負の感情の扱い方、今回は「恨み」についてです。
恨み・・なんだか字面だけでおどろおどろしい感じがしますよね。
恨みの感情が出てくる時というのは、根底に「強い悲しみ」があると私は思っています。
そして、その悲しみがどういう種類のものかと言えば・・そこには「大切にされたかった」「愛されたかった」という念のようなものが入っていると、私は思います。
(ただ、これはあくまで私の感覚なので、人により違うかもしれません。違うなと感じる方は、私の話を参考にされなくても大丈夫です。)
もしあなたが誰かに対して「恨み」を抱いていて、私と同じように、その恨みに「大切にされたかった」「愛されたかった」という念が入っているのなら、まずは自分で自分を大切にすることを心がけてください。
自分自身に対して、「大好きだよ」と声をかけてみてください。
相手にそうして欲しい、相手がそうするべきとつい思ってしまうかもしれませんが、
自分でできることは、まずは自分でしましょう。
そして、自分を大切にする、愛するということは、どんな人でも自分自身でできることです。
だから、まずは「自分で」自分を大切にしたり、愛を伝えたりしましょう。
自分を大切にするって、どうすることかよくイメージができない方もいるかもしれませんが、
まず最低限必要なことは、自分をけなす言葉をかけないことです。
例えば、その日終わらせたい仕事が終わらせられなかった時、
「仕事が終わらなかった」という事実を認識することは、ただの事実なので自分をけなすことではありません。
しかし、「できない自分はダメな人間だ」という言葉をかけることは、自分をけなすことです。
二つの違いがわかるでしょうか?
自分をけなすとは、自分自身の価値を否定する言葉をかけることです。
「ダメ人間だ」「クズだ」「バカだ」という言葉は自分の価値を否定する言葉ですよね。
「〇〇できなかった」「失敗した」という認識をする時、ついそこに「だから私はダメだ」「そんな私は馬鹿だ」のような、自分をけなす言葉をかけたくなる人は多いです。
しかし、そうやって自分を責めても何も良いことはありません。
向上心を持つことは素敵なことですが、そこに自分をけなす言葉は本来は不要なのです。
「失敗した、私はダメ人間だ、だから頑張ろう」とわざわざ考えなくても、
「失敗した、悲しいけど、また頑張ろう」というふうに捉えていけば良いのです。
もしどうしてもそうした言葉で自分を鼓舞したいのなら、「未熟だな」という言葉に置き換えてみてください。
また、自分を大切にするということは、自分のことを「大切な人と同じように扱う」ということです。
たとえば、大切なお客様にお茶を出すとき、あなたは汚い、適当なマグカップにお茶を入れるでしょうか?
それと同じように、
「大好きな自分のために、美しいティーカップに入れよう」と思いながらお茶を用意することだって、自分を大切にすることのひとつです。
ただ、『いつでも美しいティーカップにお茶を淹れることが自分を大切にすること』と捉える必要はありません。
例えば、洗い物が面倒くさいなら「マグカップに入れよう」でもいいのです。
仕事で疲れ切っているなら、「自分でお茶を淹れるのは面倒くさいし、スタバでコーヒーを買おう」でもいいですし、「スタバは高いから、マクドナルドでコーヒーを買おう」という判断でもいいのです。
要は、その時の体調や気分や予算に合わせて、自分にとって一番心地よいと感じることを選ぶことが、「自分を大切にする」ということです。
そうして自分を大切にしても、なお「恨み」が晴れないのであれば、
それを解消するためにはどうすればいいかを考えてみます。
これは、人や事象により結論が変わりますので、私からは「どうすればいい」ということは言えません。
