感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]足もとの幸せ

夫の友人で、プロのミュージシャンになった人がいる。

 

大学時代、夫は音楽サークルに入っていた。その活動の中で仲良くなった男性だ。

 

その男性が、奇遇なことに我が家の近くのレストランで演奏をするということで、家族で夕食を食べに行くことにした。

 

子供が生まれてからは、外に食べに行くといったら大抵ファミレスかフードコートかファストフードだ。

 

海の近くにあるそのレストランは外装も内装もお洒落な所だったから、私は久しぶりに気合を入れてドレスアップした。

 

私が近頃ハマっているのは裁縫だ。ちょうど自分用に作ったワンピースが出来上がった所だったから、私は早速、そのワンピースを着ることにした。

いつもかけている眼鏡もやめてコンタクトにし、ひさしぶりにきちんと化粧もした。

 

 

レストランの食事は美味しかった。夫の友人の演奏も素晴らしかった。素敵な夜になりそうだった。

 

しかし計算外だったことは、そこにとても美しい女性がいたことだ。

しかも、小さな子供を連れている一児の母だった。

 

 

 

急に私は、自分が惨めになった気がした。

 

 

 

近くが海で開放的な雰囲気だからだろうか、女性が着ているのは短丈のトップスとショートパンツだけ。そこから見えるウエストや脚は美しく引き締まっていて、彼女の自信を表しているようだった。

顔は小さく、横顔は彫刻のように整っている。

とても一児の母とは思えなかった。

 

私はついつい、その女性を目で追ってしまった。

 

3人の子を出産してから、私はあまりエクササイズもできていない。一時期ピラティスにハマっていたけれど、最近は裁縫にばかり心を奪われて暇があればミシンに向かっていた。今や私の身体はすっかりたるんでいる。

毎日エクササイズを頑張ったら、あんな風になれるのだろうか。

でも、生まれつきの骨格からまず違う。骨が太く顔も大きな私がどれだけダイエットを頑張ろうが、彼女のようにはなれないだろう。

 

 

 

その日着てきたワンピースが出来上がったとき、私は本当に嬉しかった。

骨太で鳩胸な私は、市販の服を着ると窮屈なプロレスラーのようになってしまう。

だから、手芸屋さんで一目惚れした生地で、私の体型に合わせて、好みのデザインで初めてワンピースを作れたことが本当に嬉しかった。

それに、そのワンピースを着た私は、自分で言うのも何だけれど、とても綺麗に見えていたのだ。

少なくとも家の鏡の前に立っていた時は。

 

しかし、身体自体が美しい女性は、どれだけ薄着であっても自分の肉体で美を表現できてしまう。私がいくら着飾っても、生まれつき美しい人には勝てっこ無いのだ。

 

 

劣等感に苛まれるにつれ、恥ずかしいことに、私の頭の中にはこんな考えが湧き始めていた。

『でも、もしかしたら彼女は私より貧乏かもよ?』

その女性と談笑している別の家族の子供が目に映った。着ていたのはFENDIの服だった。

私は横にいる、ユニクロを着た息子を見る。

 

ますます惨めになった。

 

 

しかし、私の頭は悪あがきをやめなかった。頭の中にこう語りかけて、惨めさを打ち消そうとしたのだ。

『家庭がうまくいってないかもしれないし、私の方が幸せかもよ?』

 

 

こんな自分が嫌だった。

 

 

比較して、自分の方に優れた点を見出そうとする。そして自分の方が幸せだと言い聞かせる。

昔からの、私の悪い癖だった。

 

私は以前『天使さまと呼ばないで』という小説の中で、劣等感の強い主人公がスピリチュアル教祖になっていく様子を描いたが、あの主人公はまさしく自分自身の姿だった。

小説『天使さまと呼ばないで』|小咲もも|note

 

 

近頃はその癖も大分落ち着いてきてると思っていた。

出かけるところといえば近所のスーパーか子供の幼稚園や習い事。私は自分自身を競争の目にさらすことなく、穏やかに暮らせていた。大好きな家族や友人に囲まれて。

 

それに、普段ならこう言い訳ができる。

「私は今、すっぴんだから」

「服もテキトーだから」

「育児が忙しくてエクササイズなんてできないから」

 

しかし、精一杯のオシャレと化粧をした今、私はその言い訳が使えない。おまけにスタイル抜群の彼女は、私と同じ子持ちの女性だ。

 

何より、いちいちこんな劣等感と嫉妬心で苦しくなる自分の小ささが、恥ずかしくて仕方なかった。

 

 

なぜ彼女より自分の方が幸せだと言い聞かせようとするのだろう。

彼女も幸せで私も幸せ、でいいではないか。

私の頭はまるで、彼女が私よりも幸せならば、それは私の幸せが彼女に奪われているという間違った解釈をしているようだった。

 

