恥ずかしければ、心の中で)

 

というのが、幸福感に気づきやすくなる方法(というより、ささやかなことで幸福を感じ取る方法?)だ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

さて、前回と今回と書いたことを読むと、もしかすると幸運は幸福より劣っていると書いてあるように読める人もいるかもしれないのだけれど、そんなことはない。

幸運も、もちろんあるに越したことはないし、人生を楽しむスパイスであることは間違い無いだろう。

ただ、幸運がなくとも幸福にはなれるというだけだ。

 

今から言う話は、矛盾してると思われるかもしれないけれど、実際に私に起きていることだから言う。

 

それは、幸運が無くとも人は幸福にはなれるけれども、幸福を感じやすくなる人には幸運が起こりやすい、という話だ。

 

いや実際には、私は自分のケースしか知らないので、そう言い切ってしまうのは科学的ではないのだが、私の場合はそうだった。

 

というのも、私は先ほど述べた通り、結婚して幸福感が察知しやすくなったのだが、そうなってから幸運が起きる確率が滅茶苦茶増えたのである。

 

 

具体的にいうと、私は結婚するまでの25年間、懸賞に当たったことは一度しかなかった。

ちなみにその一度というのは、小学生の時に進研ゼミの読者投稿欄に投稿した絵が載って500円分の図書券をもらったことだ。

 

それが、結婚してからは驚くほどに懸賞やコンテストに当たるようになった。

 

結婚して最初の2年はボーナスステージかと思うほどで、たしか10件以上は当たったのでは無いだろうか。

雑誌の懸賞でバスソルトヘアアイロン、とあるフォトコンテストで4度入賞してキャラクターグッズを4回もらい、化粧品メーカーの懸賞でプリザーブドフラワーに当選、とあるコンテストで参加賞に当たり少し現金をもらえたし、スポーツ用品メーカーが主催していたコンテストでも3回入賞した(そのうち1つが最優秀賞受賞で、以前書いたことがあるが夫の好きなスポーツ選手と握手する権利をもらえたのだ)。

 

結婚して今年で7年になるが、懸賞や小さなコンテストの類は毎年2〜3件は当たっている。

 

今年は夫の会社のイベントで黒毛和牛カタログギフトが当たったのと、幼児雑誌で娘の好きなアニメのおもちゃが当選したのと、実は最近私の好きなキャラクターの公募で入賞し、もうすぐキャラクターグッズがもらえる予定だ。

 

 

もちろん、これが本当に『幸福感に気づきやすくなったから』という理由だけで起きているのかは証明のしようがないし、もしかすると結婚してから苗字が変わったことで運のいい姓名になったからかもしれないが、私は『幸福感を抱く時間が増えたからだ』と考えている。

 

私に感謝の大切さを説いてくれた恩人もこう言っていた。

「幸せになりたいのなら、感謝しなさい。そうすると良いものが寄ってくるから」と。

もちろん科学的根拠は何もないので、信じられない人は信じなくてもいい。

 

 

実は懸賞やコンテスト以外にも、欲しいと思った物が不思議と手に入るような幸運はわりとよく起きている。

 

 

まあ、とは言っても、1年の中でこうしたわかりやすい幸運が訪れる確率は、体感にして1割ぐらいである。

あとの9割は、平凡な日々の連続だ。

だから、希少な幸運に過度に期待するよりも、その平凡な日々をどれだけ楽しめるかの方が、人生を楽しむためには大切だと思う。

 

 

ちなみに、私の場合は、結婚して最初の2年で面白いほど幸運が巡ってきたので、この点で道を踏み外しかけた。

 

というのも、幸運による喜びというのは、中毒性があって、一度味わうともっと欲しくなってしまったり、もっと大きな幸運を求めたくなってしまうのだ。

 

だから、昔の私はもっと『幸運』になりたくて、懸賞にどんどん応募したし、色んなものを手に入れようと引き寄せに躍起になった。

 

