感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[理論]幸福感に気づきやすくなる方法

前回の記事[エッセイ]"幸福"と"幸運" - 感情の考察、日常の幸福で、偽スピリチュアルやマルチ商法などにハマりやすい人達は、自分の感覚を研ぎ澄まして、自分が何に幸福を感じているかを知るのが必要・・・と書いた。

 

何故かと言えば、幸福感というのは、地味だからだ。

喜びのようにわかりやすく派手なものではない。

 

幸運のもたらす鮮やかな快楽を求める人にとっては、幸福感というのは気付きづらいものなのだ。

 

では、それに気づきやすくするためにはどうすればいいのだろう?

今回は私のオススメの方法を紹介する。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

幸福感を味わうために最も大切な要素は何かといえば、『感謝』だと私は思う。

だが、難しい点は、科学技術や医療が発展した現代においては物があることや便利なことや生きていられることは当たり前になりすぎていて、なかなかその有り難みに気付けないということだ。

どれだけ恵まれている人であっても、それが恵まれていることと気が付かない限り、感謝することは難しい。

それどころか、自分よりもさらに恵まれている他人を見ると不満すら覚えてしまうだろう。

 

 

娘が赤ちゃんの時、こちらが近づくだけでにっこりと微笑みかけてくれる姿を見て、

『本来は、愛する人がそばにいるだけで、人間というのは幸せなものなんだろうな』とふと思ったことがある。

成長するうちに、他人と比較するようになって、自分に不足しているものが見えると、その幸福に気づかなくなるのかもしれない・・・そんなことを考えたものだ。

 

話がまたもや逸れてしまったが、では、感謝するのに大切なことはなんだろう?

 

それは、やはり色々な本などでも言われてることだけれども、まずは身の回りの感謝できることを見つけることだろう。

健康であること、ご飯が食べられること、水道や電気が使えるということ・・・

できれば紙やノート、面倒くさければスマホのメモ機能にでも、思いついたものを書き出すことをオススメする。(これは単に、書き記したり見返したりすることで思い出しやすくするためである)

 

 

ちなみに、私自身は昔、感謝なんて絶対にしたくない人間であった。

貧しい子供時代を過ごし、中学時代はいじめを受けていた私は、周りの恵まれた人を見ると、感謝などしたら負けのような気すらしていた。

なんとなく、自分の心がもったいないような気がしたのだ。

でも、人生の恩人から「幸福になりたいのなら、感謝しなさい」と言われたことをきっかけに、様々な物事に感謝してみて、これは何より自分が良い気分になるために必要なことなのだと気が付いた。

何より、タダでできることである。

 

「感謝しなさい」と言うとどうしても宗教臭くなりそうであまり強く言いたくないのだが、やはり感謝というのは大切なことだと私は思う。

 

そして、あなたが何か感謝できることを見つけた時、そこに「幸せだなぁ」という一言を加えてみることをお勧めする。

 

言葉にすることで、幸せという感覚がどういうものかを、身体が覚えやすくなるからだ。

 

 

前のブログにも載せた話かと思うが、私は以前アルバイトしていたレストランで、「美味しかったですか?」と客に尋ねることを上司に勧められた。

なぜなら、店員にそう聞かれれば、よほど不味くない限りは大抵の人は「美味しかった」と答えてくれるだろう。

そうすると脳は実際の味よりも言葉の方を強く記憶するので、『美味しい店』と覚えてもらいやすくなるから・・・と言われたのだ。

 

「幸せだなぁ」と口にするのも、これと同じ原理だ。

 

 

ただ、ここで気をつけなくてはならないことは、あなたが悲しみや怒りなどのネガティブな感情にいる時は、そんなことはしなくて良いのだ。むしろ、しないほうがいい。

 

ネガティブなときは、ネガティブな感情をただ受け止めるだけで十分だ。

 

私は昔、これでやらかしてしまって・・・というのも、ネガティブな時に無理に感謝できることを探して、心がしんどくなってしまったことがあったのだ。

今思えば、あの時の私はネガティブな感情を抱くことを悪いことだとか、それこそ不幸だとか考えていて、そこから逃げるために感謝をしようとしていた。

 

でもそれは自分の心を偽ることだから、後でその反動が来てしまう。

だから、ネガティブな時には、とにかく「ああ、今私は悲しいんだな」「辛いんだな」と感情を受け止めながら、自分に優しくしているだけでいい。

 

 

感謝できることを探すときは、自分の心がフラットな状態にある時のほうがいい。

もちろん、喜びなどのポジティブな感情を抱いてる時にするのもいいわけだが、嬉しい時に感謝するのはわりと簡単なものだ。

心がフラットな時にこそ、当たり前と思っているものに何か感謝できることはないか探してみることをオススメする。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

先程、感謝できることを見つけた時に「幸せだなぁ」と言ってみるといい・・・と書いたのだけれども、

実際に、私が幸福感というのに気づきやすくなったのも、「しあわせだなぁ」と声に出していたからだと思う。

 

 

きっかけは、夫と結婚したことだった。

まだ新婚の時、とある本で私は『男性は、パートナーを幸せにしていると実感することで幸福を感じやすい』という説を読んだ。

 

なので、私は小さなことでも、何か嬉しいことが起きた時や美味しいものを食べた時など、快の気持ちを感じた際には、夫に聞こえるように声に出して「しあわせだなぁ」と言うようにしたのだ。

そして「これもあなたと結婚したからね」「あなたのおかげね」とも伝えるようにしていた。

 

そうすることで、夫がたくさんの幸せを感じてくれたら良いなと思ったのだ。

夫が家で幸せな気分でいてくれたら、それは仕事のストレス軽減にも繋がるだろうし、それは巡り巡って自分の元に返ってくるに違いないから、自分にとっても得なことだと思った。

何よりこれは、タダでできることである。セコい私にはうってつけの方法だった。

 

でも、これを実践してみて・・・夫の幸福のためと思ってし始めたことだったのに、自分の幸福を感じ取る能力も敏感になっていったことに気がついた。

 

 

たとえ小さな事でも、「しあわせだなぁ」と口に出すことで、自分の脳は「こういう状態が幸せなのか」と記憶するようになっていったのだ。

 

 

今の私は、意識してるわけでなくとも、満たされた気持ちになった時はつい「しあわせだなぁ」と口にしてしまう。

しかもそれが、家族の顔を見た時や、温かいお風呂に入った時、ご飯を食べた時などの、日常にありふれた、ささやかなことですぐ口にするので、一日に何度口にしてるかわからない。

まさに幸せの大安売り、バーゲンセールである。

 

だから別にしょっちゅう懸賞に当たったりだとか、欲しかった高級ブランド品が買えたりだとかの、わかりやすい『幸運』があるわけでは無いし、毎日の90%は同じようなことの繰り返しだけれども、自分は幸福だと心から感じることができている。

 

 

今まで書いたことをまとめると

 

  • 心がフラットな時に、感謝できることを探してメモしてみる。
  • そのメモに書いたことをふと思い出した時(例えば、手を洗っている時に『水道が使えることが有難い』ということを思い出したりなど)に、「ありがたいな、しあわせだな」と声に出してみる。(周りに人がいて恥ずかしければ、心の中で)
  • 心が温かくなった時、快の感情を抱いた時に、「しあわせだな」と声に出してみる。(オススメは、美味しいものを食べた時。なぜなら食事は一日に三度もあるから、たくさん幸せを感じられる。もちろん人がいて恥ずかしければ、心の中で)

 

というのが、幸福感に気づきやすくなる方法(というより、ささやかなことで幸福を感じ取る方法?)だ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

さて、前回と今回と書いたことを読むと、もしかすると幸運は幸福より劣っていると書いてあるように読める人もいるかもしれないのだけれど、そんなことはない。

幸運も、もちろんあるに越したことはないし、人生を楽しむスパイスであることは間違い無いだろう。

ただ、幸運がなくとも幸福にはなれるというだけだ。

 

今から言う話は、矛盾してると思われるかもしれないけれど、実際に私に起きていることだから言う。

 

それは、幸運が無くとも人は幸福にはなれるけれども、幸福を感じやすくなる人には幸運が起こりやすい、という話だ。

 

いや実際には、私は自分のケースしか知らないので、そう言い切ってしまうのは科学的ではないのだが、私の場合はそうだった。

 

というのも、私は先ほど述べた通り、結婚して幸福感が察知しやすくなったのだが、そうなってから幸運が起きる確率が滅茶苦茶増えたのである。

 

 

具体的にいうと、私は結婚するまでの25年間、懸賞に当たったことは一度しかなかった。

ちなみにその一度というのは、小学生の時に進研ゼミの読者投稿欄に投稿した絵が載って500円分の図書券をもらったことだ。

 

それが、結婚してからは驚くほどに懸賞やコンテストに当たるようになった。

 

結婚して最初の2年はボーナスステージかと思うほどで、たしか10件以上は当たったのでは無いだろうか。

雑誌の懸賞でバスソルトヘアアイロン、とあるフォトコンテストで4度入賞してキャラクターグッズを4回もらい、化粧品メーカーの懸賞でプリザーブドフラワーに当選、とあるコンテストで参加賞に当たり少し現金をもらえたし、スポーツ用品メーカーが主催していたコンテストでも3回入賞した(そのうち1つが最優秀賞受賞で、以前書いたことがあるが夫の好きなスポーツ選手と握手する権利をもらえたのだ)。

 

結婚して今年で7年になるが、懸賞や小さなコンテストの類は毎年2〜3件は当たっている。

 

今年は夫の会社のイベントで黒毛和牛カタログギフトが当たったのと、幼児雑誌で娘の好きなアニメのおもちゃが当選したのと、実は最近私の好きなキャラクターの公募で入賞し、もうすぐキャラクターグッズがもらえる予定だ。

 

 

もちろん、これが本当に『幸福感に気づきやすくなったから』という理由だけで起きているのかは証明のしようがないし、もしかすると結婚してから苗字が変わったことで運のいい姓名になったからかもしれないが、私は『幸福感を抱く時間が増えたからだ』と考えている。

 

私に感謝の大切さを説いてくれた恩人もこう言っていた。

「幸せになりたいのなら、感謝しなさい。そうすると良いものが寄ってくるから」と。

もちろん科学的根拠は何もないので、信じられない人は信じなくてもいい。

 

 

実は懸賞やコンテスト以外にも、欲しいと思った物が不思議と手に入るような幸運はわりとよく起きている。

 

 

まあ、とは言っても、1年の中でこうしたわかりやすい幸運が訪れる確率は、体感にして1割ぐらいである。

あとの9割は、平凡な日々の連続だ。

だから、希少な幸運に過度に期待するよりも、その平凡な日々をどれだけ楽しめるかの方が、人生を楽しむためには大切だと思う。

 

 

ちなみに、私の場合は、結婚して最初の2年で面白いほど幸運が巡ってきたので、この点で道を踏み外しかけた。

 

というのも、幸運による喜びというのは、中毒性があって、一度味わうともっと欲しくなってしまったり、もっと大きな幸運を求めたくなってしまうのだ。

 

だから、昔の私はもっと『幸運』になりたくて、懸賞にどんどん応募したし、色んなものを手に入れようと引き寄せに躍起になった。

 

でもそうすると、当たらない場合やうまくいかないケースにもたくさん遭遇する。

すると期待していた分、ガッカリしてしまったり、自分に自信をなくしてしまったりした。

また、日常のささやかな幸せに気付きづらくもなってしまった。

 

 

そう、幸運の喜びに期待しすぎるということは、幸運が訪れない時に自分に不幸の烙印を押してしまったり、ささやかな幸福に気付きづらくなってしまうことに繋がるのだ。

 

そうすると、幸せのために幸運を追い求めていたつもりが、かえって不幸になってしまう。

 

 

だから今は、たまに訪れる幸運に対して高揚感を感じても、更なる幸運には期待せず、できるだけ早くフラットな状態を思い出すようにしている。

でないと、あとの平凡な9割の日常がしんどくなってしまうからだ。

 