例えば、「相手にどれだけ辛かったかを直接伝えたい」という場合もあれば、相手に変わる見込みがなかったり、もう関わりたくもないのなら、「相手とスッパリ関係を切る」という結論もあり得ます。
これは、自分にしかわからないことなのです。
ですから、どうしても晴れない恨みがあるのなら、
「自分はどうして欲しかったのか」と
「その気持ちを晴らすために、どうしたいのか」と
「今の相手に何をして欲しいのか」を、考えてみる必要があります。
参考になりそうな話を二つします。
☆☆☆
私が夫に対して強い「恨み」の感情を抱いてしまったことは一度だけあります。
それは、娘を出産した時のことでした。
出産してすぐ、入院中の私に、夫が「良いものを持ってきたよ」と言って、紙袋を持ってきたのです。
私は何かお土産かと期待したのですが、中に入ってたのは娘の教育用に作った数字が書かれたカード。
実は夫は娘に「頭のいい子に育って欲しい」と強く願っていて、産まれたばかりの娘に使おうと、そのカードを持ってきたのでした。
私としては「入院中くらいゆっくりさせて欲しい」と思ってたので、その『お土産』を見て、げんなりしました。
夫は、あくまで自分が使うために持ってきたつもりで、私に強制するつもりは毛頭なかったようですが、
それでも、病院の無機質な部屋に置かれると、「お前もこのカードを使え」と言われているようで、プレッシャーを感じてしまい、
結局私も産後のボロボロの状態で、まだ目がハッキリ見えてるかもわからない娘にそのカードを見せ、「乳児教育」をしたのでした。
退院してからも、娘が大きくなってからも、どうしてもその「産後すぐに乳児教育をさせられたこと」が頭から離れませんでした。
疲れているときに家事を頑張ろうとすると、いつもその時のことを思い出してしまうのです。
いくら忘れようとしても、どうしても忘れられないのです。
私はこのことを思い出す時、自分の中にどういう気持ちがあるのかを、言語化することにしました。
そうすると、
「出産という命がけのことをしたのだから、もっといたわってほしかった」
「産後すぐは、娘の教育よりも、私の身体のことを気にかけて欲しかった」
という気持ちがあることに気付きました。
次に、私は自分が「どうしたいのか」を考えてみました。
まず夫に伝えたいのか、それとも伝えずに自分の中で消化したいのかを考えてみたのです。
どれだけ忘れようとしても忘れられないということは、これからもし夫がまた私の気持ちを傷つけることをした時、きっと私はこのことを持ち出して夫にぶつけることになると私は思いました。
そうなると、口の悪い私は夫を傷つけることを確実に言うでしょうから、夫婦仲は壊滅的なことになるでしょう。
私は夫のことを愛しているので、それは避けなければなりません。
だから、自分の中で消化できるのを待つということはやめたほうがいいと判断しました。
なので、夫にあの時の悲しみを伝えた方がいいと思いました。
また、できるだけ夫を傷つける言い方をしないよう、私が冷静な時に打ち明けたほうがいいと判断しました。
次に、「夫にどうして欲しいか」を考えてみました。
私があの時のことを打ち明けた後に、「代償に何かしてもらう」「お詫びにチョコレートを買ってもらう」といったことをして欲しいか、それをしてもらうと気分が晴れそうなのか、を想像してみたのです。
夫は家事を手伝ってくれたり、子育てにも積極的に関わってくれるので、特に何かをして欲しいという気持ちはありませんでした。
また、この気持ちは、アイスやチョコレートといった甘いものを買ってもらうことで晴れるような類のものではないと判断しました。
そうして私は、ただ夫に「あの時の自分はどれだけ傷ついたか」を理解して欲しいのだと気がつきました。
そこで、私は自分が冷静なときに、夫にこのように話しました。
「あのね、どうしても自分の心の中に残ってることがあって、聞いてもらうだけでスッキリするから聞いてくれる?
