感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]言葉の『芽』と言霊

今日は思ったことをつらつら書きます〜

 

 

この間、よくネットで叩かれているインフルエンサーで、オンラインビジネスをされている方のつぶやきが、たまたま目に入りました。

 

そこには、「文句ばかり言う人は気にしなくていい。自分のことに集中しよう。」みたいな、一見普通のことが書いてありました。

 

私は、「このことは別に間違って無いかなあ・・」と思ったのですが、よく文章を読んでみることにしました。

 

で、よーく読んでみると、節々に相手のことをこき下ろすというか、見下している表現があるんです。

 

 

たとえば、

「文句ばかり言う人なんて気にしなくていいんですよ」

という『なんて』のような。

 

でも、この『なんて』という部分、文章の中では本当に、本当に小さい部分で、普通に読んでいると・・特にツイッターのような、たくさんの情報の中にあると、その部分にはすぐには気がつけないんです。

 

 

最近思うんですけど、こういうちょっとした「人を見下している気持ち」が含まれている言葉って、文章の中では小さくて気にならないものなんですが、

その言葉を受け取って、何度も心の中で反芻してしまうと、受け取った側の心まで、同じ色に染めてしまうんじゃないかな、ってことです。

 

 

それはまるで、言葉の中にある「芽」のようなもので・・ただ見てるぶんにはほとんど気づかれない小さいものなのに、それを受け取った人が心の中で育ててしまうと、とんでもないモンスターになってしまうのかなって、そう思うのです。

 

 

なんでかというと、そのインフルエンサーさん、ネットに上げている動画では職業差別発言をしていたり、オンラインサロンで信者を囲い込んでお金を巻き上げたりしている人なんですね。

私が見たつぶやきでは、目に見えた職業差別なんかはしてなかったんですけど。

 

で、そのインフルエンサーさんの信者の方たちも「自分たちのほうが他の人間よりもすごい!」と思い込んでいるみたいなんですね。

自分たちは他の人よりも優れていて、正しくて、先見の明がある、特別な人間だと思い込んでいるようなんですね。

もちろん、そのインフルエンサーにカモられていることには気づいていません。

 

だから、アンチから「騙されてるよ」と忠告を受けても「あいつらは嫉妬してるだけ」と解釈して、なかなかそのサロンから抜け出せない状態にあるそうなんです。

(でもこれって、オンラインサロンだけではなくて、マルチ商法や、自己啓発セミナーでもよく見られる光景ですよね)

 

 

信者が教祖のように、自分以外の人間を見下してしまうのは、多分動画とかブログとか、色んな影響があるから、そのつぶやきだけが原因ではないとは思うんですけど、

こうしたちょっとしたつぶやきの中にある、人を見下す気持ちが込められた言葉の影響もあるんじゃないかなって、思うんです。

 

 

教祖が蒔いた、「人を見下す心」が込められた芽を、信者の心が受け取り、育てててしまうことで、教祖と同じように「人を見下す心」になってしまうのかなって。

 

 

 

言霊という言葉がありますけど、本当に言葉というのは思った以上の力をもつんじゃないかなと、最近の私は思うのです。

 

 

でも、発している側は、「このくらい大丈夫」と思ってしまうんです。

なぜならその言葉はとてもとても小さいから。

 

或いは、とってつけたようにそれを打ち消す文章を足すのです。

例えば、「〇〇の仕事してる人なんて気にしなくていいですよ。でも私はどんな仕事であっても職業に貴賎はないと考えています」

「批判する人なんて嫉妬してるだけですよ。私は別に自分のことを正しいなんて思ってませんけどね。」

などといって、本当は強力な差別意識や自分が正しいという意識を持っていて、またそんな意識が込められた「〜なんて」という言葉を使っているにもかかわらず、

『フォローする文章を後から付け足したから大丈夫』と自分に言い訳をして、先に出た言葉に込められた自分の驕りや敵対心を、打ち消すことができたと思い込んでしまうんです。

