「ありがとう」を言うのが苦手な子供だった。
母から「ホラ、ありがとうと言いなさい」と言われても、なかなか勇気が出なかった。
ありがとうを言うことは、自分の心の一番脆い部分を曝け出すことのような気がした。
そんな私を母は"困った子"とでも言うように「もう〜」と呆れたように笑ったり、怒ったりしていた。
思えば母は、親切をしてくれた相手への申し訳なさと、"自分は躾をきちんとしてるのだが、子供がワガママなせいでそれを証明できず困っている"というアピールのために、そんなふうに振る舞ったのだと思う。
だが、そんなふうに"困った子"扱いをされると、ますます言うのが嫌になった。
それどころか、母の言うことに従うと負けてしまうような気がして、私はそっぽを向いた。
本当は、たぶん、恥ずかしかったのだ。
そして、怖かったのだ。
周りの子はみんな、自分と違って素直なことは肌で感じていた。
私もあんなふうに振る舞えば、きっと母は喜び、大人から好かれる子供になるのだろうなと思っていた。
でも、出来なかった。
なぜ自分は、子供らしく素直に言うことを聞けないのかわからなかった。
そんな自分はやっぱり、ワガママで困った子供なのだと自覚していた。
こんな自分で母に申し訳ないとすら思っていた。
そんな私も大人になるにつれ、社会の荒波に揉まれてきちんとありがとうを言えるようになったが(言わないと角が立つからね!)
私の娘もやっぱり、ありがとうを言いたがらない子供だった。
言葉の発達が早く、2歳前には「おおきなかぶ」のストーリーを自分でほぼ説明できるほどの語彙力はあった。
だから言う能力がなかったわけではない。
行きつけのパン屋で店員さんとちょっとした会話できるようになっても、娘は店員さんに「ありがとう」を言えなかった。
「ありがとうは?」と私が促すと、首を振ったり「やだ!」と言ったりした。
母のように「もう〜」と言いたくなるのを堪え、私は過去の自分に思いを馳せた。
言いたくないのではなく、怖くて言えないのだ。
最初は、私が「ありがとう」を言う姿を見せてまずは覚えてもらうことにした。
「ママが言うから、それをよく見ておいてね」と伝えたのだ。
そうすると自然と言えるようになるかと期待したが、私の予想に反して、娘はそこからしばらく経ってもありがとうを言おうとしなかった。
そこで次に私は、「『あ』だけ言うのはどう?」と提案することにした。
娘は「あ」と言う。
私は続けて「りがとうございます」と言った。
それがやがて「あり」になり、「ありが」になり、時には私が「ありが」と言い娘が「とう」と言ったりもした。
時々、それすら拒否することもあったが、そんな時は「じゃあママが代わりに言うから、それを見ていてね」だとか「ママが代わりに言ったら、頭をペコってしようね」だとか提案した。
こうして二人でありがとうを伝えた後、ありがとうを言うことは自分に返ってくるということも教えた。
「人はありがとうを言われると、もっとあなたに優しくしたくなるんだよ。
ありがとうを言うのはタダでできるから、言った方が得なんだよ」と。
そんなふうに徐々に「ありがとう」を言うのに慣れて、ありがとうのメリットも理解したおかげで、5歳の娘は今、ありがとうを言うのが本当に上手な、"素直な子"になった。
…私が憧れていた"素直な子"は、多分心の中に潜んでいた本当の、優しい心を持つ自分の姿だった。
でもどうしたら、その姿を見せられるか私は知らなかった。
だからどこかの誰かが、何かしらの魔法のような形でその姿を見つけてくれることを祈っていた。
世界のどこかにいる"運命の人"が、私の心の中の本当の美しさを見出してくれると信じていた。
"美女と野獣"のように。
そしてあの物語のように、真実の愛さえあれば、それが可能だと思っていた。
でも現実は、そうではなかった。
粗暴な振る舞いをすれば、他人からもただ粗暴な野獣に見えるだけ。
愛の力で自分の本当の姿を見せられることなどない。
それを可能にするのは、自分の努力と、ほんの少しの勇気だ。