実は産後すぐの時に、数字カードを持ってこられたこと本当に傷ついた。
あなたが私にプレッシャーをかけるつもりがないことは頭ではわかっていたんだけど、どうしてもプレッシャーを感じてしまった。
出産という命懸けのことをしたんだから、産後すぐは、娘の教育ではなくて、私のことをいたわることを優先して欲しかった」と。
夫は、黙って聞いてくれました。
私は夫に、「聞いてくれてありがとう」と言い、夫のことがいつも大好きなことを伝え、抱きしめてもらいました。
この時、私の中からは「恨み」の感情はすっと消え、それからは産後のことを思い出すことはすっかり無くなりました。
☆☆☆
また、私がもう一つ、明確に恨みを抱いた経験といえば、父のことです。
私は両親の離婚騒動の時、父から精神的虐待を受けたことは何度か書いたことがありますが、
その時のことは、実はもうあまり恨みに思っていません。
父も同じように育てられたからそうしてしまったのだとわかるし、父もそうしたくてしたわけではないことをわかっているからです。
ただ、成人してから、父と伯母の前で昔の話をした時に、
父が私に数々の母の悪口を言ったことについて「そんなことするわけがない。ももの勘違いだ」と言い、
離婚の直接の原因が実際は父の浮気だったにも関わらず、「母が騙されたせい」という嘘をつかれたことだけは、どうしても許せませんでした。
実は、父は伯母の前ではいつも「離婚したのは自分が悪かった」と言っていたそうです。
だから私は内心、父は過去のことを反省して、自分の過ちを認めているものだと信じていました。
そんな父が、私と伯母がいる場では、都合の悪いことを全て母と私のせいにし、自分は被害者だとアピールしたのです。
今思えば、あの場で父が嘘をついたのは、父親としての尊厳だとか、伯母の前での体裁的な意味もあったので、父にとっては仕方ないことだったのかもしれません。
しかし、このことは、私にとって父を軽蔑する決定的な出来事となったのでした。
さて、この父への恨みを私はどうしたかというと、
夫の時のように、父に話すことはありませんでした。
自分が、父に対して「どうしたい」かを考えた時に、とても「心の傷を理解して欲しい」とは思えなかったのです。
何故なら、拗らせたまま還暦を過ぎた父には人間性が変わる見込みがもうなく、
自分の心がどれだけ傷ついたかを話したところで、きっとまた彼は自分の被害者アピールをして、その場から逃げようとすることは明らかだったからです。
そんな父を見たら、きっと私はますます傷つき、失望し、父を軽蔑することになるでしょう。
幸い、父とは年に数回会うぐらいの距離感なので、その時だけは今までの経済的な恩義を返すつもりで、良い娘を演じることを私は選びました。
なので、父に対する恨みは、そのまま自分の中で消化することにしたのですが・・今改めて父のことを思い返してみて、以前ほどの『恨み』が残ってないことに気がつきました。
その理由は、後ほど説明します。
私が夫と父に対してとった対処は全く正反対です。
私は夫のことをこれからも愛せるように、夫には打ち明けることを選びましたが、
父のことはこれ以上嫌いにならないために、諦めることを選びました。
どちらが正解ではないのです。
もし、私の夫が、産後にろくに育児を手伝わなかったら、恨みはどんどん膨らんで、離婚という選択をしたかもしれません。
また、父に恩義が何もなければ、この恨みがきっかけで絶縁していた可能性もありますし、
逆に父と同居する可能性があったなら、わだかまりを無くすために、あえて恨みの内容を打ち明けたかもしれません。
こうした選択は、その人それぞれの環境や関係性、性格などにより変わるものなので、
どうすれば良いという明確な基準はないのですが、
よければ参考にしてみてください。
☆☆☆
過去の恨みについての話をしましたが、「恨み」を考える上で、大切にして欲しいことは、
新たな「恨み」を作らないように生きる、ということです。
そのために大切なことは、今抱えてるストレスが恨みに変化しないうちに対処することです。
どういうことかといえば、誰かに何かをしてあげる時は、それが期待通りの結果にならなかったとしても、「恨み」にならない限度内で、行動するということです。
もし、「恨み」になりそうだと感じたのなら、そこで手を止めたり、助けを求めたりします。
例えば、私は専業主婦なので、我が家の家事はほとんど私が担っています。
平日は夫が仕事を頑張っていることがわかっているのでかまわないのですが、土日に私ばかり家のことをしていると感じると、ストレスを感じることもあります。
そんな時、私は自分の心を洞察して、
「これ以上家事をすると、恨みになりそうだな」という感覚があったら、そこで一旦手を止めます。
そして、自分が楽になる方法を模索します。
例えば、夫に手伝ってもらえないかお願いしたり、夕食を手抜きにしたりするのです。
逆に、「恨みになる程ではないな」と判断すれば、そのまま続けます。
特に、「手伝って欲しい」「助けて欲しい」というSOSを出す時には、この感覚が非常に大事になります。
なぜなら、恨みを抱いた状態でSOSを出そうとすると、相手を非難する口調になりやすいのです。
また、手伝ってもらった後も、「どうしてもっと早く助けてくれなかったのか」だとか「どうしてもっとたくさんしてくれないのか」という点に目が行き、素直に感謝しづらくなるのです。
するとどうなるかと言えば・・相手に「手伝いたくないな」と思われたり、「感謝されないんだったらもう二度と手伝いたくないな」と思われたりしてしまうのです。
例えば、もしあなたが、誰かに「手伝って欲しい」と言われるとして
「ごめん、疲れてるから少し手伝って欲しいんだ」と言われるのと、
「ちょっとは手伝ってよ!もう!」
と言われるのでは、どちらのほうがより「手伝いたい」と思うでしょう?
