幼稚園年中の娘には、クラスに嫌いな子がいるらしい。
仮にその子をAちゃんとするが、Aちゃんは自分が使いたいおもちゃを娘が使っていると「使い過ぎだよ」と奪っていったり(使っている数は決して多くないのに)、
娘が良かれと思って「〇〇したら?」と助言したことを「そんなこと言ったら、先生に言いつけるよ」と謎に脅したりするそうで
大人の私でも、面倒くさそうだから関わりたくないな、と思うような子だった。
(勿論、娘からの一方的な報告なので見方に偏りはあるだろうけども)
私は「その子とは多分相性が良くないから、できるだけ関わりを持たないようにしなさい」と伝えていたのだが、なかなかそうもいかないようなので、私から幼稚園の先生に対応してもらえないか言った方がいいのかな…とも思ったのだが、
その前にただ一つ。「まずは『やめて』を言いなさい」と伝えた。
だが、娘は難しいという。いつも対応をどうしようか迷ううちに、物を取られてしまうらしいのだ。
そこで私はシミュレーションをすることにした。
私がA子ちゃんになりきり、おもちゃを取るふりをする。
そこで娘は「やめて」を即座に言うのだ。
何度か練習すると、段々と咄嗟に言えるようになったので「この調子で幼稚園でもやってみなさい」「もしそれでやめてくれなければ、ママが幼稚園の先生に伝えておくから」と言っておいた。
そして、翌日。
娘は嬉しそうに帰ってきた。
「やめて、と言えたよ」と言う。
だが、A子ちゃんの反応は期待通りとはいかなかった。
「だって私使いたいもん」と言って、やめてくれなかったのである。
私はまず、娘を褒めた。「やめて」を言えたあなたはすごい、と。
そして、今回のケースでは「やめて」を伝えてもやめなかったA子ちゃんに非があると言った。
さて、こうなると私の出番である。
「よっしゃ、ママが幼稚園に電話したろ!」
念のため、娘に確認をする。
A子ちゃんには今日のことを謝ってもらいたいのか、それとも謝ってもらえなくてもいいからこれから同じことを繰り返してほしくないのか。
娘は後者だと言った。
私は幼稚園に電話し、娘がA子ちゃんを嫌いなこと、トラブルがあったことを伝えた。
そして『娘は今日のことは謝ってもらう必要はないと言ってるのですが、これから似たようなことがあった時に対応してもらえると嬉しいです。また、先生もお忙しくて気づかないこともあるかと思いますので、娘が自分から先生に報告できるようにこちらからも伝えておきます』と言った。
娘にも、「先生はたくさんの子供を見てるからあなたがA子ちゃんに嫌なことをされても気づかないこともある。だから『やめて』を言ってやめてもらえなかった時は、あなたが先生に報告に行きなさい。それがあなたの責務である」と伝えた。
翌日、娘はまた嬉しそうに帰ってきた。
「またおもちゃをとられたんだけど、先生に伝えたら謝ってもらえた!」と言う。
私は娘を褒めた。
やめてを伝えたこと、そして先生にきちんと報告ができたことを。
⭐︎⭐︎⭐︎
「やめて」をちゃんと言えることは素晴らしいことである。
実のところ、私も「やめて」を言うのが苦手だ。
言ったら相手を傷つけるのではないかとか、嫌われるのではないかとかいろいろ考えてしまって、我慢してしまいがちである。
だが、これは一種の逃げである。
相手に悪いからと言い訳して、自分のやるべきことから逃げているのだ。
自分が傷つくことから逃げているのだ。
(もちろん、犯罪で怖くて声が出ないといったケースはここから除外される)
人によって、何が不快かは違う。
それは伝えなければわからない。
娘にも話した通り、これは"やられた側の責務"なのだ。
子供がちゃんと「やめて」を言えるように育つために、大人にできることがふたつある。
ひとつは、子供が「やめて」と言うことを、すぐにやめることである。
私の両親は、それができなかった。
父親は、わたしが「はなして!」といっても手を放さず、ニヤニヤしながら手を掴んだ。
