スピリチュアル好きな人がよくこのようなことを言っているのを目にしないでしょうか?
「(いじめや犯罪被害者に対して)魂が経験するために自分で選んだことなのだ」
「(流産や不妊などは)子供が親を選んでいるから起こる」
といったもの。
つまり、辛い出来事は自分や神の意志で起こっている、というような言葉です。
こうした言葉を聞くたび、私は違和感というか、「なんとなく気持ち悪い感じ」を覚えていました。
もちろんそれは、「目に見えない、証明できないものをさも真実かのように語ってるから」というのも、理由の一つでしょう。
しかし、実際にいじめなどの困難な目にあった人が、同じように
「その経験のおかげで、気づけたものがあった」
「私はこの親から生まれて良かったと思っている」
と語っていても、その「気持ち悪さ」を感じることはありません。
この違いはどうして生まれているのか、ということに興味があったのです。
私自身、中学時代にイジメを受けましたが、今思うと当時の自分にも落ち度はあったなと思いますし、
それを経験したおかげで「感謝すること」の大切さに気づけました。
だから、自分にとって必要な経験だったか?と言えば、私の場合は「はい」と言えます。
父に関しても、金銭的な面では非常に感謝してますが、私や母に対してしたことを考えると、未だに複雑な気持ちになることがあります。
しかし、父自身が幼少期の家庭環境で苦しんでいたことも知っているので、私にできる限りの親孝行はしたいし、「父の娘が私でよかったな」とも感じています。
だから、こうした『必要だから起きた』という言葉で伝えたいことは、わかる部分もあるのですが
スピリチュアル系の人たちが他人に対して言うのを見ると、何故か「気持ち悪い感じ」を覚えてしまうのです。
この「気持ち悪い感じ」について最近ずっと考えていて、その正体を言語化したく思っていました。
そして、わかったことがあります。
それは、スピリチュアル好きな人たちがこうした言葉を使うときは、相手の悲しみを癒すためではなく、封じ込めるために言っている、ということ。
つまり、「それは自分が望んできたこと」
「それは神様が決めたこと」といった言葉の後ろには、
「だからあなたは悲しんではいけない」という言葉が見え隠れしているのです。
たとえば、イジメを受けたり、犯罪に巻き込まれたり、夢が叶わないことは、悲しいことです。
そこで、悲しいと素直に感じられれば良いのですが、こうした声が頭に浮かぶことがあります。
「イジメられるのは私に原因があるのかもしれない」
「もっと私が注意していればよかったのかもしれない」
「前世に何か因縁があるのかもしれない」
そうすると、自分が素直に悲しみを感じてはいけないような、悲しむ権利がないような気がしてきます。
また、悲しいと感じることを『不幸なこと』だという思い込みがある人は、
「悲しい」と感じてしまったら、自分が惨めで不幸な人間になってしまうのでは、という恐怖から
悲しみを早く消さないと、自分が幸せになれないと思ってしまいます。
そんな人たちが、
「それはあなたが選んだから起きたんだよ」と言われたり
「気づきを与えるために神様が起こしたんだよ」と言われたりすると、
「だから悲しまなくてもいいよ」と言われている気がするだろうな、と思うのです。
でも、悲しいと感じているのに悲しまないことって、
本当に本人にとって、良いことなのでしょうか?
かねてから私の理論で書いていますが、自分の感情を否定することは、自分の心を否定することと一緒です。
自分の心を否定すると、生きづらさを感じます。
短期的には悲しみを感じずに済むので、楽に思えますが、実際には悲しみが消化できていないので、後でその反動はきます。
それに、悲しみを味わうと不幸になる、という意識は持ったままですから、ますます悲しみを否定することに執着してしまうと思うのです。
それは果たして、『良かった』と言えるのでしょうか。
本当は、こうしたことで悩んでいる人たちに、必要なことは、
悲しみを受け入れ、癒していくことではないでしょうか。
そして、悲しみを感じた後で見えてくるものは、一人一人違うはずなのです。
たとえば、虐待された子でも、
「生まれてこれたのは親のおかげだから、この親の元に生まれてきてよかった」という結論を出す人もいれば
「一生関わりたくない。反面教師にする」という結論を出す人もいると思います。
また、イジメに関しても
「経験したことで、優しさを身につけられた」という人もいれば、
「強くなろうと身体を鍛えたことで、ボクサーになれた」という人だって、いるかもしれません。
或いは「意味なんてない」と思う人も、いるかもしれません。
それは人によって違うものなので、どんな答えや結論が優れているとか、正解だとかはありません。
そして、実際に経験してきた人たちの「経験して良かった」という言葉に気持ち悪さを感じないのは、
それがその人の悲しみを乗り越えた先に見えたことで、誰かの悲しみに寄り添うために発せられた言葉だからだと思うのです。
ただ、経験した人の言葉であっても、全員の言葉が悲しみに寄り添っているかといえば、そうでもないなと思います。
同じ経験をしても、悲しみを我慢して消化しきれていない人が発すると、やはりどこか「悲しみを封じ込められる感じ」がします。
どういう違いがあるかといえば、悲しみを消化した人は『相手に押し付けない言い方』をしてくれるのです。
何故なら、相手の悲しみや辛さがわかる分、その気持ちを尊重してくれるからです。
一方、悲しみを我慢している人は、同じ境遇の人に対しても
「それはきっと〇〇という意味があるのよ!」といった、相手に自分の意見を押し付ける言い方をしているように思います。
そこには「私に悲しみを思い出させるな!」という恐怖が存在しているので、言い方も頭ごなしになるのです。
人は、起こる出来事、特に辛い出来事に対しては、どうしてもその意味を考えてしまいます。
何故なら、懸命に生きている自分が、そんな目にあう理不尽さを受け入れられないからです。
私も、これまで色々なトラブルや不運を経験しましたけれど、今になってわかるのは
意味を知ろうともがいている時ほど、本当の答えは出てこない、ということです。
無理くり「きっとこんな意味があるから経験してるんだ」と答えを決めつけてしまう時もありますが、そうなると自分の心に無理にポジティブを強制してしまうので、余計に苦しくなります。
その出来事が起きた本当の意味を知る時が来るとしたら、それは大抵の場合、悲しみを消化してからです。
「ああ、あの時の経験でこれを得たんだな」とか
「あの時のおかげでこのことに気づけたんだな」と、ふと気づくのです。
勿論、悲しみを消化した後でも、起こった意味がわからないままのこともあります。
それはいつか気づく時が来るかもしれませんし、一生そのままかもしれません。でも、それはどちらでも良いんじゃないかと、今は思います。
悲しい時は、ただ悲しみを感じて、そして自分に優しくするだけで、十分なのだと思います。
そして、「その出来事が起きる理由が知りたい」と思ってしまうことを、責める必要もないのです。
理由が知りたくてもがく時は、それだけ自分が『懸命に生きている』という証拠なのだと思います。
自分なりに、懸命に、がむしゃらに、頑張って生きているんです。
もしかしたら間違えていることもあるかもしれないけれど、それでも一生懸命頑張ってるんです。
だから、もし、自分の身に起きた悲しいことの理由が知りたくなった時は、
「悲しいと感じても、大丈夫だよ」
「理由が知りたいってことは、それだけ生きることに頑張ってるってことだよね、ありがとう」って、
優しく自分に語りかけるだけで、十分なんじゃないのかなって、思っています。