感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[意見]政治と感情

※この記事では政治について書きますが、どこの政党がいいとか、政治家がいいとかの個人の見解は書きません。

 

 

ツイッターでは政治についての意見をよく目にします。

私も表に出すことはありませんが、この政党や政治家を応援したいなとか、あの政党や政治家は信用できないなとかの自分なりの考えはあります。

しかしツイッターでは、自分と正反対の意見を持っている人のつぶやきが目に入ることは当然あります。

あまりに自分と違う意見を見ると、胸が痛くなることがあります。

 

これは何故か、ずっと不思議だったのですが、あることに気づきました。

 

それは、政治は、本人は「思考」で選んでいるつもりであっても、実際には「感情」で選んでいることも多いんじゃないか、ということです。

 

 

昔からよく「政治と宗教とスポーツの話はしないほうがいい」と言いますよね。

自分の信じている宗教やスポーツが批判されると、やはり良い気分にはあまりなりません。

これは自分が「信じているもの、好きなもの」を否定されると、自分自身が否定されるのと同じような気持ちになるからです。

 

私の理論をお読みになった方はご存知かもしれませんが、人の認識のステップはこう辿ると私は考えています。

 

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そして、感情というのは、コントロールできないものです。無理にしようとすると、心が痛みます。

コントロールはできないものの、時間とともに薄まることはあります。

 

逆に、思考というのは、コントロールができます。

そして、変えない限り、それはずっと続きます。

 

 

政治の難しさって、その仕組みの複雑さから、「思考」をベースに選んでいると本人は信じているのですが、

実は「感情」ベースで物事を見ている人も多いことにあるのではないかと思うのです。

 

好きな野球チームは「なんとなく好き」が許される気がしますけど、好きな政党を「なんとなく好き」って言うのって、なんだかダメな気がしません?

 

 

自分がその政党を応援している理由が感情ベースか、思考ベースかは、論理的な反対意見を見たときにどう感じるかでわかります。

目を背けたくなったり、胸が抉られる感じがするなら、それは『感情』ベースなのだと思います。

 

 

別に、感情がベースだからダメでは無いと私は思ってます。

というか、感情は自然と湧き上がるものなので、否定したくてもできないものです。無理に否定すると、前述の通り、しんどくなってしまいます。

なんとなく白が好きで黒が嫌い、のように、言葉では表せないけど好きなものって、あって当たり前のことですから。

私は白が好きでも誰かは白が嫌いなように、みんなが同じものを好きとは限りませんし、むしろ違っている方が自然ですよね。

それに、感情がベースで判断したからとて、それが間違ってるとも合ってるとも限りません。

 

 

何となくここに行きたいな、と思って行ってみた場所で思わぬ良いことが起きたり、

逆に何となくこれ食べたいな、と思って食べたものが胃もたれしたり、

ただ「これが良いな」と思ったことが、どういう結果に繋がるかなんて、わからないものです。

 

 

ただ、気をつけておかなければいけないことは、政策や政党を支持する感情には、

「好き」「嫌い」の他にも、「恐怖」や「悲しみ」などもあるということと、

感情を煽ると、人を誘導しやすいという点です。

それがたとえ、「嘘」であっても、です。

特に『恐怖』の感情は、人の感情の部分に簡単に訴えかけることができます。

 

 

日本で言えば、右寄りの方は、根底に『外国に大事なものを奪われる』という恐怖がありますし、

左寄りの方は『権力者に大事なものを奪われる』という恐怖があるんだな、とツイッターを見てて思います。

(余談ですが、私はこれを勝手に「ヨコの関係への恐怖」と「タテの関係への恐怖」と呼んでいます)

そして、ヨコを敵視しやすいかタテを敵視しやすいかは、生まれ持った性質や環境によるものだ思うので、人によって違って当然なことだと思うのですよね。

 

 

ですから、ツイッターでなされる注意喚起も、そうした恐怖を煽るものが多いですし、

「怒り」「恐怖」などの感情を前面に出した文章で書かれたつぶやきの方が、共感しやすい分、バズりやすいなあと思います。

(たとえば、「〇〇はどうかと思います」よりも「〇〇はちょっと黙ってろ」といった文章のほうが、共感してもらいやすい)

 

なので、その情報を書いてる人が「人の感情を煽ってるな」と感じたなら、情報が正しいかどうかを調べてみるのも良いかもしれません。

なぜなら、好き嫌いで判断するのは仕方がなくとも、「嘘」で判断するのはダメなことだからです。

 

 