母親は、私がからかわれたことに怒ると、『ごめんごめん』とやめてはくれるものの、『ジョークやから』と言い訳するので、私は余計に怒り狂った。
父親のやり方は、私の感覚を鈍らせるものだった。
(私がやめてと言ってることを、父は笑うのだから、これは楽しいことなのかもしれない)と思うようになった…気がする。ただ、かなり小さい時の記憶なので、この辺の感覚は正直なところ、あやふやだ。
母親の「ジョークだから」という言い訳が、私は嫌いだった。
嘘をつくとダメと言われるのに、どうしてジョークと言えば許されるのだろうと、理不尽さを感じていた。
今思えば私は"明らかに嘘とわかること"に怒っていたのだろうが、子供の私にはその判断がうまくできなかった。
自分は本当に傷ついて怒っているのに、たぶん子供だからそれが母には可愛く見えたのだろうが、真摯に謝ってもらえないことが辛かった。
(だから私は娘がどんな些細なことに怒った時でも、必ず真摯に謝るようにしている)
親がこのような態度でい続けると、子供は次第に、自分の「やめて」には効力がないのだと誤った認識をしていく。
そして次第に、「やめて」を言えなくなる。
或いはやめてと思う自分がおかしいのではないかと感じるようになる。
だから、やめてと言った時には必ずやめなければならない。
もしやめられない理由があるなら、それはいったん止まってから伝えるのだ。
さて、「やめて」と言われてもやめなかった私の父親や、真摯に謝ってくれなかった母親は、悪い人間だったのだろうか?
悪い人間だから、相手の嫌がることをやめられないのだろうか?
私の見解は違う。
「やめて」といってもやめてくれない人間は、多くの場合、自分の感じることを相手も同じように感じ取っているはずという誤った幻想を抱いてるのだと思う。(もちろん、自分を利するためにわざと辞めないような極悪人も世の中にはいるだろうが)
だから、やめない。
やめてと口では言っていても、心の中では喜んでいるはずだ。だって自分の心は楽しいのだから。という思い込みがあるのだと思う。
自分と相手が違う人間で異なった感じ方をするという認識が薄いのだ。
じゃあやっぱり悪い人間じゃないか、と思われる人もいるかもしれないが、こういうタイプの感じ方をする人には、良い部分もある。
それは相手の悲しみを自分のことのように感じられたり、自分が喜ぶことを相手にもしてあげたいと思えるところである。
相手と自分が繋がってると信じているからこそ、相手の悲しみや喜びを自分のことのように感じるのだ。
私の父親もそうだった。
自分が楽しくて相手が嫌がることに対しての感度は低かったが、思いやりが強い部分もあって、私の悲しみを自分のように悲しんでくれたり、私が喜ぶだろうといろいろなギフトをくれたりする。
私の思い込みかもしれないが、日本人はこの手の感じ方をする人が多いのではないかと思う。
欧米に住む私の伯母は
「日本の諸悪の根源は、精神論」と言った。
では逆に、良いところはどこかと尋ねると、「思いやりのあるところ」と答えた。
例えば、伯母はいろいろな国をこれまで訪れたらしいが、空港のキャリーケースが流れるベルトコンベアで、キャリーケースの持ち手が客の持ちやすい向きに全て並べられているのは日本だけだったという。
「こんな細やかなところまで気遣いができるのは、日本だけよ」と伯母は言った。
私にはこの、精神論と思いやりの強さというものが、どこかで繋がっているように思えてならないのだ。
あらゆるものにアニミズムを感じ、それを大事にするからこそ、相手を思いやれる。
だが逆に、精神性を重視しすぎるあまり、あらゆる物事を精神だけで解決できると思い込んでしまう。
また、相手と自分が同じように感じていると思うからこそ、思いやりを持てるが、
相手と自分が違う人間であるということを忘れるからこそ、論理的に説明しようとせず、ただ頑張ればなんとかなると思い込んでしまう。
むかし、森信三先生の『修身教授録』を読んだ時に、
『性格における短所は、行きすぎた長所である』
という主旨の文が書いてあり、感銘した覚えがある。