おそらく前者ではありませんか?
また、手伝った後に
「本当に助かった!ありがとう!」と言われるのと、
ふん!といった様子で、全然感謝の気持ちが感じられないのとでは、どちらのほうがより
「手伝って良かったな、次も手伝いたいな」と思いますか。
ほとんどの人は前者だと思うのです。
しかし、「恨み」の感情が芽生えてからでは、後者の口調になりやすいのです。
円滑なコミュニケーションを取り、円満な人間関係を築くためにも、自分の感情が「恨み」に切り替わるか否かに気を配ることは非常に大切なのです。
ある意味、「恨み」という感情は、休息をとる基準、手を抜く基準とも言えるでしょう。
☆☆☆
さて、「恨み」について色々書いてきたのですが
私自身、この記事を書く中で、新たな発見がありました。
それは、「恨み」が生まれる裏には、「期待」が潜んでいるということです。
「このくらいは、してもらう権利がある」
「このくらいは、してくれるはずだ」
という期待が裏切られた時、人は「恨み」を抱きます。
『期待』について考えると、いつも私の義母さんの言葉を思い出します。
私の義実家の人たちは、驚くほど仲がいいです。
夫も義兄達も、両親が喧嘩したところは見たことがないといいます。
私も初めて夫の家に行った時、
「こんなサザエさんみたいな家が本当に存在するのか」と、かなりショックを受けました。
夫の家族円満の秘訣は紛れもなく、お義母さんの力です。
お義母さんは、いつもニコニコして明るい人で、お義父さんのことも心から大事に思い、信頼していることが、見ているだけでよく伝わります。
私は一度、「どうしてお義父さんと喧嘩をしないのですか?」と尋ねたことがあります。
お義母さんは答えました。
「期待してないから」と。
想定外のクールな回答にびっくりしたのですが、最近、この考え方ってとても大事だなぁ・・と思うのです。
相手に期待するからこそ、それ以外の反応が来ると傷つく。
相手に期待するからこそ、期待から外れると腹が立つ。
もちろん、期待する側に悪意はありません。
相手の良いところを見て知っているからこそ、「相手はこんな風にしてくれるだろう」「相手はこんな風に考えているだろう」と思ってしまうのです。
だから、人の良い部分を見るのが得意な人ほど、こうした期待をしてしまうのだと思います。
私が夫に「恨み」を持ったのも、
「産後の時ぐらい、大事にしてもらえて当然だ」という期待があったからですし、
父に「恨み」を抱いたのも、
「過去のことを反省しているはずだ」「だから落ち度を認めてくれるはずだ」という期待があったからです。
そして、私が夫に「理解して欲しい」という結論になったのは、
「夫には、私の悲しみを理解してくれる力がある」という期待がまだあったからです。
そして、結果的に、その期待通りの度量が夫にはありました。
逆に、私が父に対して、自分の心の傷を理解してもらおうと思わなかったのは、
「もうこの人には、過ちを認めるという期待はできないな」と気づいたからです。
そして、期待が消えたからこそ、父と適切な距離を取って接するようになったし、『恨み』の感情も消えていったのだと思います。
恨みの強さというのは、期待と結果のギャップの大きさに比例するものかもしれません。
なので、恨みを生み出さないためには、そして恨みを消化するためにも、できるだけ『期待』をしないということも大切かもしれないな、と感じています。
この話が何か参考になれば幸いです。