感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]日本語と感情

子育てをしていると、いろいろ人間の本質的なものについて気づかされることがある。

 

 

実は私は、わりと口が悪いほうなのだが、子供の前ではできるだけ、傷つける言葉や汚い言葉は使わないように心がけている。(疲れている時は難しい時もある)

しかし、こちらが決して傷つけるつもりで発していなくとも、とんでもなく子供の心を傷つける言葉が存在することに気づいた。

 

 

 

それは一体どんな言葉か、おわかりになるだろうか?

その言葉とは、「ダメ」である。

 

 

 

「ダメ」という言葉には、それだけで子供の心を吹き飛ばすだけの威力がある。

たとえ「あと○分待ってくれたら良いよ」だとか「今度ならいいよ」という言葉を付け足したとしても、

「ダメ」の一言を最初に使ってしまった時点で、子供は自己の全てが否定されたかのごとくダメージを受けてしまうのだ。

 

 

そして、「ダメ」という言葉を使って子供の心を傷つけてしまうと、それからはさらに面倒臭いことになる。

何故なら、子供は自分の要求が通らない悲しみに加えて、「ダメ」という言葉によって自己が否定された悲しみまで味わうので、

心を回復するための時間が、従来より増えてしまうからだ。

つまり、泣き叫んだり機嫌が悪くなったりする時間が、大幅にプラスされることとなる。

そのことに気がついてから、私はできるだけ、「ダメ」の一言は使わないようにしている。

 

 

 

 

私も子供の時はよく、母から「ダメ」と言われた。

私は物欲の強い子供だったので、よくおもちゃをねだっては、母から強く「ダメ!」と言われた。

しかしそう言われるとますます欲しくなって、泣き叫んだり、怒ったりしながら何とか買わせようとしたものだ。

 

長いバトルの末、たまーーーに母が折れて「じゃあ買おうか」と言ってくれることがあったが、そうなっても全然嬉しくなかった。

私は、子供ながら「どうして願いが叶ったはずなのに、嬉しく思えないんだろう」と思ったものだ。

 

今思うと、私はおもちゃが欲しくて泣き叫んだのではない。

「おもちゃが欲しいと思う気持ち」を肯定して欲しかったのだ。

本当に買うかどうかが問題だったのではなくて、

私が欲しいと思う気持ちが正当なものだと、母に納得して欲しかったのだ。

母に「ダメ」と言われた時、私は「そんなものを望むこと自体がダメだ」と言われている気がした。

実際には母は、「おもちゃを買うことだけがダメ」と言いたかったのだろうが、私が「ダメ」の一言から受けとったメッセージは、

「そんなものが欲しいと感じるなんてダメだ。

そんな心を持つなんてダメなことだ。

そんな心を持つお前はダメな人間だ。」というものだったのである。

 

今思うと、母が私に「ダメ」と言う時は、まるで取り憑かれたかのように、頭ごなしに言っていた。

実は母自身も幼いころ、おもちゃをねだっては祖母から「ダメ」と叱られていたらしい。

私に「ダメ!」と言ったときの母の頭の中には、恐らく昔の祖母の「ダメ!」という言葉が響き渡っていて、それをそのまま口に出していたのだろう。

 

 

 

 

では、子供に対して「ダメ」と言わずに「NO」を伝えるには、一体どうすればいいのか。

明確な正解はないかもしれないが、私が娘にやってみて一番円満に解決したのは

相手に同調し、次の機会を提案する。それで無理なら、理由を述べた後で断る」ことである。

 

 

たとえば、テレビCMを見て「あのおもちゃが欲しい」と娘が言ったとする。

私は「本当だ、おもしろそうだね」と答える。

これで会話が終了する場合もある。

 

(余談だが、私が幼い頃は、母は私が「買って」と言う前から、私が欲しそうな素振りを少しでも見せると、

「買わないわよ」と予め釘を刺してきたものだ。

今思うと、「欲しい」と思うことと、「買って」と言うことはまた別のことなのに、おかしなことだ。

それにそう言われると、本当はそこまで欲しくないものであっても、母に反抗するために欲しくなってしまっていた気がする。)