そのためにどうしているかといえば、「嬉しいなぁ、でもまたこれから平凡な日々が続くだろうけど、それも楽しもう」と考えるようにしているのだ。

 

もちろん、人の心というのはコントロールできるものではないので、フラットに戻ろうとしても浮ついてしまうこともあるが、そういう時は一度起きた幸運を何度も思い出してスルメの如く噛み締めるようにしている。

「ああ、あの時は本当にラッキーだったなあ」と。

そうすれば、一つの幸運を長く楽しめることができて、お得でもある。

 

 

幸福感には、こうした中毒性はあまりない(と私は思っている)ので、そういった意味でも普段味わうのは幸福感の方が良いのだと思う。

 

 

だから、先程の話を読んで「幸福感をたくさん持てば幸運が来るの!?やりたーい!!!」と期待した方がいたとしたら、

「まあ、幸運なことも起きたらお得だなあ〜」ぐらいの軽い願望に留めておくことをオススメする。

 

それで幸運が実際に起きたらラッキーだし、起きなくても幸福感に溢れた日々を過ごせるならまあいいか♪ぐらいの気持ちでいたほうが、人生を楽しめると思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

そういえば、今回の話を書いていて、思い出した話がある。

 

それは、イギリスの民話を元にした「いたずらおばけ」という絵本だ。

 


 

 

ちなみに、「ねないこだれだ」で有名なせなけいこさんも「わたしゃほんとにうんがいい」というタイトルで同じ話を書いている。

 


 

 

 

どんな話かというと、気はいいけど貧乏なおばあさんが、ある時壺を拾うのだけれど、いつのまにかその壺の中身が金になっていたので、おばあさんは「これで贅沢ができる」と喜ぶ。

しかしよく見るとその中身が銀、いやよく見ると鉄・・・とどんどんショボくなっていく。そして最後にわかったその本当の正体は意外なものだった、というお語だ。

 

 

主人公のおばあさんは、持ち帰ったものがなんであっても喜ぶ。どれどけショボくなっていても、喜ぶ。

金と期待したのに銀になっていても、ただの岩になっていても。

 

 

この本の面白いところは、最後に「そんな陽気なおばあさんは最後は本当に金を手に入れて幸せに暮らしました」とならないところだ。

 

最初読んだ時、私は絶対に『どうせ最後は本当の金を手に入れて幸せに暮らすんだろ〜!?』と思いながら読み進めたのだが・・・ネタバレになってしまうけど、最後までおばあさんは貧乏なままだった。

 

大抵の昔話では絶対に、陽気な人や良い人というのは『豊かになりました』で終わるのに。

 

 

でも、考えれば考えるほど、幸せの本質というものを表しているのではないかと思うようになった。

 

 

どんなものに対してもありがたみを感じられると、幸運が訪れやすくなるけれど、たとえそれで幸運が訪れなくっても、幸福感を感じられるのならば、それだけで幸福なのだ。

これは、そんなことを教えてくれる絵本だ。

 

紹介のためにリンクを貼ったけれど、古い絵本なのできっと図書館にもあることだろう。

興味がある方は、読んでみてもいいかもしれない。

 

[エッセイ]"幸福"と"幸運"

以前、テレビでこんな質問がされているのを見た。

それは、「あなたが一番幸せを感じた時は?」

というものだ。

 

その番組では「子供が産まれた時」「家を建てた時」といった回答があったのだが、それを見て自分なら一体どう答えるだろうと考えて、しばし悩んでしまった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

もしこの質問が、

「あなたが一番ラッキーだったと思うことは?」

という質問だったなら、私はすぐにこう回答しただろう。

 

「夫と結婚したこと」だ。

 

だが、夫と結婚できたことも、夫の大好きなミュージシャンやスポーツ選手と会う夢を叶えたことも、いろいろな懸賞に当たったことも、『幸福』かと聞かれると、なんだかしっくりこない。

 

どれも、私にとっての『幸福』の感覚と違うからだ。

 

もちろん、これらは確実に、私にとって『ラッキーだったこと』ではある。すごく嬉しかったし、大きな喜びも感じた。

だが、感覚としては、私の中での『幸福感』の定義とは全く異なっているのだ。

 

 

 

私が幸福を感じる時は、

たとえば日課である雑巾掛けをして綺麗になった床を眺めた時、

子供達の穏やかな寝顔を眺めている時、

食べたいと思った料理を自分で作ってみて、それがうまく再現できた時、

幼稚園の通園バスから降りてきた娘の笑顔を見た時、

趣味の裁縫で作った洋服が上手に完成できた時、

お気に入りの美しいお皿を使ってお茶とお菓子をいただく時、

家族との楽しかった思い出に浸る時・・・等である。

 

 

そして、これらの時に感じる幸福感はどれも同じぐらいの強さ、大きさなのだ。

つまり、『一番』と呼べるものがない。

 

その時の感覚は、喩えるならば、胸の奥から細かい泡とともにちょうどいい暖かさの温泉が湧いてきて、そこから自分の心や身体全てがじんわりと温まっていくようなものだ。

その温泉の温度はいつも同じぐらいだし、心地良さも一定だから、どの瞬間が一番と比べることができないのだ。

 

 

だから、私の人生の一大イベントであった結婚式の時と、何の変哲もない平凡な日の今日に子供の寝顔を見た時の、どちらが幸福かと聞かれれば、どちらも同じぐらい幸福だと答える。

 

 

 

・・・そんなことを考えているうちに、私はふとこう思った。

 

それは世の中で『幸せ』と呼ばれるものは、"幸福"と"幸運(による喜び)"の二種類があるのではないか-ということと、

その違いを把握していない人ほど、『自分が幸福ではない』ということに悩み、カルト的な物に縋ろうとする人が多いのではないか-

ということだ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

先ほど、『幸福感』について私はこんな感覚であると述べた。

 

胸の奥から細かい泡とともにちょうどいい暖かさの温泉が湧いてきて、そこから自分の心や身体全てがじんわりと温まっていくようなものだ。

 

では、『幸運による喜び』の方はどうだろうか。

 

私が幸運により喜びや嬉しさを感じている時は、自分の心がゴム毬のようにぴょんぴょん跳ねているような感じがする。

そして、その幸運の大きさによって跳ね具合は変わる。

 

 

新婚一年目に夫が大好きなミュージシャンの楽屋招待券に当選した時、私は文字通り跳ね上がって喜んだ。

喜びの強さで言えば、あれは人生で一番大きなもののひとつだっただろう。

 

ちなみに先日、夫が会社のイベントの福引きで一等賞をとって黒毛和牛のカタログギフトが当たった。

勿論、その時も両手をあげて喜んだが、楽屋招待券が当たった時ほど心が"跳ねる"感じはしなかった。

 

そういえば、私の娘は嬉しい時はぴょんぴょん飛び跳ねる習性?がある。

それを見ると、「ああ今娘の心は飛び跳ねるほど喜んでいるんだなあ」と思う。

 

喜びを感じている時は楽しいし気持ちいいが、行き過ぎるとちょっと疲れる感じもする。

それに喜びを感じ切った後は、急に現実に戻る感じがして、寂しさも感じる。

 

 

 

対して、『幸福感』が湧き上がる時は、心が跳ねる感じはしない。変化するのは心の温度だ。そしてそれは急激に変化するのではなく、じわじわと上がっていく感じがする。

 

幸福感は喜びよりも地味だけれども、心地よい温泉に入ってるような感覚だから、疲れる感じはしない。そして、その幸福感は喜びのように急に消えることがあまりない。ただ時間が経つうちにまたじわじわと、元の温度に戻っていく感じがする。

 

 

↑わかりづらいかもしれないけど、自分の心の変化を手探りで文章化するとこうなる(^_^;)

 

 

 

だからといって私は、別に喜びがダメだとか、幸福感の方が優れていると言いたいわけではない。

 

ただ、それぞれ種類が違うというだけの話だ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

これは、恋と愛の違いにも似ているのかもしれない。

 

恋は、夏に飲むソーダフロートの味がする・・・気がする。

愛は、冬に飲むココアの味がする気がする。(ロマンティックではないけど、梅昆布茶でもいい)

 

どちらもその時にしか味わえない美味しさがある。

 

余談だが、昔友人二人(一人が既婚で、もう一人は彼氏がいる子だった)とお茶している時に、未婚の子の方が「彼氏のことは好きだけど、一緒にいると落ち着く感じだからドキドキはしないんだよね・・・結婚してもいいのかなあ」と言い出したことがあった。

 

私ももう一人の友人は、「そんな相手こそ結婚相手に選ぶべき!」と強く推した。

 

「ドキドキするのは最初はいいけど疲れる」「一緒にいてて心地よい安心感こそが結婚生活には大切」「ドキドキしたいなら恋愛漫画でも読めばいい」というのが私ともう一人の友人の共通見解であった。

 

・・・結局、友人はその彼と結婚し、現在は幸せな家庭を築いている。

 

恋と愛の違いについて考えるたび、私はこの時のことを思い出す。

 

 

 

☆☆☆

 

 

話が滅茶苦茶に逸れてしまったのだけれど、結局、幸福感とは何なのだろう。

 

それは、かけがえのない人々と出会えた奇跡や、自分の能力をうまく発揮できたことや、恵まれていることに感謝するときに味わう気持ち・・・

私なりの解釈で言うと、自分が自分として、今この場所、この瞬間に生きていて良かったと実感する気持ちな気がする。

 

 

そして、幸福とは必ずしも喜びだけと結びつくわけではない。

 

たとえば、大切な人の死を乗り越えて、その人のことを懐かしみ、その人から受けた愛を思い返す時・・・そこには少しばかりの悲しみも存在しているけど、きっとそれは幸福なひとときと呼べるだろう

 

子供の寝顔を見て愛しいと感じた時、少し言い過ぎたことを思い出して反省したり、子供に腹を立てたことを思い出して大変だったなぁと思うこともあるけれど、その苦い感情もひっくるめて、私はやはり幸福を感じる。

 

 

その逆に、たとえ喜びを強く感じることが起きたとしても・・・たとえば、かっこいい彼氏ができるとか宝くじが当たるとかしても、それが長い目で見た幸福に繋がるとは限らないことは、誰もが想像できうることだろう。

 

かっこいい彼氏が、DVやモラハラや浮気をするような人だったら、その人との関係に幸福を感じることはできないだろう。

宝くじに当たったことで、身の丈に合わない散財をしたり人間関係で揉めたりして、かえって貧乏になった人や孤独に生きる人などたくさんいる。

 

つまり、喜びを感じたからといって幸福になる道が確定したわけでも、悲しみを感じたからといって不幸になる道に絶対に進むわけでもないのだ。

 

喜びも悲しみも怒りも、一時的な感情の推移でしかないからだ。

 

 

だから、幸福になるために喜びを求めなくてもいいし、悲しみを感じた時に自分を不幸だと思わなくても良いのだ。

逆に、喜びを自重することも、悲しみを無理にポジティブに無理に変換する必要もない。そうすると自分の心を偽ることになり、苦しくなるからだ。

 

 

嬉しい時にはただ嬉しいと、悲しい時にはただ悲しいという気持ちを受け止めるだけで十分だし、それこそが人が人として生まれてきた醍醐味なのだと思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

これまで私は、偽スピリチュアルやマルチ商法に関して批判をしてきた。

そしてそれらを観察していくうちに、そうしたものにハマりやすい人にある共通点を見出した。

 

それは、ネガティブな感情を消化するのが苦手だということだ。

なぜネガティブな感情を消化するのが苦手かと言えば、彼らの多くは、悲しみを感じること自体を不幸なものだと捉えているからではないかと思う。

 

悲しみを感じることは、ただ一時的な感情の推移であるのに、彼らは一度悲しみを味わったらもう二度と幸福な道を歩むことができないと考えてしまうのだ。

 

だから、不幸にならないために、悲しみを味わいそうなものを徹底的に排除しようとする。

 