 

 

しかし、こうした付け足しの言い訳に心はこもっていません。ただ、自分を良く見せるために、或いは誰かの批判をかわすために付け足した上っ面な言葉でしかないからです。

だから、どれだけ美辞麗句を並べ立てても、その付け足しの部分は、受け手の心の奥には入ってこないんです。

 

だけど、「〜なんて気にしなくていい」という、先に出た言葉は心に深く入ってきてしまうんです。

何故ならそれは、その人が本心から発した言葉であり、魂が込められているからです。

 

そしてその言葉を発した人も、受け手も、不思議に思うことになります。

「私(或いは彼)は差別意識なんて無いし、自分が正しいなんて思って無い。だってちゃんとそう書いてるし。なのにどうして人から『見下している』とか『自分が正しいと思っている』と批判されるんだろう」と。

 

 

 

更に思うのは、人が無意識に発する言葉ほど、その心を表してしまうのではないか・・ということ。

 

 

だから、言葉を発する時は、本当に気をつけなければならないなって。

別に綺麗な心を持つ必要はないんですけど(そんなもんすぐ持とうと思って持てるもんでもないですし)

言葉に出す時は、自分の心の汚い部分が出ていないかとか、本当に相手のためを思って言ってるのかなとか、よく考えて口に出さなくてはいけないなって、思うんです。

 

 

 

ましてや子供を育てる時には、本当によく考えて喋らなければならないなって(実際にはあまりできてないんですけどね・・)、そう思うんですね。

 

 

ちょっと話がずれるかもしれないんですけど、子供がちょっと危険なことをして・・たとえば椅子の上を立ち上がったりとか、廊下でスケートごっこをしたりとか、そういうことをして落ちて怪我をしたり、滑って痛がったりすることってよくありますよね。

 

そんなとき、つい「もう、だから危ないことしちゃダメって言ったでしょ!」とか

「だからやめなさいって言ったでしょ!」とかいう言葉が口に出ることって、よくあると思うんです。

私もありました。

 

 

でもよくよく考えると、この言葉に込められてるのは、子供への愛情ではないんです。

そこにあるのは、『子供の痛みや悲しみを見るのが怖い』という逃げの気持ちや、『自分のことでいっぱいだから、子供のマイナスな感情を受け止める余裕がない』という焦りの気持ちなんです。

 

 

子供が痛い思いをした時、悲しい思いをした時、それを受け止めるのって、ある程度心の余裕がないとできません。

また、単純に、愛する子供が苦しむ姿を見るのは心が痛むことです。

 

だから、つい、その痛みや悲しみを受け止めることを拒否してしまう。

「あなたが悪いでしょ」ということで、自分が痛みや悲しみを受け止める責任がないと思おうとする。

 

 

でも、そうした言葉が子供にとってプラスになることってほとんどないんです。

何故ならそれは子供のためを思って出た言葉じゃなくて、本当は自分のために発してる言葉だから。

大人が責任回避するための言葉だから。

 

 

本当に子供の力になりたいのなら、そんな時にまずかけたほうがいいのは、「痛かったね」「悲しかったね」と、子供の小さい体では受け止めきれない感情を代わりに受け止めてあげる言葉なんです。

 

 

たしかに危険なことはしてはいけないし、そうなったのは子供が悪かったかもしれないけど、そうした注意は「痛かったね」「悲しかったね」と言った後でもできることです。

 

 

 

余裕がない時ほど、こうした言葉の選択はできないものですが、そんなときほど一旦深呼吸して、まずは無意識な『責任回避の言葉』を飲み込むことが必要なんです。

 

 

本当に、言葉は使い方次第で呪詛にも、或いは魔法にもなりうるなと感じています。

 

 

言葉を発するとき、そこにどんな感情が込められているか、どんな気持ちが表れているか、よく目を凝らしてみてください。

 

 

 

願わくば、愛を込めた言葉をたくさん使っていきたいものですね。