 

娘がさらに「買って」と言うとする。

私は「次のクリスマスに、サンタさんにお願いしようか」と言う。

これで大抵の場合、満足そうにしている。

 

もし、「今すぐ欲しい」と言われた場合は、何故それが買えないかを説明する。

 

「この間おもちゃを買ったばかりだから、おもちゃを買うお金がないの」

「置く場所が無いから、買えないの」などなど・・

 

 

それで泣いた場合は、「欲しかったよね、ステキなおもちゃだもんね。ママも買ってあげられたら嬉しいんだけど、買えなくて悲しいな」と同調する。

否定することは不本意なのだというアピールをする。

 

 

子供が少し落ち着いたら、持っているおもちゃで遊ぼうとか、好きな絵本を読もうとか、気分転換に肝油ドロップでも食べようとか、気分を良くする方法を提案する。

 

 

 

 

さて、この「相手に同調し、次の機会を提案する。それで無理なら、理由を述べた後で断る」

という文の構成、どこかで見たことはないだろうか。

 

そう、これは『典型的な日本語の断り方』なのである。

 

 

 

日本人は、断るのが下手だとか、曖昧すぎるとか、よく言われる。

私が若い時も、欧米のようにYES/NOをはっきり言うほうが良い、ということが当たり前のように言われていた。

でも、果たして本当に、そうなのだろうか。

 

確かにビジネスにおいては、最初にYES/NOを言うことはメリットがあるだろう。

自分の貴重な時間、それに相手の時間も、無駄にしない。

 

しかし、感受性の強い繊細な人たちや、とりわけ子供にとっては、

この日本古来の断り方というのは、相手の感受性を傷つけずに済む画期的な方法なのである。

 

 

 

私は、伯母が欧米(英語圏の先進国)にいる。

伯母は出羽守チックなところがあって、会うたびにいかに日本が精神的に未熟な国かや、馬鹿げた精神論が蔓延っているかを、延々と指摘してくるので、

日本にも沢山変わらなければならない部分がたくさんあることは、重々承知している。

 

 

しかし、最近思うのだが、日本人というのは、本来感受性が強い人が多いのではないか、ということ。

これは、良い悪いとかの問題ではない。ただ、そういう特徴があるというだけのことである。

 

本当は感受性が強くて、繊細で、すぐ傷つく心を持っている人が多いからこそ、

その心を傷つけないための断り方、表現の仕方が発達したのに、

それを全て「悪しき習慣」として切り捨ててしまうと、かえって日本人が生きづらくなってしまうのではないか・・と思うのだ。

 

 

 

 

そういえば、先ほどの伯母の話に戻るが、以前伯母がこんな面白い話を聞かせてくれたことがある。

伯母は、欧米のとある国で日本人向けに、通訳やツアーコンダクターのような仕事をしているのだが、

大昔に、『旧華族の、世が世ならお姫様にあたる女性』を案内したことがあったそうだ。

その時にした会話は、こんなものだったらしい。

 

姫「あそこに、箱が見えますでしょう?」

伯母「はい、見えますね」

姫「あの箱の中には〇〇がありましてね」

伯母「はい」

姫「私、その〇〇が、必要でしてね」

伯母「はあ・・」

姫「ちょっと、取って欲しいんですの」

 

普通の人なら「ちょっとあの箱取って」という一言で終わらせることを、その女性は非常に回りくどく、長ったらしい言い方をしていて、一事が万事この調子だったらしい。

 

この女性の例はちょっと極端だが、ここまで「曖昧な話し方」を実際にしていた人がいるというのは、なんだか面白い。

 

 

 

もちろん、ビジネスの場や、外国人を相手にする場合は、『YES/NO』をハッキリと伝えることは望ましいが、

子育てのようなプライベートな空間でなら、このような、日本古来の『曖昧な断り方』をするのも、一つの方法だろう。

場合や相手によって、どちらも使い分けできるようになれば、それが一番良いのかもしれないな・・と思っている。