私は、「ネットロアをめぐる冒険」という、ネットでバズってる話の真偽を確認されているブログさんのファンなんですが、

(リンクを勝手に貼って良いのかわからないので貼ってません、すみません)

そちらのブログを読んでいると、人々がいかに『感情』をベースで物事を見ているかについて考えさせられます。

 

 

私の知ってる方で、とても賢い人なんですけれど、政治思想が私とは違う方がいます。

他の分野では、多様な価値観を認められる方なんですが、政治の話だけはどうしても、頑なにご自分以外の話は受け入れられないのです。

たくさんの本を読んで勉強をされてるんですけど、どの本も同じ政治思想のことが書かれているので、反対意見について知ることができませんし、反対の立場から書かれた本は読むこと自体拒否されます。

しかし読んでる本の数は多いので、「これだけ勉強してるから自分は合っている」という結論を下してしまうようです。(ご自身が偏っている、という認識はあるようですが)

その方を見ると、やはり根底にあるのは「恐怖」だなあと感じるのです。

人が頭ごなしになってしまう時、ほとんどの場合、そこには「恐怖」があります。

 

 

そして、見てて思うのですが、頭の良さに自信がある方ほど、自分が「感情」で政治を語っていることを受け止めたくないんじゃないかなと思います。

だって、政治って、冷静に思考して判断しなければいけない難しいものっていうイメージがありますから。

でも、どんなものにだって好き、嫌いはあって当然なのですから、そこの部分を認めた方が、もっと建設的な議論ができるんじゃないかなと思います。

 

だって、たとえば「〇〇党を応援したい」という思想を持ってる人が、反対の立場の人から「〇〇党にはこんな欠点がある」と言われて、それが合っているとしても

「私は〇〇党が好き」という前提は変えなくて良いと思えば、安心して議論ができますし、それどころかより良い政治について考えるきっかけになりますから。

「私は〇〇党を応援したい。でも、〇〇党にはこんな欠点がある。だからこの欠点を補う方法を考えなければいけない。でもやっぱり、〇〇党が好き。」

という結論になっても、私は良いと思うのです。

もちろん、反対意見に目を通した結果、「△△党の方がいいな」と、感じ方が変わることもあるかもしれません。

それはそれで、自分の望む政治について知るきっかけになって、良いことだと思うのです。

 

 

最近、芸能人が政治について語る是非について話題になりましたが、

私個人としては、語ること自体は良いと思うのですが、『理由を素直に説明する責任をもつこと』が絶対に必要だと思います。

それがないと、デマを広げるきっかけにもなりかねないですし、何より建設的な議論ができません。

 

例えば「〇〇政策に反対します」と言う芸能人の方に対して、「〇〇政策はこんな利点もありますよ」という賛同側の意見が来たら、

賛同側の意見が間違えているなら、「それは間違えています」と反論すればいいですし、

賛同側の意見もたしかに一理あるなと思ったなら、意見を変えても良いですし、全面的に変えなくとも、賛同側の意見の良い部分を取り入れることができます。

反論できないけど、賛同側の意見の良い点も理解できるけど、やっぱりなんとなく「反対」の立場なら、「仰ることはわかるのですが、なんとなく反対です、自分の感覚です」と正直に言えば良いだけのことです。

 

芸能人の方は、フォロワーさんも多い分、やはり影響力が大きく扇動しやすい立場にありますから、理由を素直に説明できなかったり、反対の立場の人の意見を聞くつもりもないのに、安易に「あれが良い」「これはダメ」と言うことは、無責任じゃないかな、と思うのです。

 

 

 

最後になりますが、私が政治について自分と反対の意見を見て、胸が痛んだ時に、いつも思い出す親友の言葉があります。

それは「自分と反対の意見の人がいるから、中庸が作られるんだと思う」という言葉です。

 

ネットでは、自分と反対の意見の人を全否定したい、叩き潰したいと望む人の強い言葉を目にすることも多く、疲れてしまうことがあります。

そして恥ずかしながら私自身も、頭に血が上った時は、そんな考えが頭によぎることもあります。

 

でも、彼女のその言葉を思い出すたび、「自分と反対の意見を持つ人のおかげで、中庸が生まれるんだ」と思うと、どんな人も存在して良いと思えて、なんだか胸がじんわりと温かくなるのです。

 

親友からは今まで、誕生日や結婚のときなどに色々なプレゼントを貰い、そのどれも大切にしていますが、私にとって一番の宝物は、この言葉じゃないかな、と思っています。

彼女のこの言葉は、いつも宝石のように私の胸に輝いてくれているのです。