そうして子供に注射する痛みを味合わせないために反ワクチンに偏ったり、想定外の出来事に遭う悲しみを味合わないためにインチキ霊能者を頼ったりするのではないだろうか。

 

 

また、彼らが陥りやすいもう一つの過ちが、幸福を喜びそのものだと捉えることだ。

だから、自分を"幸福"な人間だと信じるために、お金がたくさん手に入るだとか、結婚ができるとかいう一時的な喜び・・・つまり、幸福ではなく"幸運"を手にしようとする。

 

そのために、「不労所得で儲けられる」と謳うマルチ商法や、「これさえすれば愛される」と謳う偽スピリチュアルに縋ってしまうのではないかと思う。

 

彼らに必要なことは、幸運と幸福とは別物であるということ、

悲しみ=不幸ではないし、喜び=幸福ではないと気づくこと。

そして幸福感というのは喜びよりも地味なうえに、人により感じる対象が違うから、他人に教わろうとするのではなく、自分の感覚を研ぎ澄まして、自分が何に幸福を感じているかを知ることではないだろうか。

 

先ほども言った通り、幸福とは自分が自分として生きて良かったと実感するときに味わう気持ちなのであるから。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

余談だが、私の娘は今、『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』というEテレのアニメにハマっている。

 


原作は本らしい

 

ストーリーはオムニバス形式で、ふしぎな駄菓子屋に迷い込んだ客たちの悲喜こもごもを描いているのだが、そのアニメを見るたびに、私は幸福について考えてしまう。

 

客たちは自分の"幸運"の力を使って、悩み事を解決する不思議な駄菓子を手に入れるのだが、皆が皆"幸福"になるとは限らない。

調子に乗ったり使い方を誤ったりすると不幸な結末を迎えるし、謙虚でいたり人のために力を使ったりする人間は幸福な結末を迎えるのだ。

 

"幸運"と"幸福"とは別物だということが、わかりやすく描かれているなと思う。

 

 

 

☆☆☆

 

 

さて、先程私は幸福感に気づくためには『自分の感覚を研ぎ澄ますことが必要』と書いた。

そのためにはどうしたらいいのかについて、自分なりの経験則的なものを次回書こうと思う。

[エッセイ]『掃う』と『祓う』

突然何の話をするのかと思われるかもしれないが、私は雑巾掛けが好きだ。

今は二、三日に一度は家を雑巾掛けするようにしている。

 

本当は毎日したいのだが、今は妊娠しているためか疲れが出やすく、毎日すると疲れから体調を崩しやすいので、このぐらいのペースが今の自分にはちょうど良いようだ。

 

我が家には神棚があるのだが、神棚にお供えし終わった塩を毎日バケツに捨てるようにしていて、その塩を溶かした水で雑巾掛けする。

昔、霊感の強い人に、粗塩を溶いた水で雑巾掛けすると邪気を払えると聞いたからそうしているのだが、効果の程はよくわからない。

しかし、なんだかさっぱりした気持ちにはなるし、たいしたコストもかからないので、ちょっとしたおまじないのつもりでやっている。

 

掃除であれば、掃除機を使うのが一般的かもしれないが、私はやっぱり雑巾掛けが好きだ。

なぜかと言えば、目線がゴミの溜まりやすい位置にくるので、掃除機よりも汚れがわかりやすいからだ。

また、妊娠中は雑巾掛けの姿勢が逆子対策や安産に良いと聞いたのもあって、これもまたおまじないのつもりでやっている部分もある。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

昔の私は、掃除なんて全く興味がなかった。

 

むしろ、どうせすぐに汚れるのになぜ掃除しなければならないのかと思って、家がひどい状態になるまで極力やらないようにしていた。その方が、無駄な時間や労力といったコストを払わなくて済むような気がしたのだ。

 

なんてったって私は自分にとって得と思えることしかしたくない、セコい人間なのだ。

 

だが、娘の妊娠を期に毎日雑巾掛けをするようになって(理由はもちろん、安産に良いと聞いたからだ・・・自分に何か得があると思うと私は行動ができる人間だ)、私の意識は変わった。

 

人間の目は、良くも悪くも慣れるということに気がついたのである。

 

 

私が毎日雑巾掛けをして、まず気がついたのは、家はそれまで思ってた以上に汚れているという事実だった

不思議なことに、雑巾掛けなどしていなかった時には全く気づかなかったような汚れに、気がつくようになったのだ。

そして、綺麗な状態に目が慣れるようになると、少し汚れただけでも雑巾掛けをしたくなるようになった。

また、家というのは私が思っている以上に毎日汚れるものだった。

雑巾掛けを頻繁にすることで、綺麗な状態が自分のスタンダードになり、汚れに気づくセンサーが働くようになる・・・

こうして好循環が生み出され、私は毎日雑巾掛けをすることを苦と思わなくなっていった。

 

 

私の母はズボラで掃除が苦手なタイプだが、一度実家に帰った時に、あまりに風呂壁が汚れているので指摘したことがある。

驚いたことに、母はその汚れに全く気がついていなかった。

母は私が代わりに掃除をしてあげて初めて、それまでの壁が汚れていたことに気がついたのだ。

目が慣れると言うことはこういうことなのか・・・と驚愕した出来事であった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

そういうわけで、現在は二日に一度のペースで雑巾掛けを繰り返しているのだが、毎回改めて思うことがある。

それは、どんなに綺麗に雑巾掛けをしているつもりでも、翌日にはやっぱり汚れているし、2日経てばびっくりするほどチリや埃が出ている・・・ということだ。

 

そして、その度に思うのが、人の心というのも、それと同じようなものではないかということなのだ。

だから、家の中も心の中も、汚れは小まめに「はらう」ことが大事なのではないか、と思うのだ。

 

 

「はらう」という言葉。

ゴミを除去するときであれば「掃う(払う)」、心身の不浄を取り除く時であれば「祓う」という字が当てられるが、どちらの「はらう」も、同じような意味を指している気がしている。

(語源などを調べればそのような話も出てくるのかもしれないが、調べたことはない)

 

 

心の汚れも、見て見ぬふりをすることは簡単だ。

『あいつが悪いから、人格否定するのも仕方がない』『このくらいなら、陰口を言っても許される』『正義のためなら、このぐらいの嘘をついても大丈夫』

・・・そういう言い訳を並べれば、相手を攻撃したり、事実を偽ったりすることなど簡単にできてしまう。

そうするうちに、いつしかその汚れに目が慣れて、心はますます汚い状態になってしまうのかもしれない。

 

そう思うと、少しの汚れであっても、やはり小まめに『はらう』ことが大切なのではないだろうか。

 

でも、人間は誰しも完璧ではないから、汚れを見つけたからと言って、自分を責めたり、卑下したりする必要もない。

 

ただ、「ああ、汚れてるんだな」「そりゃあ生きていたら、汚れも出るわな」と、ただ淡々とその事実を受け止めて無くしていく心掛けが必要なのだと思う。

そう、毎日の雑巾掛けで出るゴミに、わざわざ責め立てたり腹を立てたりせず、ただ黙々と『掃う』のと同じように。

 

そうしていけば、心の中の目も、だんだんと綺麗な状態に慣れていくのだと思う。

 

 

私はたまに、偽スピリチュアルやマルチ商法の批判をしているわけだけれども、これも同じように、『正義のため』『相手が悪いから』と言い訳をして、やり過ぎてはいけないんだなと思う。

私が言っても説得力はないかもしれないのだけれど(^_^;)

正直、これまでも何度か、自分の中で『批判』になっているか『悪口』になっているか、ちょっと不安になることがあった。多分過去の私の発言の中には、行きすぎて悪口になっているものもあったかと思う。

今もその線引きに自信があるわけではないけれど、最近はできるだけ、『友達や大切な人に対して言わないような言葉は、批判相手にもかけない』ということと、『負の感情を込めて文章を書かない』ことを心がけている。

 

 

話が逸れてしまったが、やはり掃除はいいものだ。

家を綺麗にするだけで、自分がもてなされているような感じがして、家で過ごすことが楽しくなる。自分を大切にしている感覚になるし、何よりスッキリする。

しかも雑巾掛けは、古布を使えばタダでできる(私は汚くなってきたタオルやふきん、着なくなった服、趣味の裁縫で余ったハギレを使うようにしている。ゴミが有効活用できて一石二鳥だ)

 

過去の私のように『掃除は面倒くさい』『どうせすぐ汚れるのに意味がない』と思っている人ほど、是非やってみてほしい。

 

一週間やってみれば、あなたの目が『綺麗な状態に慣れる』ということがどのようなことなのか、きっとわかると思う。

 

 

ちなみに、長く続けるポイントは、一日の目標を出来るだけ低くすること!

 

例えば、トイレだとか、玄関といった家の中でも狭くてすぐ終わる場所だけは毎日掃除するとか、一日の掃除の時間を5分だけにする。

そうして、その目標を達成し終わって、余力があれば他の場所も掃除したり、時間を延長したりすれば良いし、目標だけで疲れたならそこで終わってOKにするのだ。決して自分を責めてはいけない。

なぜならここでの目標は、一日だけ頑張ることではなく長く続けることにあるからだ。

 

私も掃除をするときは、まずは玄関かトイレから始めるようにしている。

少し面倒くさいなと思う時でも、「まあ玄関だけでも・・」と思えば、「そのぐらいならやれるか」と腰を上げられるものだ。

それに、人間というのは行動を起こす時、0から1にすること・・・つまり始める瞬間が一番エネルギーを必要とするものだ。

だから、始めるときのハードルを低くしておけば、「やってみたら案外いけそう」と思うようになり、最後までやり遂げられることはよくあるのだ。

 

話の中では雑巾掛けばかり推してしまったのだが、もちろん別に雑巾が優れているわけではない。

腰が痛くて屈むのがしんどい人は、クイックルワイパーや掃除機や箒を使うのも良いと思うし、

ルンバを持っている人なら床はルンバに任せて、そのかわりキッチンや棚の上を綺麗にするのでも良いと思う。

 

最近、私は何事にも「正解」はなくて、「相性」があるだけなのだなと思うようになったのだが、

掃除のことも、正解があるのではなく、ただ相性があるのだと思って欲しい。

私にとっては、雑巾が相性よかっただけのことで、それは人によって違う。

 

 

いろんなところに話が飛躍してしまったが、住まいを小まめに『掃う』こと、私は是非おすすめしたい。

『掃う』を繰り返すことで、心を『祓う』という感覚が、わかるようになる・・・かもしれない。

[子育てで感じたこと]君の頭の片隅で、聞こえてくる声はなんだろう

これは娘と私の、幼稚園登園をめぐる10ヶ月間の格闘?の物語である。

 

もしかすると、私と同じような子供のいる方だけではなく、今学校や会社に行くときや何かをするときに憂鬱になって体が動かなくなってしまう大人の方にも参考になる話かもしれないので、読んでもらえると嬉しいと思う(長いけど・・)

 

 

 

 

 

 

娘は昨年から、幼稚園の2歳児クラスに入った。

昨年はコロナの関係で幼稚園の開始が遅れたので、実際に通い始めたのは6月のことだ。

 

 

2歳児クラスということで、年少よりも一年早い段階から幼稚園へ行かせることに少し悩んだが、

実家から飛行機の距離である今の家で、生後半年の下の子と娘の育児を両立する自信が私にはなかった。

 

下の子のお世話につきっきりになって、娘につまらない思いをさせるぐらいなら、いっそのこと幼稚園で、お絵描きやお遊戯などして楽しい時間を過ごしたり、お友達を作る方が、余程娘にとって良いのではないかと思ったのだ。

 

 

 

だが、繊細で甘えん坊な娘には、親と長時間離れる幼稚園というのは、あまりにショッキングな場所だったらしい。

 

初日、ニコニコしながら家を出た娘は一人でバスに乗った瞬間大泣きをしていて、帰って来たときも泣いていた。

 

そうして、翌日の朝は『行きたくない』と泣き出した。

 

 