世の中で人を傷つけるのは、大抵、不幸に苦しむ人間だ。

だから他人の不幸を願うことは、巡り巡って自分を傷つけることを望むようなものなのだ。

だから私は他人の幸福を心から願い、祝福すべきなのだ。

 

頭ではわかっている。だが心が苦しい。

 

 

彼女たちの様子を見るに、もしかすると芸能関係かセレブな人らしかった。

 

そう、この世界には私よりも裕福で、美しい女性はたくさんいる。

その人たちはもしかすると、私がお金も置き場も無いから買うことができずただネットショップで眺めているだけのヘレンドやマイセンのティーカップで優雅にお茶をしているのかもしれない。

そう思うと、何故か自分の存在が急に小さくなった気がする。

地球の中で私という存在がどんどん小さく、小さくなっていって、誰にも見てもらえてないような気がする。

 

 

「私って、いてもいなくても、何も変わらないんじゃない?」

 

そんな自嘲的な考えが浮かんでくる。

 

 

私はたまらず、夫に話しかけた。

「あそこにいる人、すごい美人よ。芸能人かしら?」

 

しかし夫は興味なさそうに「そう」と答えた。

 

自分で言うのもなんだが、夫は私のことを愛してくれていると思う。

だから夫はその女性に本当に興味がなさそうだったし、今も昔も変わらず私(と子供)だけを見ていることが伝わった。

 

『でも、夫は私のことを愛してくれてるとわかったから私はやっぱり幸せなんだと思った。目の前にある幸せに気付かせてくれた夫に感謝☆』

 

こんなふうに、頭の中の葛藤を締めくくろうとしたのだが、脳内にいるシニカルな私はこう呟いた。

 

『でもそれって、結婚してなければ、仲の良い伴侶がいなければ、幸せになれないってことじゃないの?』

『こんなことブログやTwitterに書いたら、【結婚しなければ幸せになれない】って呪いをかけることになるんじゃないの?』

『結局私は、【他人より自分が何を持っているか】で幸せを図ろうとする域を出てないんじゃない?人との比較で自分を幸せと思おうとするなんて、愚かなことよ』

 

 

私は、幸せが何かわからなくなった。

 

 

 

 

こういう時は、逆説的に考えてみよう。

私が美しくセレブな女性を見て自分の幸せに確信を持てなくなったとき、どんな感覚がしたか。

【自分の存在が小さくなった】気がしたのだ。

 

つまり私は、自分の存在に確信を持てなくなるとき、不幸を感じるのかもしれない。

逆に言えば、自分の存在を感じられる時、幸せを感じるのでは無いか。

 

 

夫が私を見てくれて幸せだと思うのは、結婚してるからや夫と仲が良いからではなくて、夫に自分の存在を確かめてもらっているからだ。

 

美味しいものを食べて幸せだと思うのは、味覚を通して自分が今ここにいることを確かめられるからだ。

 

子供達と眠る時に幸せを感じるのは、自分と子供達が今この瞬間ともに生きていることがわかるからだ。

 

作ったワンピースが完成して幸せと思うのは、物を創り上げることで自分の存在と頑張りが証明できたような気がするからだ。

 

掃除をして綺麗になった床を見て幸せを感じるのは、自分が存在することで誰かの役に立つことが嬉しいからだ。

 

 

人は…否、少なくとも私は、自分の存在を確信することで、自分がこの世界にいて良いと感じることで、幸せを感じているようだ。

 

私の場合、夫や子供や家事や裁縫が『自分の存在を確かめる』という役割を果たしてくれているだけで、人によってそれは仕事だったり、山登りのような別の趣味だったり、友人だったり、或いは自分自身だったりするのだろう。(そしてその割合も人により違うのだろう)

 

 

そこまで考えが及んだところで、ふと右下を見ると、2歳の息子が幸せそうにニコニコしながら食事をしていた。

幸せだな、と思った。

 

 

これからも私は、自分より美しかったり、豊かだったり、或いは裁縫が上手な人を見たりするたびに、今日と同じように劣等感に苛まれるのだろう。

 

そうしてまたみっともなく別の部分を比較したり、自分のほうが優れていそうなものを探して、そんなものが見つからなくて、やっぱり自分は恥ずかしい人間だなあと思いながら、

また自分の足もとにある幸せを数えていくんだろう。

 

 

店を出ると、辺りはすっかり暗かった。

近くにビルも無く、街灯も少ないからか、空には今まで見たことがないほどたくさんの星が輝いていた。

 

 

 

街の光が無いと、こんなに星って見えるものなんだなあと感動しながら、私は何度も空を見上げて帰ったのだった。