でもそうすると、当たらない場合やうまくいかないケースにもたくさん遭遇する。

すると期待していた分、ガッカリしてしまったり、自分に自信をなくしてしまったりした。

また、日常のささやかな幸せに気付きづらくもなってしまった。

 

 

そう、幸運の喜びに期待しすぎるということは、幸運が訪れない時に自分に不幸の烙印を押してしまったり、ささやかな幸福に気付きづらくなってしまうことに繋がるのだ。

 

そうすると、幸せのために幸運を追い求めていたつもりが、かえって不幸になってしまう。

 

 

だから今は、たまに訪れる幸運に対して高揚感を感じても、更なる幸運には期待せず、できるだけ早くフラットな状態を思い出すようにしている。

でないと、あとの平凡な9割の日常がしんどくなってしまうからだ。

 

そのためにどうしているかといえば、「嬉しいなぁ、でもまたこれから平凡な日々が続くだろうけど、それも楽しもう」と考えるようにしているのだ。

 

もちろん、人の心というのはコントロールできるものではないので、フラットに戻ろうとしても浮ついてしまうこともあるが、そういう時は一度起きた幸運を何度も思い出してスルメの如く噛み締めるようにしている。

「ああ、あの時は本当にラッキーだったなあ」と。

そうすれば、一つの幸運を長く楽しめることができて、お得でもある。

 

 

幸福感には、こうした中毒性はあまりない(と私は思っている)ので、そういった意味でも普段味わうのは幸福感の方が良いのだと思う。

 

 

だから、先程の話を読んで「幸福感をたくさん持てば幸運が来るの!?やりたーい!!!」と期待した方がいたとしたら、

「まあ、幸運なことも起きたらお得だなあ〜」ぐらいの軽い願望に留めておくことをオススメする。

 

それで幸運が実際に起きたらラッキーだし、起きなくても幸福感に溢れた日々を過ごせるならまあいいか♪ぐらいの気持ちでいたほうが、人生を楽しめると思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

そういえば、今回の話を書いていて、思い出した話がある。

 

それは、イギリスの民話を元にした「いたずらおばけ」という絵本だ。

 


 

 

ちなみに、「ねないこだれだ」で有名なせなけいこさんも「わたしゃほんとにうんがいい」というタイトルで同じ話を書いている。

 


 

 

 

どんな話かというと、気はいいけど貧乏なおばあさんが、ある時壺を拾うのだけれど、いつのまにかその壺の中身が金になっていたので、おばあさんは「これで贅沢ができる」と喜ぶ。

しかしよく見るとその中身が銀、いやよく見ると鉄・・・とどんどんショボくなっていく。そして最後にわかったその本当の正体は意外なものだった、というお語だ。

 

 

主人公のおばあさんは、持ち帰ったものがなんであっても喜ぶ。どれどけショボくなっていても、喜ぶ。

金と期待したのに銀になっていても、ただの岩になっていても。

 

 

この本の面白いところは、最後に「そんな陽気なおばあさんは最後は本当に金を手に入れて幸せに暮らしました」とならないところだ。

 

最初読んだ時、私は絶対に『どうせ最後は本当の金を手に入れて幸せに暮らすんだろ〜!?』と思いながら読み進めたのだが・・・ネタバレになってしまうけど、最後までおばあさんは貧乏なままだった。

 

大抵の昔話では絶対に、陽気な人や良い人というのは『豊かになりました』で終わるのに。

 

 

でも、考えれば考えるほど、幸せの本質というものを表しているのではないかと思うようになった。

 

 

どんなものに対してもありがたみを感じられると、幸運が訪れやすくなるけれど、たとえそれで幸運が訪れなくっても、幸福感を感じられるのならば、それだけで幸福なのだ。

これは、そんなことを教えてくれる絵本だ。

 

紹介のためにリンクを貼ったけれど、古い絵本なのできっと図書館にもあることだろう。

興味がある方は、読んでみてもいいかもしれない。