そんな娘を見た瞬間、驚くべきことが起きた。

私の頭に、ある声が響いてきたのだ。

 

それは、

「アンタ、何そんなことで泣いてんの〜」

と、嗤う母の声だ。

 

 

私はぎくりとした。

 

なぜなら私はその声を、大きく分けて2つの時期に、聞いた覚えがあったからだ。

 

 

 

 

 

「アンタ、何でそんなことで泣いてんの〜」

 

 

この声を聞いたひとつめの記憶がいつのものか、見当がつく方もいるかもしれない。

そう、私の幼少期だ。

 

私は小さい頃、娘と同じように繊細で、些細なことでよく泣いていた。

そんな私に母はいつも笑いながら、上記の言葉を言っていたのだ。

「アンタは感受性強いなぁ」、とも。

 

 

私はその言葉が好きではなかった。

 

 

そう言って自分の感情を受け入れてもらえないことが苦しかった。

「その程度のことで泣くなんて、お前はおかしい」と言われているような気がした。

そうして自分のこの強すぎる感受性が、疎ましいものに思えた。

 

私も小さい頃、娘と同じように幼稚園に通うのが憂鬱だったのか、正直覚えていない。

母にも聞いたが、母もよく覚えていないという。

だが、娘の泣く姿を見たときに、幼稚園か小学校か他のことに関してかはわからないが、何かを嫌がって泣いた時にこの言葉をかけられていたという記憶だけは確かなものと思えた。

 

 

そして同時に、絶対に娘にこの言葉をかけてはいけないと確信したのである。

 

 

なぜなら、先程『大きく分けて二つの時期にこの言葉を聞いたことがあった』と述べたが、そのもう一つというのが、就職活動の時期だったからだ。

 

 

そして、就活の時に聞いた

「アンタ、何でそんなことで泣いてんの〜」という声は、母からかけられた訳ではなかった。

 

それは、私自身が私の頭に、ずっと言い聞かせていた声だったのだ。

 

 

 

 

以前このブログでも書いたことがあるが、私の就職活動は大失敗だった。

ろくに企業研究や自己分析もせず、ただ「私のようなトクベツな人間ならきっと大丈夫だろう」と根拠のない楽観をして就活に挑んだお馬鹿な私は、見事に全滅した。

 

でも、就活に真面目に挑めなかったのは、本当の意味で『自分に自信があったから』じゃない。

怖かったのだ。

素の自分になる勇気がなくて、普通の人間だとバレると誰にも見てもらえないんじゃないかといつもビクビクしていた私は、現実に向き合うことが怖かった。

現実の私は、特に何か秀でた部分があるわけでも、何かを成し遂げた経験があるわけでも、また美人なわけでも無かった。

企業研究や自己分析などをしなかったのも、そんな現実を直視することになるのが怖かったからだ。

 

そうして、志望する企業にことごとく落ちていったのだが、そこでトコトン落ち込んだ後に、切り替えるか開き直るかして、自分が"凡人"であることを素直に認めて、凡人なりにがむしゃらに色んな企業に応募できればまだ良かったのだ。

だが、私にはそれができなかった。

 

何故なら、頭の中にいつもあの声が聞こえていたからだ。

 

「アンタ、何でそんなことで泣いてんの〜」と嗤う声が。

 

 

だから私は、自分が落ち込んだり、憂鬱になってしまうことをダメだと思った。

いつもポジティブでいなくては、嫌なことがあっても前向きでいなくては、就職活動なんてうまくいくはずがないし、そんな態度で面接に挑むなんて失礼だ・・・そんな焦燥感や自責の念が私を追い立てていた。

 

 

そんな私はどうなったか?

 

 

 

 

体が動かなくなってしまったのだ。

 

 

最初のうちは、カラ元気で動くことができていた。

調子がいい時は、"エセポジティブ"な気持ちで、自分なら大丈夫だと言い聞かせながら説明会や面接に行くことができていた。

だが、途中から、完全に動けなくなったのだ。

また失敗して落ち込むのが怖くて仕方なくて、カラ元気のためのエネルギーがどこからも湧いてこなくて、私はただ布団にくるまって、説明会の時間が過ぎて手遅れになることをひたすら待つようになっていた。

 

 

そうして当時、都合よくスピリチュアルを信じていた私は、自分にこう言い聞かせていた。

 

「動きたくないってことは、きっと今は動かないほうがいいということね♪」

「きっと長い目で見ればこの選択が正解になるハズ☆」

 

 

大馬鹿者である。

 

 

本当は自分の心が疲れ切っていて、恐怖で溺れていて、悲しみが溢れていて、それで動きたく無いだけなのに、そうした綺麗な言葉で着飾って私は怠けることを正当化した。

 

そうして一度この言い訳を使ってみると、これはとても耳触りが良くて、私はことあるごとにこの言い訳を"利用"した。

 

 

もちろん世の中には、上手くいかないことが長い目で見て自分の糧となることもあるだろう。

だが、それは自分なりにできる限りのことをして、それでもうまくいかなかった時なのだ。

何の努力もせず、上手くいかないのならばそれは"当たり前"の結果でしかない。

努力しても上手くいかなかった時にこそ、この言葉は意味を成すのだ。

 

 

 

 

今思えば、私はあの時どうすれば良かったのだろう。

 

 

まず最初に、自分が落ち込んでいることを素直に認めれば良かった。

そして、面接に行くのが憂鬱なら、面接の後にちょっとした、チョコレートや入浴剤のような、ご褒美を用意しておけば良かったかもしれない。

あるいは、美味しい朝食を食べて、少しでも自分の心を満たすようにしてから出かけるのも良かっただろう。

そうして、たとえ結果が良くなかったとしても、一歩踏み出せたなら、そのことを自分に褒めれば良かっただろう。

 

 

 

 

 

先ほども言った通り、私は娘に対して頭の中で

「アンタ、何でそんなことで泣いてんの〜」

という言葉が沸いたとき、殊更この就活の時のことを思い出して、

絶対にこの言葉をかけないようにしなくてはと胸に誓った。

 

 

何故なら、今私が娘にかける言葉は、10年、20年先に娘自身が自分にかける言葉になることがわかったからだ。

 

 

今、娘の感情を封殺して、無理矢理にでも幼稚園に行かせることは簡単だ。

 

だがそれをしてしまうと、10年、20年先に、娘が何か"嫌なこと""逃げ出したいこと"にぶち当たった時、きっと娘は私と同じように感情を封殺してしまうことだろう。そうして、それが行き過ぎてしまえば、そのうち体が動けなくなるだろうと思った。

 

 

 

こうして、私と娘との10ヶ月間の格闘が始まったのだ。

私は娘の『ママと離れるのが寂しい気持ち』を封殺するのではなく、どのようにして消化していけば良いか、いろいろな作戦を練ることにしたのである。

 

 

 

 

①ご褒美作戦

 

まず私が用意したのは、定番の『ご褒美』だ。

 

『ご褒美』に関しては、子供を忍耐強くさせるためにやっては良くないという意見の人もいるだろうが、

私は以前とある本で『本人にとって楽しさやメリットがすぐに見えないものへの、"とっかかり"に使うのは有効である』というのを読んだことがあったので、『それをやるメリットが本人にすぐ実感できない場合』には利用するようにしている。

 

 

例えば予防接種や歯科検診なんかだ。

親からすると、予防接種や歯科検診をすれば病気が防げたり虫歯が広がらずに済んだりするから、少し痛くてもやるメリットは大きいことはわかるのだが、病気や虫歯で苦しむことをまだ経験していない小さな子供は、そのメリットを理解することはできない。

また、たとえ「将来痛い思いをせずに済むよ」と説明しても、まだあまりピンとこないだろう。

 

だから私は予防接種や歯科検診の時は、予め「何故それをしなくてはいけないか」を伝えると同時に、ご褒美(といっても、予算は限るが)も用意することを約束するのだ。

 

 

☆ちなみに、ご褒美を与える上で注意しなくてはならないことは、『最初からそのことに楽しさを見出している場合、モチベーションのすり替えが起き、ご褒美無しではやる気がなくなってしまう』ということだ。

例えば、最初から勉強が楽しいと感じている子供に、『勉強したらご褒美』としてしまうと、本来楽しくてしていたことという事実を忘れてしまうので、かえって良くない。

これを逆手にとった話で、ユダヤ人が子供に落書きを辞めさせた方法という有名な話(事実かどうかは知らないけれど)がある。

 

ユダヤ人の家の壁に、悪ガキが悪戯で落書きをするようになった。そうするとユダヤ人は悪ガキ達にお小遣いを渡して『これから落書きをするたびにお小遣いをやろう』と言った。すると悪ガキたちは嬉々として毎日落書きをするようになった。

だがある日突然ユダヤ人が『もうお小遣いはやらない』と言うと、悪ガキ達は落書きをやめてしまった・・・なぜなら、彼らの落書きをするモチベーションが『悪戯』ではなく『お小遣い』に変わってしまっていたからだ。

 

 

 

ということで、私は幼稚園も、まずはとっかかりに「ご褒美」を用意して、通うことに慣れて幼稚園の楽しさを実感できるようになればいい・・・そう考えたのである。

 

私はカレンダーとシールを用意し、まずは『10日間行ったら好きなおもちゃを買おうね』と伝えた。

そして最初の10日間は、通うことができたのだ。娘は好きなおもちゃを手に入れることができた。

 

私は安堵して、娘に『次は20日間行ったら何か好きなおもちゃを買おうか』と言ってみた。

 

しかし娘は、それを拒否した。

 

 

私は焦った。

だがどれだけ娘の欲しそうなおもちゃを提案しても、娘は首を縦に振らなかった。

 

 

そう、娘はこう判断したのだ。

幼稚園に行くメリット(おもちゃが手に入る嬉しさ)より、デメリット(ママと離れる悲しさ)のほうが大きいのだと。

 

 

もし、娘の『ママと離れる悲しさ』が、それほど大きくなかったのなら、この作戦は有効になっただろうが、

今回の段階では、『ご褒美作戦』はあまり効果がなく終わってしまった。

 

 

私は次の作戦を考えねばならなくなった。

 

 

 

②ママが幼稚園まで送る作戦

 

娘はバスで通園してるのだが、どうしても行きたくない時は私が幼稚園まで送ることで少しでも長い時間を一緒に過ごせるようにした。

バスが家の近くに来る時間は8時ごろだが、保護者が送迎する場合は9時半までに幼稚園に着けば良いことになっている。

 

もちろん、幼稚園に着くとお別れになるので娘は泣くのだが、バスと違って少しでも私と長く過ごせるのでまだマシだと判断したようだ。

「幼稚園に行きたくない」と譲らない時は、「じゃあそのかわりママが送るっていうのはどう?」と提案すると、行くことを了承してくれるようになった。

 

それになんとなくだが、『ママもママなりに自分のために頑張ってくれている』ということも、伝わっていたようだった。

 

 

だが、この方法には一つ難点があった。

それは、我が家に自家用車が無く、送迎にはママチャリを使わなければならず、しかも下の子をおんぶした状態でママチャリに乗ることになるので、荷物の多い月曜日には送迎ができないという点だ。

 

もし我が家に車があれば(そして私に運転技術がマトモにあれば)、この方法を続ければ良かっただろう。

 

しかし月曜日という"一番登園が憂鬱になる日"にこの方法を使えないのは痛手だった。

 

私は他の方法を考えなければならなくなった。

 

 

 

③決まった範囲内で休んでいいよ作戦

 

私は少し発想を変えて、『ある程度は休んでいい』というスタンスを取ることにした。

大人だって有給休暇があるのだ。子供だってたまには休みが必要なはずだ。

 

ただこの方法で気がかりなのは、"休みグセ"がつかないか・・・ということだ。

 

 

私は大学時代、大学をしばらくサボっていた時期がある。

 

私が入った大学はいわゆるマンモス校で、それまで狭く深くな人間関係をベースにしていた私は最初あまり大学に馴染めなかった。

周りがみんな大人でキラキラしているように見えて、友達と呼べる人がいなくて、誰からも自分なんて必要とされてない気がして、大学2年生の時にはとうとう行くのが辛くなってしまったのだ。

