感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[子育てで感じたこと]『知らないことは叱らない』

私が小さい頃、嫌だったことは『知らないでしたことを叱られること』だった。

 

私は悪気なく、ダメだと知らずにしたことを母に叱られた時、どうしようもない理不尽さを感じたものだ。

 

それは母の中では『言わなくてもわかるであろう常識』であったのだろうが、私の知らない理屈を急に当然な物のように押し付けられ、叱り飛ばされることは、まるで自分の尊厳を奪われることのように感じたのだ。

 


だから私は自分の子育てでは、子供が『ダメだと知らずにしたこと』に関してはできるだけ叱らず、諭すように心がけている(勿論完璧ではない)。

だが時折、自分でも知らないうちに『子供が知っている前提』で叱ってしまう時がある。

 

 

先日、我が家は夕食にピザをとった。私が食べたくなったからだ。

4歳の娘も「食べたい」と言ったので、娘の希望の種類のピザを早速注文した。

到着を待つ間、私はまだピザが食べられない1歳半の下の子用のおにぎりを作っていた。すると娘が言った。


「ピザは食べたくない。おにぎりがいい」と。

 

私は頭に血が登るのを感じた。


折角注文したのに、しかも娘の好きな種類のピザを選んであげたのに!

 

私は語気を強めながら「せっかく注文したのにそんなこと言うのはひどいと思うよ!」と言った。

 

食べたいものを買ってあげてから変えるなんてありえない、とこの時の私は思っていた。


しかし、そう叱ってから段々と冷静を取り戻した私は、自分の『ありえない』という感覚は本当に正しいのか疑問を持ち始めた。

 

注文してから食べたいものが変わったことは、私もたくさんある。


レストランで注文した後に、他の人のテーブルに届いた料理の方が魅力的に思えて、或いは友人に分けてもらった料理が自分の注文した料理より美味しくて、(やっぱりあっちにすればよかったな)と思ったことなど今まで幾度となく経験した。

 

ただ、私は大人だったから、『追加注文はお金がかかるから我慢しよう』『相手に悪いから我慢しよう』という判断をして、それを口に出さなかっただけである。

 


気をつけなくてはならないのは、子供は自分の感情を素直に表現するという点である。


つまりは、大人であれば『失礼だから言わないでおこう』と判断することを、子供は自然に言ってしまうのだ。

 

 

何故なら娘には、「買ってもらったからには注文したものを食べなくてはいけない」「注文したあとにオーダーを変えることは失礼だ」という前提知識が無いからである。

 

 

私は自分が無意識に自分の常識を娘に押し付けていたことを反省し、娘にこう伝えた。


「さっきはママはああ言ってしまったけど、食べたいものが途中で変わることってあるよね。ママも今までたくさんあったよ。

でもね、注文したピザはもうお金を払っているから、やめることができないの。

今日は、娘ちゃんの分もおにぎりは作ってあげるけど、ピザを一口は食べてね、せっかく娘ちゃんのために注文したのだから、食べてくれないと悲しいからね」と。

 

私はまた、娘に伝えた。
「次に食べたいものが途中で変わったら、『これを食べたくない』ではなく、『あっちも食べたい』と伝えたほうが・・・今回の場合だと、『ピザも食べるけど、おにぎりも食べたい』と伝えたほうが、相手を悲しい気持ちにさせないから、今度からはそうしてね。そして食べたいと言って買ってもらったり、作ってもらったりしたものはできるだけ食べてね」と。

 

娘はちゃんと一口、ピザを食べてくれた。残したピザは冷凍しておくことにした。私の今度の昼ご飯になるだろう。

 


勿論、これはある程度柔軟な対応が可能な家の中だからできることで、外食の場合だと、『今度来た時はあっちを注文しようね』だとか『ママの分と半分取り替えっこしようか』といった語り掛けをしなければならないだろう。

 

 

 

 

こうした、前提知識や適した表現方法を子供が知らないばかりに、私がその意図を汲み取れず思わず叱ってしまったケースは、他にもある。

 