「やめて」を言えない日本は悪い国だ…そう言うのは簡単だけども、
そうして日本の悪癖を"矯正"していったら、私は日本は思いやりも面白みもない国になってしまうのではないかと思う。
「やめて」を言いにくいのは、相手と自分がどこか繋がっているような感じ方をしているから。
もちろん繋がっている部分もあるけれど、違う部分もある。
だから、相手が「やめて」を言ったらやめなければいけないし、逆に自分がやめてほしいことは、ちゃんと「やめて」と言って良いんだよ。
でもこの感じ方をしているおかげで、相手を思いやることもできるから、決して卑下することはないんだよ。
そんな気持ちでいけばいいのではないかと、思っている。
かなり話が逸れてしまったが、話を日本から子供に戻す。
子供がちゃんと「やめて」を言えるように育つために、大人にできることのもうひとつは、
子供自身にも、相手が「やめて」と言ったことはすぐやめるようにさせることだ。
実のところ私の娘はこれが苦手だ。
家族以外の人に「やめて」と言うのも苦手だが、相手から(とりわけ、家族のような近しい存在から)「やめて」と言われたことをやめるのも苦手なのだ。
私は毎度「やめてと言ったことはすぐやめなさい。やめたくない理由があるなら、一旦止まってから伝えなさい」と口を酸っぱくして伝えているが、中々この癖は治りそうにない。
やめてと言ったことをすぐやめない時というのは、大抵(良かれと思って)だったり、(自分は平気と思ったから)だったりする。
また、特に良かれと思ったことに対して「やめて」と言われることに、非常に傷つく。
娘は「やめて」と言われると、自分が無価値なように感じるそうだ。
「そうじゃないんだよ、あなたと相手とは感じ方が違うんだから、或いはあなたはそれがダメだと知らなかっただけなのだから、そういうときは『ごめんね』って言ってすぐやめればいいんだよ、それで終わりだよ」と何度も伝えているが、これはなかなか言葉だけでは納得できない感覚のようだ。
娘の気持ちもよくわかる。私もそうだった。
私も娘も感受性が豊かで、人の喜ぶ顔を見るのが好きだ。
心のどこかで、相手の喜びを自分のことのように感じるからだろう。
だからこそ、「やめて」と言われることに衝撃を受ける。
自分が楽しいと感じることを、相手が不快だと感じることが信じられないし、傷つくのだ。
私や娘のようなタイプは、やめてと言ったことをすぐやめる他に、もう一つ、気をつけなくてはならないことがある。
それは、"相手の反応が自分の期待通りではなくても、怒らないこと"である。
もっと言うと、相手の反応に期待しないことである。
そのためにも、『自分と相手とは、感じ方が違う部分があるということ』はよく覚えておかなければならない。
これは、相手にいらないお節介を焼かないためにも、そして期待通りの反応が来なかった時に恨みに思わないためにも、必要なことなのだ。
相手に期待通りの反応を求めてしまうのも、自分が相手と同じ感じ方をしていると思うからこそなのだ。
☆☆☆
私と相手は違う人間だ。
だから、あなたが不快と思うことは「やめて」と言って良いし、あなたもまた、相手が「やめて」と言うことはやめよう。
相手を不快にさせたからといって、自分をけなすことはない。
あなたは相手と感じ方が違うということを、知らなかっただけなのだから。
ただ謝った後に、同じことを繰り返さなければいいだけだ。
私と相手は違う人間だ。
だが、全てが違うわけではない。
心のどこかで繋がっている部分もあって、そんな部分が私たちに思いやりという素晴らしい美徳をもたらしてくれる。
あなたが相手のことを自分と同じように感じるのであれば、それはあなたの心に深い思いやりが存在する証拠なのだ。
ただそれが行きすぎて"要らぬお節介"とならないように、相手には期待しないようにしよう。
つまり、相手に何かしてあげる時は、期待通りの反応が返ってこなくても許せる範囲のことをしよう。
それは相手を切り捨てることではなく、相手の存在を、個性を、尊重するということなのだ。