 

そして、一度休むとますます行きづらくなって、ずるずると何日も休むようになって、そこからそのまま退学しかけた・・・ということがあった。

(奇跡的に、大学に戻るようアドバイスしてくれた人に出会えたおかげで無事卒業まで漕ぎ着けたのだが)

 

 

あの時のことを思うと、私は娘に

『好きなだけ休んでいいわよ』と言う勇気が出なかった。

 

そこで、「1ヶ月に一度は休んでもいい」とすることにしたのだ。

また、休む日は少しだけデメリットを与えることにした。

幼稚園に行った日は毎日帰り道に好きなおやつを買いに行っていたのだが、「幼稚園を休んだ日はおやつを外に買いに行かない」としたのだ。(その代わり、家に常備しているおやつを食べることや、手作りのおやつは許可した)

 

娘は新しい月になると早速その『休んでいい日』を利用した。

そこでその後娘が「幼稚園行きたくない」と言った日には、私はこう言うことができた。

「○日に休んだでしょう。次に休めるのは来月だよ」と。

 

また、自分の経験も娘に伝えた。

「ママも昔、学校が嫌で休んだ時期があったんだけど、一度休むとそのままどんどん行きづらくなっちゃったんだ。そうなるとますます学校が辛くなっちゃったから、『好きなだけお休みしていいよ』と言わないほうが良いと思ってるんだ」と。

 

自分的にも「絶対にダメ!」と言うよりも、こうして娘に"逃げ道"を用意できることは気が楽だった。

 

この方法で2、3ヶ月くらいは頑張れた。

 

だが、そのうち娘は泣き叫ぶようになってしまった。

 

私は、今の娘には"1ヶ月に一度"という頻度はレベルが高すぎるのだと判断した。

 

そこで、もう少しハードルを下げて、"1週間に一度"は休んでもいいとすることにした。

 

もちろん時々は、休んでも「明日も休みたい」と泣く日もあったのだが、このぐらいの頻度のほうが娘には適していたようで、泣き叫ぶことは無くなった。

また「休んでもいいけど、その代わり好きなおやつを買いに行けなくなってもいい?」と尋ねることは、

娘に感情的に判断させず、『どちらの方が自分にとってメリットが高いか』を一度立ち止まって考えさせる機会になったと思う。

 

この作戦は、3月まで他の作戦と並行して続けたが、3月には自分から休まずに行くことを選択するようになってくれた。

 

 

 

④朝を楽しく過ごす作戦

 

これは他の作戦と並行して実践した作戦であるが、朝はできるだけ娘の気分が楽しく過ごせるように配慮した。

 

朝ごはんは娘がその時に食べたいものを用意できるように、お米とパンの両方を常備しておき、好きなお菓子やフルーツなども用意した。

 

また、好きなアニメも録画しておき、見られるようにしておいたのだ。

 

幼稚園に行くことは憂鬱なことかもしれないが、行く前に少しでも気分が良い状態になっておけば、その憂鬱さも少しはマシになるだろうと考えたのだ。

 

 

また、当初朝は『できるだけたくさん寝かせておいたほうがいい』と私は考えていたのだが・・・なぜかというと私の娘は宵っ張りで、いつも寝るのが遅いからだ。

「寝なさい」と言われるのが大嫌いで、言い方を変えて「寝よう」「ちょっと休憩しよう」「横になろう」と言ってもダメ、無理に泣かせようとすると反発して起きていようとするので、いつも就寝は遅くなる。

 

だから、早く起こしてしまうと、それだけ睡眠時間が削られてしんどくなってしまうだろうと、私はできるだけ遅くに起こすようにしていたのだが、この考え方は私の娘には合わなかったようだった。

 

なぜなら、娘にとって寝起きの時間は『ものすごく気分の悪い時間』だからだ。

その気分の悪い時間に、「着替えよう」「朝ごはんは何がいい?」などと聞かれることはすごくイライラするようで、娘の機嫌が悪くなるとますます大変なことになった。

 

なので最低でも家を出る時間の1時間ぐらい前には起きておき、まずは好きなテレビを見て気分を上げてから準備をしたほうがいい、ということが判明した。

 

 

紆余曲折ありながらも、この作戦はうまくいった。

 

この経験から、私は『不機嫌な時は、叱りつけるよりも、娘の機嫌を良くなってからこちらの要求を伝える方がかえって早く解決する』ということを学べた気がする。

 

 

 

⑤お約束作戦

 

これは①のご褒美作戦がうまくいかなかったことを受けて、考えた作戦である。

 

どういう作戦かといえば、『先にご褒美を与える』に近いもので、

娘がおやつを買いに行った時に「2つ買いたい」と言ったり、寝ようと言った時間に遊ぼうとしたりしたら、「いいわよ、その代わり明日は幼稚園に行こうね」という約束をするのだ。

 

翌日、娘がたとえ「幼稚園に行きたくない」と言ったとしても、「昨日お約束したでしょう」と言えば、娘は自分の言動に責任を感じるのでそれを守ってくれる。

 

ただこの作戦は、娘が「2つおやつが欲しい」「もっと遊びたい」と言わなければ使えないので、いつでも使えるわけではなく、万能ではなかった。

また、この作戦を使うにあたって、一つ大きな落とし穴があったのだ・・・それについては下記の『Yes作戦』の章に書く。

 

 

⑥Yes作戦

 

これは、どんな時でも『Yes』、つまり相手への肯定をベースにして言う作戦だ。

 

 

子育てではまず、子供に共感をしてから説得した方がいいという説があるのはご存知だろうか?

 

例えば「あのおもちゃを買って欲しい」と言われたとして、どれだけ買いたくないと思ったとしても、まずは「ダメ!」と言うのではなく、「あのおもちゃが欲しいんだね」と共感して、それから「でもこの間、他のおもちゃを買ったよね」だとか「今度のクリスマスに買おうね」という説得をした方が、子供は聞くというものである。

 

 

私も実際にこの方法を利用しているが、たしかに闇雲に「ダメ!」と言うよりもずっといい。

 

というか、「ダメ」という言葉はできるだけ使わない方がいい。

 

あなたがもし親御さんに『ダメ』と言われて育ったなら、きっと何かしたい時、買いたい時、食べたい時にはまず『ダメ!』という言葉が頭に浮かんでこないだろうか。

そして『ダメ』という言葉が浮かんでしまうと、途端にやる気がなくなってしまう・・・そんなことはないだろうか?

 

『ダメ』という言葉は、何故だかわからないが、相手の感情を全て吹き飛ばすほどのエネルギーがあるのだ。

 

 

だから私も娘が「休みたい」と言う時は、「ダメ!」ではなく、肯定の言葉を掛けるようにした。

・・・といっても、「いいよ」だと嘘をつくことになってしまうので、「休みたいんだね」とまずは娘の言葉を復唱するようにしたのだ。

 

そうして「休みたいんだね、でも昨日休んだところだから、今日は行こうね」と伝えるようにした。

 

ただ、この作戦には落とし穴というか、⑤の『お約束作戦』と並行した時には気をつけなければならないことがあった。

 

というのも、前日に約束したにもかかわらず、娘が起きてからの第一声が「今日幼稚園行きたくない」だと、思わず最初に肯定の言葉でなく、「昨日約束したでしょ!」と言いたくなることがあったからだ。

 

そうして、そう言ってしまうと、娘はますます不機嫌になって、かえって説得するのに時間を要するようになってしまった。これでは良くない。

 

しかし、「いいよ」と言うと約束を破ることになる気がするしどうしよう・・・と考えた末、娘を観察して気が付いたことがあった。

 

それは、"寝起きの時間"というのは、まだ理性の働きが鈍い時間で、どういう約束をしてるかに関係なく、自分の感情そのままに言葉を発してしまう・・・ということだ。

 

つまり、娘はただ心に思い付いた言葉を口にしているだけなのだ。

 

 

あなたも、会社に行くときなどに「あー今日は行きたくないな・・・でも行かないと給料もらえないしな」と思いながら朝の支度をすることはないだろうか。子供はその、"最初の憂鬱な気持ち"をそのまま吐露しているだけなのだ。

 

つまり、悪気があったり、わざとであったり、約束を破るつもりで口にしてるのではないのである。

 

 

私は自分の中に、『約束したならそれを守るべきだから、それに反することを言ってはいけない』という前提を持っていたために、娘のそんな素直な感情を『約束違反』と捉えてしまって、それで叱りたくなってしまったのだが、

娘は約束を破るつもりでそう言ってるのではなく、自分の感情を素直に吐露しているだけなのだと気が付いてからは、その言葉も肯定して返すようになった。

 

すると、寝起きの第一声がたとえ「今日休みたい」だとしても、その後機嫌が良くなってくると、「やっぱり行く」と言う確率が高いことを発見したのである。

 

なのでこの作戦は、今も大いに活用している。

 

 

 

 

 

こうしたさまざまな作戦を通して、娘はようやく3月ごろに、幼稚園に行く時に泣かなくなったし、毎日行くことを自ら選択するようになった。

(1ヶ月休まずに行けば出席帳に『キラキラシール』が貼れると幼稚園の先生に教えてもらったことが、モチベーションになったらしい)

 

10ヶ月のあいだで、『ママと離れて寂しい』という気持ちが段々と薄れて、『幼稚園で遊ぶのは楽しい』『キラキラシールを貼りたい』を感じられるようになったのだ。

 

 

 

そして10ヶ月間の格闘のあいだ、私自身の捉え方も変わっていったように思う。

 

 

最初は、つい娘のことを『もっと良い子になってくれたらいいのに』と思ってしまっていた。

 

でも、色々な作戦を実行していくうちに、私の思う『良い子』とは、ただ『自分にとって都合のいい子』でしか無いことに気がついたのだ。

 

娘が幼稚園に行きたく無いと泣き叫んだりぐずったりするのは、娘が悪い子やダメな子だからしているわけじゃない。彼女はただ感情を素直に吐露しているだけなのだ。

そしてそれを『問題』だと捉えるのは、単なる"親の都合"でしかないのだと思うようになった。

 

そうすると、今の状況は『問題』では無いのだなと思えるようになって、あるがままを受け入れられるようになったのだ。

奇しくも、その状況を受け入れられるようになった時に、娘は泣かなくなったのだった。

 

 

 

 

年少に進級した現在、娘は毎日幼稚園に笑顔で通ってくれている。

今は『1学期の間、休まずに(体調不良や用事の時は除く)行けたら何か好きなおもちゃを買おう』という約束をしていて、それを楽しみにしている。

 

 

幼稚園に慣れた今も、④の『朝を楽しく過ごす作戦』は続けているが、朝起きてすぐの機嫌が悪い時は「休みたい」と言うことが多い。

だがそういうときは⑥の『Yes作戦』を実行する。

 

私はまず、「休みたいんだね、どうしても行きたくないなら、休んでいいよ」と声をかけるのだ。

そうして後は気にせず、④の『朝を楽しく過ごす作戦』を実践して、いつも通り娘の好きなアニメを見せたり、食べたいと言う朝食を用意する。

そうすると、娘はしばらくして、自分の理性を働かせるようになる。

 

すると『一学期休まずに登園したら(ただし体調不良は除く)おもちゃを買う』という約束を思い出すようになるので、娘はおもちゃを手に入れることと今日休むことを冷静に天秤にかけはじめる。

そこで大抵、『行ったほうが得』と判断して、自分から「やっぱり行く」と言ってくれるのだ。

 

 

たまに、「行きたくない、でもおもちゃは欲しい」という矛盾したことを言う時があるが、そんな時は私が約束を守れるようにアシストする。

 

例えば、娘の好きなチョコレートを用意しておいて、「じゃあチョコレートを食べて気分を上げてみるのはどう?」と提案したり、帰宅後に娘の大好きな『お宝探し謎解き』を用意したりすることを提案するのだ。

