感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]フラットに受け止める、ということ

最近、人と会話をするときに

「情報をフラットに受け止める」ことって、大切だよなぁ・・と思うようになった。

 

 

 

というのも以前、こんなことがあったからだ。

 

 

 

私の母方の祖父母は現在はどちらも施設に入っているのだが、先に入ったのは認知症になった祖母だった。

祖父が施設に入る前は、母は週に一度は祖父宅へ行き、様子を確認していた。

 

祖父も祖母ほどでは無いものの、呆けかけていたのだが、家やお金を自分で管理をしようと頑なな人だった。昔から、お金には執着が強い人だったらしい。

だから母は祖父の世話だけでなく、お金の管理の仕方について説得もしなければならなかった。

 

ちなみに母には姉が一人いるが、この姉は責任感がないというか、先のことを考えない性格というか、とにかくお金に関しては全く信用できない人間なので、なおのこと母は一人で、祖父母の今後にまつわる何もかもを背負わなければならなかった。

 

ある日、我が家に遊びに来た母から、祖父母宅での色々な出来事を聞かされた。

私は、母の苦労に寄り添うつもりで

「それは大変だったわねぇ」と言った。

 

しかし、母からはこう言われた。

「私、別に自分が大変と思ってないのに、

その『大変だねぇ』って言葉を聞かされたら、なんだか疲れがどっと出てくるわ」

 

私は面食らった。

 

 

 

 

そしてそういえば、昔こんなことがあったと思い出したのだ。

 

 

 

あれは私が大学生の頃のことだった。

バイト先でふとした時に、家庭環境のことを、後輩の女の子に聞かれたので

「5歳の時に両親が離婚してから母子家庭だよ」と答えたのだ。

後輩は、「それは・・お辛かったですね」と、ものすごく悲しそうな顔で言ってきた。

 

私は自分が貧乏だったことにはコンプレックスがあったが、母子家庭であることにコンプレックスは全くなかった。

何故なら母は、不器用なりに私のことをたくさん愛してくれたし、

学校で母子家庭だということで虐められたり、からかわれたり、逆に特別扱いされたことも一切なかった。

また、割と都会で育ったので、母子家庭がそこまで珍しいものではなかったのもあるかもしれない。

 

私はこの時、なんだか不快な気持ちになった。

というのも、後輩の女の子に対してではない。

とても優しい温和な子だったので、彼女もきっと、自分が同じ立場だったらと想像して、私の気持ちに寄り添うためにそのような言葉をかけてくれたのだろう。

 

私が不快に感じたのは、自分自身に対してだった。

私は「辛かったですね」という言葉をかけられた時、

正直なところ、どこか嬉しい気持ちが湧いていた。

くすぐったいような、心の弱いところを撫でられるような、そんな感じを覚えたのだ。

 

それはまるで、自分の心の中にいる、お腹を空かせてヨダレまみれになった太った子供が、甘ったるいお菓子を目の前に差し出されて、喜んでいるような感覚だった。

 

おそらく私は、自分が後輩から不憫に思われたことに、何かしらの気持ち良さを感じていた。

自分が不憫に見られることで、甘やかしてもらえる、庇護してもらえる、そんな期待が心の奥底でわき上がっていたのだ。

同時にそんな自分を、気持ち悪いとか、みっともないとか、恥ずかしいとも感じていた。

だから、不快感を覚えたのだ。

 

 

 

 

そういえば、私が塾講師のアルバイトをしていた時の上司のMさんは、『フラットに受け止める』というのが上手な人だった。

 

この上司のMさんとは、人の心を見抜く力がある人で、過去のブログでも書いたことだが、過去の悲しみの乗り越え方を私に教えてくれた恩人だ。

 

例えば、仕事でうまくいかないことがあった時、Mさんは怒ったり叱ったりすることはなくて、

「そうか」と、いつでもフラットに受け止めてくれた。

逆に、嬉しいことに対しても、同じようにやっぱり「そうか」と、フラットに答えてくれていた。

 

気の弱い私は、それまで良くないことを報告するときに、怒られたり叱られたりしないか怖くて仕方がなかったけれど

Mさんに報告するときはいつもどんな時でも、フラットに受け止めてもらえるので、すごく安心して話が出来たことを覚えている。

 

 

 

会話において、「フラットに受け止める」ことが、必ずしも常に正解かといえばそうでもない。

本当に悲しんでいる人や辛い思いをしている人に対して、

「悲しかったね」「辛かったね」と声をかけることは、相手の気持ちに寄り添うことになるだろう。

そうした言葉で、救われるような、報われるような気持ちになる人もきっといるだろう。

だから、相手が「共感」を求めて話してくることに対しては、「悲しかったね」「嬉しいね」と伝えることは良い作用をもたらすこともある。

 

ただ相手がただの「情報」として話していることに対して、こちらが「良かったね」「嫌だったね」と色をつけて受け止めてしまうのは、時に相手の価値観をも変えてしまうことがあるので、

とりわけマイナスな感想を言う時には、注意しなければならないなぁ・・と思う。

 

思いやりの心がある、優しい人ほど、相手の立場を自分に置き換えて感じてしまうところがあって、時に色の無い情報に対しても、勝手に色をつけて受け取ってしまうことがあるのだ。

 

 

 

では、どうすれば良いかだが・・相手が「情報」として伝えてるのか、「共感」を求めているのかを瞬時に見極める力があれば良いのだが、残念ながら私にはそんな素晴らしい力は、無い。

 

だから明確な正解というのはわからないけれども、私は娘が色々なことを伝えてくるときは、とりあえず復唱することにしている。

 

「今日幼稚園でお絵かきしたの」と言われれば

「幼稚園でお絵かきしたんだね」と答える。

「こけてしまったの」と言われれば、「こけてしまったんだね」と答える。

明らかに悲しそうな時は「悲しかったね」と声をかける時もあるが、

どんな気持ちになったかよく読めないときは

「どんな気持ちになったの?」と聞き、

「嬉しかった」と答えたならば「嬉しかったんだね」と答える。

娘は「わかんない」「言いたくない」と答える時もあるが、

そんな時も「そっか、わかんないか」「言いたくない時もあるよね」と、やっぱり復唱している。

 

ちなみにこの時、自分のことを『大きい器』であると想定して、娘の言葉を自分という器に受け止めているのだとイメージしている。

そうすると、何故だかよくわからないけども、「相手の言葉をフラットに受け止める」ことがしやすくなっている・・気がする

 

これが正解なのかはやっぱりわからないけれど、というかコミュニケーションにおいて正解なんて無いのだろうけど・・他人の言葉に一喜一憂したり、こちらの感情が掻き乱されたりすることは、少なくなってきたように思う。