 

 

 

我が家は幼稚園の後、娘の好きなおやつを買いに行くのが日課なのだが、日によってそれがコンビニのアイスクリームだったり、スーパーのお菓子だったり、マクドナルドのフライドポテトだったりする。

 

だから私は娘に毎度、『今日は何が食べたい?』と聞くのだが、先日娘はこう言った。

 

「わからない」と。

 

娘のその言い方がえらく投げやりなものに感じた私は、「じゃあママが決めようか?」と提案すると、それは嫌だと娘は答えた。

 

そこで私は、娘が選びやすいようにいくつかの選択肢を提案してみた。

「スーパーでお菓子を買う?それともアイスクリームがいい?それかフライドポテト?」

 

しかしそれでもなお、娘はイライラした様子で、「決められない!」と答えた。

 

重い下の子をおんぶしながら娘の意味のわからない我儘に付き合わされるのにうんざりして、私は娘に

「それじゃあ今日はおやつは買いに行かないよ」と言うと、娘は怒った。

 

娘の言葉の数々に理不尽を感じたものの、このままではお互い嫌な気分でおやつを買えないことは必至だったので、私は娘の心のうちを詳しく聞いてみることにした。

「どうして決められないの?」と。

 

すると娘はこう答えた。

「頭の中がぐちゃぐちゃしてるから」と。

「じゃあ時間が経ったら、決められる?」と聞くと娘はうんと答えた。

 

 

つまりは、娘は頭が混乱しているから「わからない」「決められない」と言っただけであり、

別に思考を放棄しているわけでも投げやりなわけでもなかったのである。

 

だが私は、娘の『わからない』という言葉に"大人の論理"を当てはめて、娘にはおやつを決める意思そのものがないのだと思い込んでしまっていた。

 

 

娘が言いたかったことはつまり、「考え中」ということだったのだ。

娘はその表現の仕方を、知らなかっただけなのだ。

 

 

合点がいった私は、娘にこう言った。

「さっきは急かしてごめんね、じゃあちょっと考えてみて、決まったら教えてくれる?」と。

そしてこう付け加えた。

「今度からは、こう言う時は『考え中』って言ってね、『わからない』や『決められない』だと、考えたくないのかなあとママは思ってしまうから」と。

 

 

この話をしたのは数週間前の話だが、娘はこれ以来、頭が混乱しているときには「考え中」と言ってくれるようになり、私はそのことにとても助かっている。

 

 

私はもしかすると、ちょっと甘い親かもしれない。

子供には問答無用に『大人の理屈』を当てはめて社会の洗礼を早く受けさせるのもまたひとつの考え方だろう。

だが、私はこの『知らないことは叱らない』というスタンスを変えるつもりは今のところはない。

 

 

例えば会社の場合、何も知らない新入社員にその企業の常識を知らないことを馬鹿にしたら、或いは叱りつけたらどうなるだろう。

打たれ強いタイプの人間、やる気がみなぎっている人間の場合はきっとそれでもついてくるだろうが、私のような打たれ弱い人間の場合は、やる気をなくし、ビクビクしながら会社にいることになるだろう。

そうして自分の一挙一動が間違いではないだろうかと恐れながら、ストレスフルな状態で仕事をすることになるだろう。

 

仕事であれば我慢できたとしても、それが家庭だとどうだろう。

 

 

そう考えるとやはり私は、『知らないこと』を叱る気にはなれないのだ。

 

しかし問題は、自分の『常識』『語彙』を相手が知っていて当然だとナチュラルに思い込んで行動してしまう時があることだ。

そして子供の場合は特に、この世界や社会は、私の想像以上に知らないことに満ち溢れているのである。

 

 

これからも私は、こうして自分の常識や語彙を子供も持っていると思い込んで叱ってしまうことがあるかもしれない。

 

そんな時はできるだけ立ち止まって、自分の『常識』を子供に押し付けていないか、省みていきたいなあと願っている。