 

 

お宝探し謎解きとは、クイズの書かれた紙を何枚か用意して、そのクイズを辿ればお宝(おやつ)が手に入ると言う遊びである。

 

私は瀬田貞二さんと林明子さんの絵本『きょうはなんのひ』

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を小学生の時に読んで、とても好きだったのだが、そこからヒントを得た遊びだ。

 

 

たとえば、「しろとくろでできたがっきはなに?」(正解は"ピアノ")という紙を用意したら、次の紙はピアノのおもちゃの中に隠しておく。

そして次の紙には「『おいしい とりのまるやきがたべたいねえ』というセリフがあるのはどのえほん?」(正解は"11ぴきのねことあほうどり")といったクイズを書いておいて、さらにまた次のクイズを正解の絵本の中に挟んでおく。

そうしてクイズを解いていくと、お宝が隠されている場所に辿り着く・・・という遊びだ。

 

お宝といっても、用意するのは安いおやつなので金銭的な負担は大きくないし(クイズをいちいち考えるのは面倒ではあるが)娘はおやつがしょぼくともクイズをいろいろと解いてお宝を探す過程がとても楽しいようで、この遊びが大好きだ。

 

だから、娘が幼稚園に行くのが憂鬱な時は、

「幼稚園に行ってる間に、お宝探し謎解き用意しておくからね〜」と伝えて、この遊びをすることが我が家のテッパンとなっている。

 

 

 

 

こうして、10ヶ月間の格闘を経て、今の私は穏やかな日常を手に入れることができたのだが、

自分の今までのやり方に、ちっとも後悔がないかと言えば嘘になる。

 

 

娘は幼稚園が始まったばかりの時、赤ちゃんの時や下の子が生まれた時にすらしなかった夜泣きをすることがあった。夜中にいきなり「幼稚園行きたくない!」と泣き叫ぶのだ。

 

泣くだけならまだ良いのだが、夜中の2時や3時に起きて泣き叫びながら「あそぶ!ジグソーパズルする!」と言い出して、「今は夜遅いから、明日やろう」と諭そうとしても聞かないこともあった。

私は夫や下の子を起こさないかヒヤヒヤしつつ、睡眠を邪魔されたことにイライラしながら、娘を抱っこして寝室をそっと出て、リビングでジグソーパズルを嫌々した。(そうすると私のひどい態度に娘がいっそう腹を立てて、「ママの声が怖くて嫌だ!」と余計に泣き叫ぶので、私は必死に怒りを鎮めなくてはならなかった・・・)

 

 

今思えばあれは、娘があまりに大きな悲しみや辛さという感情を抱えていたから、それが寝てる時にも爆発してしまって、それを解消するために起きていたことだとわかるのだが、

当時の私は、余裕がなくて、娘に対して「泣かないでよ!」「いいから寝なさい!」と怒ってしまった。

赤ちゃんと違って『娘は言葉が通じる』という前提を持っていたから、余計に周りに配慮してくれない娘に腹が立ってしまっていた。

娘だって私を困らせたくてしたことじゃなかったのに。

 

 

あの時のことを思い出すと私は、何故もっと優しくできなかったのだろうと思って、後悔に苛まれる。

 

 

また、「幼稚園に行きたくない」と泣く娘を小脇に抱えてバスに押し込んだこともあった。

そのときは、前日にした約束を守るために仕方がないのだと自分に言い聞かせたが、段々と、休ませた方が良かったのではないかとか、自分はとんでもなく酷いトラウマを娘に与えてしまったのではないかと苦い気持ちになったものだ。

 

 

 

 

今は元気に幼稚園に通ってくれている娘だが、2歳児クラスに通わせたことが果たして娘にとって良い選択だったのか、今でもわからない。

今年の年少クラスから通わせていれば、もっと早い段階で幼稚園に慣れてくれたのだろうか(それとも同じように10ヶ月間は毎日泣いていたのだろうか)

 

下の子のお世話と両立できるか不安だからと2歳児クラスに通わせたけども、専業主婦なんだし、もっと一緒にいた方が良かったのだろうか・・・そうしたことを今でも時折、考えてしまう。

 

そしてこれは一生、正解がわからないことなんだろうと思う。

 

 

 

 

これからもこうして、私はいろいろな作戦を練ったり失敗を繰り返したりすることで、娘がどんな方法でならより楽しく過ごせるのかを手探りで見つけていくんだろうと思う。時に後悔を混じえながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は、もし、同じようなことで悩んでいる方がいたら、この話が何かのヒントになれば良いなと思って書き記すことにした。

 

もちろん人によって相性というものがあるから、私の方法がうまくいくかはわからない(甘いものよりもゲームをする方が好きな子供には、朝チョコレートを与えるよりも時間を決めてゲームをする方が効果的だったりするだろう)

また、ご家庭によっての方針があると思う(お菓子は○歳まで与えない等)ので、あくまで参考にしてもらえたら嬉しいなと思う。

 

 

また、どんな方法が最適かは理由によって異なるものだ。

娘の場合は、幼稚園に行きたくない理由が「ママと離れるのが寂しい」だったから、寂しさを緩和させる方法を考えて、いろいろな作戦を考えたが、

例えばこれが「お友達とケンカしたから」だとか「先生が嫌だから」なら、仲直りする方法を一緒に考えるとか、クラス替えをお願いしてみるなどの別のアプローチを考えなくてはならないと思う。

 

 

ちなみに最近娘は「幼稚園の先生にもっと早く着替えて欲しいと言われた」と落ち込んでいたので、

朝はキッチンタイマーを使いながら「ブラウスを40秒で着よう」「靴下を10秒で履こう」とゲーム形式で着替える練習をしている。

 

 

 

先ほども言った通り、私は100%完璧に、娘の感情を受け入れながら幼稚園に通わせられたわけではない。

余裕がない時に発した「泣かないでよ!」「約束したでしょ!」の言葉が、20年後の娘に悪い影響で現れたらどうしようと怖くなるときもある。

 

過去はやり返せないから、それは受け入れるしかないけども、そんな時は私は娘をそっと抱き寄せて、

「娘ちゃんはいつも頑張ってるね」

「娘ちゃんのおかげでママは幸せだよ」

と伝えるようにしている。

 

彼女が頑張っていることも、彼女のおかげで幸せなことも、紛れもない事実だからだ。

 

 

 

 

 

 

娘の20年後に、何か困難にぶち当たったとき、頭の片隅に聞こえてくる声は一体なんだろう。

 

「どうしても休みたいなら、休んでいいよ」

「何かご褒美を用意することを考えてみよう」

「どうしたら楽しい気分になれるかな?」

 

 

 

そんな声が聞こえていればいいなと願いながら、今日という日を過ごしている。

[子育てで感じたこと]心の中に、内なる怪物を隠す

最近、自分の心の動きが面白く感じたことがあったので書いておくことにする。

 

 

 

 

 

4歳の娘は幼稚園へ毎朝バスで登園しているのだが、先日バスの時間に2分ほど遅れてしまった。

理由は簡単、朝の準備に時間がかかったからだ。

 

そもそも、我が家は毎朝ギリギリに到着することが多かったので起こるべくして起こった事態だ。

 

付き添いの幼稚園の職員さんからは苦言を呈された。

 

「時間を過ぎてますから、もう少し早くいらしてくださいね」

 

 

勿論、もう十分大人で分別のある私は、その苦言を受け止め、反省し、どうすれば改善できるかを考えた・・・と言いたいところなのだが、そうはいかなかった。

 

 

 

繊細な私の心は、まるでハンマーで打ち砕かれたガラスのように粉々になり、しばらく職員さんの言葉が頭の中に鳴り響いていた。

 

 

 

 

(私ってなんでいつもこんなにダメなんだろう・・・)

(もう親になったんだからもっとちゃんとしないとダメじゃないか・・・)

 

 

 

こうした自分を責める言葉ばかりが頭の中に浮かんできた。

家に戻った私はぐったりと項垂れた。

 

おまけにその後すぐ、娘のカバンにマスクを入れ忘れていたことに気がついた。最悪だ。

娘の幼稚園はマスクを忘れた子供には紙のマスクを有料で貸してくれるのだが、バスの中には貸与用のマスクは無いし、バスの中はマスクを必ずしなくてはいけないという決まりがあるというのに!

 

 

私の心は硬直した。

 

 

(明日の朝、マスクのことで注意されたらどうしよう・・・)

頭の中には私を再び注意する職員さんの姿が浮かんでいた。

 

 

 

失敗したショックを二重に味わった私の心だったが、ただ落ち込んで終わりではなかった。

・・・次第に『怒り』の感情が湧いてきてしまったのだ。

 

 

(私だって頑張ってるのに!)

(娘が着替えの時にふざけて時間がかかったせいだ!)

(バスの停留場所が遠くても我慢してるのに!)

 

 

 

一度吹き出した怒りは止まることなく、私の頭の中には次から次へと、社会やら娘やら幼稚園への罵詈雑言で埋まっていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

娘は朝に弱いタイプだ。

 

私は毎朝娘の機嫌をいかに回復するかに苦心し、好きなテレビ番組や食べ物を用意しつつできるだけ早くトイレや着替えやヘアセットなどの準備を済ませるようにしているのだが、そんなこちらの苦労を知ってか知らずか、娘はいつも余計なことをしだす。

 

トイレに入った瞬間に廊下へと脱走するし、髪を括る時に使うつもりだったヘアゴムで遊んで中々返してくれない。

着替えの時は踊り出して中々ブルマを履いてくれないし、靴を履きなさいと言っているのに玄関横の全身鏡に映る自分の顔を眺めている。

 

「早くしなさい!」

そう何度言ったことか。

 

 

おまけにうちのアパートの立地上、通園バスが停まるのは普通より少し離れた場所だし、1歳半の下の子はしょっちゅう娘の靴を隠したり邪魔したりしてくるし、私は現在妊娠7ヶ月の妊婦である。

しかも三人目なものだからお腹は既に臨月並みに大きくなっていて、少し移動するだけでも疲れてしまう。

 

 

こうした様々な原因により、私の朝はいつも慌ただしいものとなっていた。

 

 

 

 

 

 

今思うと、私はあの時、疲れていたのだ。

 

色々な困難な状況の中でも自分なりに頑張っていて、それでうまくいかなかったことが、やるせなくて仕方がなかった。

 

それにいくら自分が気をつけようとも、娘は素直に言うことを聞くとは限らないし、どうせ明日も今日と同じように時間がかかるに決まってる。

そうなると私は娘にもっと厳しく注意しなくてはならなくなるだろうし、それで娘の機嫌が悪くなってかえって時間がかかるという最悪のケースを考えると、それだけで心身がぐったりとした。

 

 

 

さて先程、私の頭の中には社会や娘や幼稚園への罵詈雑言が浮かんできたと言ったが・・・意地の悪い私の頭は次第に、"いかに幼稚園へ文句やクレームをつけるか"を考えるようになっていった。(具体的にどんなものだったかは、私の性格の悪さがますます露呈することになってしまうので隠しておくことにする)

 

私は頭の中で、幼稚園の職員さんと対峙していた。

そして日頃不満に思っていることを頭の中でぶつけていたのだ。

 

 

 

一方で私の心はこう囁いていた。

 

『ダメよ、私。それじゃモンスターペアレントそのものじゃない』

『そうやって被害者ぶることで、注意された恥ずかしさから逃げようとしてるんでしょ』

『そんなことしたらますます恥ずかしい大人になるだけよ!』

 

そう、客観的に見て、頭の中の私の姿はどう見ても悪質なクレーマーであり、モンスターペアレントそのものだった。

 

 

 

 

過去さまざまなバイトをしてきた私は、悪質なクレーマーというものがどれほど働く人の士気や生産性を下げるか十分知っていたし、モンスターペアレントがいかに非常識で恥ずかしい存在か理解していたはずだった。

だから私はそんな悪質なクレーマーやモンスターペアレントには絶対にならないでおこうと固く誓っていたはずだった。

 

 

だが、頭の中の私は、まさしく『モンスターペアレント』の状態になっていた。

 

 

 

 

私の理想とする母親像は、『注意されたことをきちんと反省し、次に活かす大人な女性』なのに、頭の中の自分はちっともそんなことできはしない。

 

それどころか自分の落ち度を認めたくないばかりに相手の些細な欠点をあげつらって攻撃しようとしている。

 

いや、もっと言えば、私の理想とする母親像というものはとうに崩れ去っていた。

 

私の本当に理想とする母親像は『子供に遅刻なんてさせない母親』だったはずなのに!