相手に伝わりやすい形で優しさを表現すると言う努力と、自分の心の弱い部分を素直に見せるという勇気。
ただ、私はその努力のしかたと勇気の出し方がわからなかったのだ。
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人を育てる上で大切なことは色々とあるが、その一つは、相手に「ステップ」を作ることなのではないかと思う。
そしてそのステップが大きすぎるなら、さらに細かく分割したステップを作ることだ。
「ありがとう」を言うために、「あ」や「あり」というステップを作ったように。
だが、頭でそれがわかっていてもできない時もある。
そんな時は大抵、『できて当然と思うことができない時』だ。
5歳になった娘はもう、幼稚園でも毎日着替えをしているので、簡単な洋服なら自分で着ることができるはずだが、風呂上がりに「自分でパジャマを着て」と言うと嫌がることがあった。
パジャマなんて、幼稚園の制服よりもずっと単純な作りなのに。
こっちは下に子供が二人もいて、風呂の時には安全確認しなければいけないし大変なのに、とイライラして「自分でできるでしょう」と最初は言っていた。
確かに能力的にはできるのだが、それでも何かしらの理由があって、娘は自分ではしたくないようだった。
こんな時に大人の正しさを押し付けても、あまりうまくいかない。
分解し、ステップを作るのだ。
「じゃあ、上の服は着せてあげるから、下のパンツとズボンは自分で履いてくれる?」と提案してみると、娘はそれを受け入れてくれた。
少し手間にはなるが、それでも全て着せるよりもずっと楽なので、私もありがたかった。
大人からすると、"「ありがとう」を言うこと"も、"パジャマを着ること"も、一つのステップに見える。
だが実際は、「ありがとう」は「あ」と「り」と「が」と「と」と「う」を言うステップに分けられるし、
パジャマも肌着、下着、トップス、ズボンというステップの集合体なのだ。
子供の背が届かない場所に踏み台(ステップ)を置くように、子供ができないことに直面したら、その"できないこと"を分割し、踏み台を置くことが、大事なのかと思う。
子育てで学んだことは、コミュニケーションにおいて大事なことは、相手と自分の"落としどころ"を見つける、ということだった。
ところが親子間になると、大人の正しさを押し付けてしまいがちだ。
確かに、大人のやり方は社会的には好ましく思われることが多い。
だが、子供には子供の正しさや論理がある。
それは恥ずかしさによるものだったり、寂しさによるものだったりするので、大人はつい「そんなことで」と言ってしまう。
特に繊細な子供ほど、恥ずかしさや不安といったネガティブな感情がある時には、こちらに怒りをぶつけながら「やだ!」とか「いや!」と言う。
それは大人には、「やりたくない!」「面倒臭い!」というメッセージに見える。
こうして子供は"ワガママな子"や"困った子"扱いをされていく。
もちろん時には、本当にやりたくないものもあるかもしれないが、話を聞いてみると「やり方がわからない」だったり「疲れていてやる気が出ない」だったり、「自分にはできる気がしない」というSOSであることも多い。
そんな時にかける言葉は「このぐらいできるはずでしょ」ではなく、「じゃあ、この部分はできる?」「どこまでならできそう?」でありたいと思う。
まだ、完璧ではないけれど。
この考え方は、大人にも同じように当てはまる。
やる気が出ない時、憂鬱な時、しんどい時、「できない自分」を責めてしまいがちだけども、何ならできるかを分割して考えてみる。
そして、できそうなことに着手する。
着手してみると、意外と元気が出てきて他のこともできることは多い。
もし他のことができなくても、一部分をできた自分にオッケーを出す。
すると元気が出た時に、また他の一部分に着手できるようになる。
こうしてひとつひとつできることをしていくことこそが、日々の幸福に繋がる気がしている。
今年はそんなふうに過ごせたらいいな、と思っている。