 

 

自分の頭や行動が全くもって理想通りに動いてくれないギャップに、私は身悶えた。

 

 

 

 

ひとまず私は、家を掃除することにした。

 

こんな時は気分転換も兼ねて、自分の仕事に集中するに限る。

掃除をしながら、私はとりあえず、心の中でだけ自分が思う存分モンスターになることを許すことにした。

 

過去の自分を振り返ると、どれだけ自分に落ち度があったとしても、苦しい時や悲しい時はその感情に素直になる方が心が早く回復することがわかっていたからだ。

 

 

だけど今回の私は、自分があまりに大人として当たり前のことができなかったことや些細なことに傷ついたことが恥ずかしくて、素直に『注意されて悲しい』とは思えなかっただけなのだ。

 

 

だから私は、しばらく頭の中の罵詈雑言をそのままにしておいた。

そうして散々頭の中で、『嫌なモンスターペアレント』になってみると、ふっと心が軽くなる瞬間がきた。

 

 

そう、心が怒ることに飽きたのだ。

 

 

その瞬間・・・私の心はジンジンと冷静さを取り戻して行った。

 

先程まではあれだけ『幼稚園に対してどのように文句をつけるか』を考えていたはずなのに(勿論実際に行動に移すつもりは無かったのだが)、そんなことがどうでもよくなってしまった。

それどころか、あれだけ些細なことで怒りを燃やした自分がちっぽけな存在に見えてきて、なんだか笑いたくなってしまった。

 

掃除も済んで、少し晴れやかな気持ちになった私は、帰宅したら娘に朝のことを相談してみようと思った。

もしかすると娘も、早く家を出るためのアイディアを何か出してくれるかもしれない。

 

 

 

 

その日は幼稚園で課外教室があった日だったので、降園時はバスを使わず、私は娘を迎えに行った。

 

 

娘を連れて帰ろうとすると、ちょうど朝の職員さんが通りがかった。

 

私の心は少し硬直する。

 

(マスクのことで叱られたらどうしよう・・・)

 

叱られることにこんなに恐怖を感じるなんて、私の心はいつまでも子供のようだ。

 

 

しかし、ここは勇気を出して、自分から謝ることにした。

 

「今朝はマスクを忘れてしまい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 

 

すると職員さんは笑って答えた。

「娘さん、マスクを忘れたことに気がついて、自分から手で口を押さえてマスクの代わりにしていたんですよ。本当にしっかりしてますね」と。

 

その後、カバンの中に入れていたハンカチで口元を押さえておくことを職員さんが思いつき、ことなきを得たらしい。

 

思いがけず職員さんから娘のふるまいを褒めていただいたことと、

幼いと思っていた娘が、自発的に周りに配慮した行動を取れるように成長したことを知って、私の胸は感動で一杯になった。

 

また、自分が素直に謝れたことを誇りに思い、晴れやかな気持ちになりながら、私は帰路についた。

 

 

 

 

 

 

帰宅してから、娘にこう相談してみた。

「今日ママ、実はバスに遅れて注意されちゃったんだ。注意されると落ち込んじゃうよね。ママも今日すごく落ち込んじゃった。それに、みんなに迷惑をかけちゃって申し訳なかったんだ。

だからね、明日からバスに間に合うように行きたいんだけど、どうしたらいいか、娘ちゃんアイディアあるかなあ?」

 

これだけだと娘も解決策を考えづらいかもしれないので、何個か自分なりのアイディアも重ねて伝える。

「・・・例えば、着替えを先にするとか、トイレを先にするとか、そういうアイディア、何かあるかな?」

 

 

娘はこう言った。

「起きたらまず、トイレに行ってから着替えるようにする!」

「わかった!ありがとう、協力してくれて」

私はそう礼を伝えた。

 

 

 

・・・実際には翌日、娘はやっぱり寝起きは機嫌が悪くてトイレも着替えもすぐにはしてくれなかったのだが、これはまあ想定の範囲内だ。

だが、ちゃんと変化はあった。

気分転換にアニメを観た後には、娘は急いでトイレや着替えに行ってくれたのだ!

 

また、「まだ間に合う?」と時間を気にした言葉がけをしてくれるようになった。

 

 

 

今回の件だけでなく、子育てをしてるとつくづく感じることだが、こちらが命令口調で「〇〇しなさい!」というと子供というものはあまり言うことを聞いてくれない。

むしろ押さえつけられることに反発するか、こちらの言葉を聞き流してしまう。

だが、こちらが本当に困っていることを伝えて、助けを求めるようにすると、子供なりに協力しようとしてくれるものだ。

 

 

頭ではそのことをわかっていたつもりだが、今まで朝の慌ただしい時間にはつい甘えが出てしまっていた。

(忙しいんだから、命令口調になっても仕方がないよね)

(こちらのことを聞いてくれないんだから、厳しく言うのは許されるよね)

私はそういう言い訳をついて、娘に厳しい口調で急かす事を正当化してしまっていた。

 

でも、朝忙しいことは娘には何の関係もない。それは親の勝手な事情を押し付けているだけなのだ。

 

忙しい時ほど、焦る時ほどこうした甘えは出てくるものだが、かえってその甘えを無くした方が物事は上手くいくのだと改めて実感した。

 

 

 

また、マスクは予備のものを常にバッグのポケットに入れておくことにした。(ちなみに翌日早速忘れてそれを使うことになってしまった)

 

 

 

こうして、私の"遅刻事件"は理想通り・・・つまり、すぐさま指摘をスマートに受け止めて反省する、という形にはならなかったものの、

醜いドロドロとした感情を経た後に、うまく解決する方法を思いつくことができた。

 

 

これからも心の狭い私は、何かヘマを起こしたり叱られたりするたびに、自分の理想と現実のギャップに身悶えしながら、心の中でモンスターになってしまうのかもしれない。

 

 

だが、大切なのはその"モンスター"を表に出さないようにすること・・・すなわち自分の中に留めておくことなのだと思う。(そして勿論、その後にちゃんと改善する方法を考えることも!)

 

 

それはつまり、『昨日お腹を下して、トイレに何度も行っちゃったんだよね』という情報をわざわざ他人に言いふらさないのと同じようなものだ。

 

 

 

できれば、そんなモンスターにならずに、即座に過ちを認められる日がいつか来るといいなと願うが・・・

今の自分の器の小ささには、これがちょうどいい解決法なんだろうなと思いながら、私は日々を過ごしている。

[子育てで感じたこと]『知らないことは叱らない』

私が小さい頃、嫌だったことは『知らないでしたことを叱られること』だった。

 

私は悪気なく、ダメだと知らずにしたことを母に叱られた時、どうしようもない理不尽さを感じたものだ。

 

それは母の中では『言わなくてもわかるであろう常識』であったのだろうが、私の知らない理屈を急に当然な物のように押し付けられ、叱り飛ばされることは、まるで自分の尊厳を奪われることのように感じたのだ。

 


だから私は自分の子育てでは、子供が『ダメだと知らずにしたこと』に関してはできるだけ叱らず、諭すように心がけている(勿論完璧ではない)。

だが時折、自分でも知らないうちに『子供が知っている前提』で叱ってしまう時がある。

 

 

先日、我が家は夕食にピザをとった。私が食べたくなったからだ。

4歳の娘も「食べたい」と言ったので、娘の希望の種類のピザを早速注文した。

到着を待つ間、私はまだピザが食べられない1歳半の下の子用のおにぎりを作っていた。すると娘が言った。


「ピザは食べたくない。おにぎりがいい」と。

 

私は頭に血が登るのを感じた。


折角注文したのに、しかも娘の好きな種類のピザを選んであげたのに!

 

私は語気を強めながら「せっかく注文したのにそんなこと言うのはひどいと思うよ!」と言った。

 

食べたいものを買ってあげてから変えるなんてありえない、とこの時の私は思っていた。


しかし、そう叱ってから段々と冷静を取り戻した私は、自分の『ありえない』という感覚は本当に正しいのか疑問を持ち始めた。

 

注文してから食べたいものが変わったことは、私もたくさんある。


レストランで注文した後に、他の人のテーブルに届いた料理の方が魅力的に思えて、或いは友人に分けてもらった料理が自分の注文した料理より美味しくて、(やっぱりあっちにすればよかったな)と思ったことなど今まで幾度となく経験した。

 

ただ、私は大人だったから、『追加注文はお金がかかるから我慢しよう』『相手に悪いから我慢しよう』という判断をして、それを口に出さなかっただけである。

 


気をつけなくてはならないのは、子供は自分の感情を素直に表現するという点である。


つまりは、大人であれば『失礼だから言わないでおこう』と判断することを、子供は自然に言ってしまうのだ。

 

 

何故なら娘には、「買ってもらったからには注文したものを食べなくてはいけない」「注文したあとにオーダーを変えることは失礼だ」という前提知識が無いからである。

 

 

私は自分が無意識に自分の常識を娘に押し付けていたことを反省し、娘にこう伝えた。


「さっきはママはああ言ってしまったけど、食べたいものが途中で変わることってあるよね。ママも今までたくさんあったよ。

でもね、注文したピザはもうお金を払っているから、やめることができないの。

今日は、娘ちゃんの分もおにぎりは作ってあげるけど、ピザを一口は食べてね、せっかく娘ちゃんのために注文したのだから、食べてくれないと悲しいからね」と。

 

私はまた、娘に伝えた。
「次に食べたいものが途中で変わったら、『これを食べたくない』ではなく、『あっちも食べたい』と伝えたほうが・・・今回の場合だと、『ピザも食べるけど、おにぎりも食べたい』と伝えたほうが、相手を悲しい気持ちにさせないから、今度からはそうしてね。そして食べたいと言って買ってもらったり、作ってもらったりしたものはできるだけ食べてね」と。

 

娘はちゃんと一口、ピザを食べてくれた。残したピザは冷凍しておくことにした。私の今度の昼ご飯になるだろう。

 


勿論、これはある程度柔軟な対応が可能な家の中だからできることで、外食の場合だと、『今度来た時はあっちを注文しようね』だとか『ママの分と半分取り替えっこしようか』といった語り掛けをしなければならないだろう。

 

 

 

 

こうした、前提知識や適した表現方法を子供が知らないばかりに、私がその意図を汲み取れず思わず叱ってしまったケースは、他にもある。

 

 

 

 

我が家は幼稚園の後、娘の好きなおやつを買いに行くのが日課なのだが、日によってそれがコンビニのアイスクリームだったり、スーパーのお菓子だったり、マクドナルドのフライドポテトだったりする。

 

だから私は娘に毎度、『今日は何が食べたい?』と聞くのだが、先日娘はこう言った。

 

「わからない」と。

 

娘のその言い方がえらく投げやりなものに感じた私は、「じゃあママが決めようか?」と提案すると、それは嫌だと娘は答えた。

 

そこで私は、娘が選びやすいようにいくつかの選択肢を提案してみた。

「スーパーでお菓子を買う?それともアイスクリームがいい?それかフライドポテト?」

 

しかしそれでもなお、娘はイライラした様子で、「決められない!」と答えた。

 

重い下の子をおんぶしながら娘の意味のわからない我儘に付き合わされるのにうんざりして、私は娘に

「それじゃあ今日はおやつは買いに行かないよ」と言うと、娘は怒った。

 

娘の言葉の数々に理不尽を感じたものの、このままではお互い嫌な気分でおやつを買えないことは必至だったので、私は娘の心のうちを詳しく聞いてみることにした。

「どうして決められないの?」と。

 

すると娘はこう答えた。

「頭の中がぐちゃぐちゃしてるから」と。

「じゃあ時間が経ったら、決められる?」と聞くと娘はうんと答えた。

 

 

つまりは、娘は頭が混乱しているから「わからない」「決められない」と言っただけであり、

別に思考を放棄しているわけでも投げやりなわけでもなかったのである。

 

だが私は、娘の『わからない』という言葉に"大人の論理"を当てはめて、娘にはおやつを決める意思そのものがないのだと思い込んでしまっていた。

 

 

娘が言いたかったことはつまり、「考え中」ということだったのだ。

娘はその表現の仕方を、知らなかっただけなのだ。

 

 

合点がいった私は、娘にこう言った。

「さっきは急かしてごめんね、じゃあちょっと考えてみて、決まったら教えてくれる?」と。

そしてこう付け加えた。

「今度からは、こう言う時は『考え中』って言ってね、『わからない』や『決められない』だと、考えたくないのかなあとママは思ってしまうから」と。

 

 

この話をしたのは数週間前の話だが、娘はこれ以来、頭が混乱しているときには「考え中」と言ってくれるようになり、私はそのことにとても助かっている。

 

 

私はもしかすると、ちょっと甘い親かもしれない。

子供には問答無用に『大人の理屈』を当てはめて社会の洗礼を早く受けさせるのもまたひとつの考え方だろう。

だが、私はこの『知らないことは叱らない』というスタンスを変えるつもりは今のところはない。

 

 

例えば会社の場合、何も知らない新入社員にその企業の常識を知らないことを馬鹿にしたら、或いは叱りつけたらどうなるだろう。

打たれ強いタイプの人間、やる気がみなぎっている人間の場合はきっとそれでもついてくるだろうが、私のような打たれ弱い人間の場合は、やる気をなくし、ビクビクしながら会社にいることになるだろう。

そうして自分の一挙一動が間違いではないだろうかと恐れながら、ストレスフルな状態で仕事をすることになるだろう。

 

仕事であれば我慢できたとしても、それが家庭だとどうだろう。

 

 

そう考えるとやはり私は、『知らないこと』を叱る気にはなれないのだ。

 

しかし問題は、自分の『常識』『語彙』を相手が知っていて当然だとナチュラルに思い込んで行動してしまう時があることだ。

そして子供の場合は特に、この世界や社会は、私の想像以上に知らないことに満ち溢れているのである。

 

 

これからも私は、こうして自分の常識や語彙を子供も持っていると思い込んで叱ってしまうことがあるかもしれない。

 

そんな時はできるだけ立ち止まって、自分の『常識』を子供に押し付けていないか、省みていきたいなあと願っている。

[おすすめ]おすすめ絵本特集〜感情と向き合いやすくしてくれる絵本〜

今日はいつもと違って、おすすめの絵本についてのお話です!

アフィリエイトが嫌いな方申し訳ありません、リンクが多いので、興味がなければ読み飛ばしてください。

 

 

えー、なぜこんな急にするかと言えばですね、Amazonアフィリエイトシステムに登録はしたものの、一度Twitterで紹介したっきり全然そのシステムを使ってなかったからです_:(´ཀ`」 ∠):

 

そして私はまだ、Amazonアフィリエイトシステムの審査に通ってないんですね・・(何回か商品を紹介して実績をあげなければ審査に通れないらしい)

 

そして、このあいだAmazonさんから「あと90日以内に商品を紹介しないと審査できませんよ」というメールが来たので、慌てて今回記事を書きました(ぶっちゃけすぎ)

あと楽天の方のリンクも貼っております。お好きな方で見てみてください〜

 

今回は自分のお勧め絵本について記事を書くのですが、一番大切なのは相性だと思ってるので、

まずは図書館で借りてみて、気に入ったら是非購入してみてください♬

 

 

 

さて、ではなぜ今回、私が「おすすめ絵本」というテーマで書こうかと思ったかですが、

実はもうすぐ4歳の娘が赤ちゃんの時から、毎日絵本の読み聞かせをしてるんです。そして、それが少し前に3000冊を超えました(最近は下の子のお世話で読む数が減ってますが、それでも毎日何かしら読むようにしています♪)

その中で、「この本いいな〜」と思った絵本は是非紹介したくて、今回記事を書きました♬

 

もし、小さいお子さんがいる方は、良ければ是非読んでみてください😆

 

 

 

まず1つめのおすすめ!

ちょっとした悲しい出来事を受けとめるときにおすすめの絵本!

 

「ハグしてぎゅっ!」


 

Twitterでもおすすめしたんですが、これは、「すぐ泣くお子さん」におすすめの絵本です♪

少し憂鬱な時、嫌なことが起きたときに、「ハグして元気になれる」ということを描いている絵本です。

 

私の娘は、自分に似て小さな事ですぐ泣くのですが、この絵本を読んでから、気持ちの切り替えが早くなりました。

たとえば、転んだときなどに、

「ママ、ハグしてぎゅっ!やろー」と言うので、

「こけちゃったときは〜、ハグしてぎゅっ!」と絵本の真似をして言いながらハグしています。

 

もちろん、ハグでは元気が出ないほど悲しい時はやらないのですが、ちょっとした嫌なことや悲しいことが起きた時は、ハグをすると気持ちが元気になることをこの絵本で実感してくれたようです♬

 

また、絵本を読みながら「ぎゅっ」のところで本当に「ぎゅっ」をすると、スキンシップにもなります。

 

実はこの絵本を読む前、感受性が強くて些細なことですぐ傷つく娘に対して、私は

「どうやって元気にさせよう」「何か甘いものでも用意した方がいいのかな」と思ってしまっていたのですが、

この本を読んでからは、おもちゃや甘いものよりも、何よりも"愛情"が一番の元気になれる源なんだなあと気づかせてもらったんです。

もちろん、たまには甘いものを食べて気分転換したり、おもちゃを買って楽しんだりするのも素敵なことですが、

特別なものが用意できなくても、大好きな人からの愛があれば、それで十分なのだと改めて思えました。

 

 

また、同じ作者の方の

「わたしとなかよし」

 

も、自己肯定感についてとてもわかりやすく書いていて、お勧めです♬

 


 

ただ、これはお子さんよりも大人の方が好きになる絵本かなあという気もします。子供って元々は自己肯定感が高いものなので。

 

でもいつか、大きくなったときに、この本を読み返して「ああ、こんなに良いことを書いてたんだな」と気がついてくれたら、嬉しいなーという絵本ですね。

 

 

あと、「悲しみ」に向き合うのにおすすめの絵本ならば、こちら。

「うれしいさんかなしいさん」


 

この絵本は、前からも後ろからも読むことができる絵本で、

前にいる「うれしいさん」と後ろにいる「かなしいさん」が、嬉しい出来事・悲しい出来事を繰り返して、最終的に真ん中のページで出会う・・というお話です。

 

この本が教えてくれることは、「悲しい」というのは(嬉しいというのも)、一時的な感情や経験でしかないということです。

 

悲しい出来事が起きた時、人はつい、自分の人生全てが不幸に思えたり、自分のことを不幸と思ったりしてしまいますね。

でも、本当は「悲しい」というのは、一時的な状態でしかありません。今は出口のない悲しみの中にいるように思えたとしても、その悲しみが癒えた時、また喜びや嬉しさを感じられるようになります。

 

この絵本は、そんなことを教えてくれる絵本なのです。

 

 

また、泣くことについて肯定的に受け止めるのにオススメなのはこの絵本!

「ひとはなくもの」


 

これは、作者のみやのすみれさんが小学生の時に作った紙芝居が元だそうです。

 

泣き虫だったすみれさんが、泣くことにはちゃんと理由があるということや、「泣きたい時は泣いても良い」ということを伝えてくれる絵本です。

 

もし、泣き虫なお子さんがいらっしゃる方、子供がすぐ泣くことに叱ってしまう方、泣き虫なことをダメだと思ってしまう方には是非オススメです♪

泣くことって、全然悪いことじゃないよな・・と改めて気づかせてくれる絵本です!

 

 

 

 

また、「怒り」の感情が湧いた時にオススメなのはこの絵本♬

「いかりのギョーザ」


 

これは、怒りのエネルギーで美味しい餃子が作れるという、不思議なフライパンのお話です。

読むと間違いなく餃子が食べたくなります。笑

私は、「怒り」の感情は、できるだけ他人にぶつけないようにした方がいいと思ってますし、以前ブログでもそう書かせていただきましたが、"自分自身"を動かす時には大きなエネルギーになる感情だな・・とも思ってます。

例えば、エクササイズや掃除をする時に怒りのエネルギーを発散させるつもりでやると、けっこう捗ります笑。

この絵本を読むと、イライラしたり怒った時には、ちょっと張り切って餃子を作りたくなりますよ♬

 

 

 

また、感情の扱い方について、わかりやすく書かれてるなと思った絵本はこちらです。

「けんかのきもち」

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けんかのきもち (からだとこころのえほん) [ 柴田愛子 ]
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タイトル通り、喧嘩をした男の子たちのお話なのですが

結構児童向けの絵本って綺麗事というか、大人の理想像を押し付けてるな〜と思うお話がけっこうあって、

「喧嘩したら謝りましょう」「いつも仲良くいましょう」みたいな感じの話が多いのですが

これはそんなことはありません。

 

悔しい気持ちや、腹の立つ気持ちを、無理に否定することはないと教えてくれる絵本です。

 

大人でもこんな時ありませんか?

「あっちは謝ってきたけど、まだ腹の虫がおさまらないから許せる気分じゃない」と思ってしまう時。

で、そんな時って「許さないと」「仲良くしないと」と思うとかえって辛くて長引いちゃって、「まだ怒っていよう」と思ったら案外ケロッと忘れたりしてしまう・・笑

 

この絵本を読むと、「腹が立つ気持ちを無理に否定しなくたって良いんだなー」と改めて思えます。

私は自分の娘にも、「相手が謝る気持ちを受け取るのと、許すことは別だから、許したくないのなら、許すタイミングは自分で決めていいからね」と伝えています。

 

作者の柴田愛子さんは、実際に保育施設で働いていた方で、子供たちや感情の描写がリアルです。

人間には良い面も悪い面もどちらもあって、"人間臭い"ことは当たり前のことなのだと、受け止めていらっしゃる方だな・・と思います。

私はkodomoeという育児と絵本の情報が載っている雑誌を愛読しているのですが、その2020年10月号にインタビューが載ってて、


 

(※最新号ではありません)

 

そのインタビューも、母親だって不完全だよねーと肯定してくれる内容で、読んでいて楽な気持ちになれました。

ちなみに、この時のkodomoe、頑張ってるお母さんの肩の重荷を外してくれそうな話がたくさん話がたくさん載っていました。おすすめです♬

 

 

 

そんなわけで、おすすめ絵本を色々と紹介させていただきました!

 

こうやってアフィリンク貼っておいてなんですが、興味がある絵本は是非一度図書館で借りてみてください♬そして、もし「これって良いなー」と思えたら、購入してもらえると嬉しいなあと思います(⌒▽⌒)

 

どんなものにも、相性や好みがあるので、私が良いなと思った本が、他の人が気に入らなかったとしても当然です。

 

個人的に、図書館を利用することはすごくお勧めで・・と言うのも、私は図書館を利用し始めてから税金を払うことへの「もったいない」という気持ちが無くなったからです笑。むしろ「元取らなソンソン!」と思いながらたくさん本を借りてます!

 

また、図書館のような公共施設では、地域のサービスとか子供連れでも行けるイベントの情報もよく手に入るので、思わぬ発見があったりもします♬

 

なんだか絵本を紹介してるのか、図書館を紹介してるのかよくわからなくなりましたが・・

 

何か気になる絵本があれば是非読んでみて下さい(o^^o)

また、他にもお勧めしたい絵本は色々とあるので、時々紹介させていただきます〜!