感情の考察、日常の幸福

読んだからとて奇跡は起きないけれど、自分の心に素直になれたり、日常の細やかな幸せに気がつくことができたりするような、そんなブログを目指しています。

[エッセイ]不運のなかの幸福

スピリチュアル好きな母の周りにいる"自称能力者"は、8割がた胡散臭いペテン師であるが、たまに本当に不思議な力を持っていると感じる人がいる。

 

Mさんもその1人で、その力を使って占いのようなことをしている。

 

私も4年前にMさんに見てもらったことがあって、やはり当たっていると思ったのだが、先日久しぶりにMさんと会話をした。

その中で、Mさんからこう言われた。

「去年はご主人も運が悪かったけど、あなたも運が悪かったわねえ」

 

そういえば、私は去年、たしかに運が悪かった。

 

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去年、第三子の次女を出産した頃、私はひどく疲れていた。

 

それはそうだ、コロナ禍のために遠方にいる母を頼ることができない中での出産だったし、産後すぐ家族全員が順番に風邪を引いた。

生まれたばかりの次女の育児ももちろん大変だし、おまけに長男は次女に嫉妬して赤ちゃん返りをし、私が風邪で苦しんでいるのに毎晩夜泣きをした。

 

とにかく、疲れていた。身体に力が入らなかった。

 

夫は私のために在宅勤務をしてくれたものの、それがかえって私の気持ちを苛つかせていた。

 

在宅勤務というのは私が想定していたよりも、育児を優先できないものだったのだ。

オンライン会議の時に次女に泣かれると、夫の仕事を邪魔してはいけないというストレスでかえって気を遣った。

こんなことなら会社に行ってくれていた方が、次女が多少泣いても気を遣わずに済むから良かったかもしれない。

 

次女が泣いても、パソコンと睨めっこばかりしている夫を見るたびに、イライラが積み重なった。

 

ここで、私は素直に

「かえって気を遣うからやっぱり会社に行ってて♡」だとか、

「赤ちゃん抱っこしながら仕事してくれると助かるな♡」

だとか、言うべきだったのだろう。

 

しかし、出産を経験した女性は少なからず同意してくれると思うが、産後すぐは特に「全部自分でやらなくては」という変な信号が脳に送られる時期である。

私の脳内もその信号が鳴り響いていて、「全部自分でやらなくては、でもこんなに大変なんだから貴方もちょっとは察して手伝ってよ!」という、察することが不得手な男性からはかなり理不尽に思われる心境に陥っていたのである。

 

疲れとストレスが限界に来て、産後1ヶ月過ぎた頃のある日の夕方、私は嫌味っぽく言ってしまった。

「…もう、在宅勤務しなくていいよ」

 

夫は「何で?」と聞く。

私は何も答えなかった。

 

心の中には、意地悪くほくそ笑む女王がいた。

『さあ、これで焦るでしょ?

ちゃんと猛省して、どうすればいいかを自分で考えて、私の機嫌をとってちょうだい!』

 

と同時に、私の理性はこうも訴えていた。

『…本当は、どうしてほしいかを私から言わなくちゃ夫はわかってくれないし、根本的な解決にならないわよね。どう伝えれば、夫に私が望んでることを伝えられるだろう?』

 

【家で仕事されると、かえって気を遣っちゃうんだよね〜!だから会社で仕事してくれる方がある程度手抜きできるし気が楽なんだー!】

 

そう明るく言えばいいのは頭では分かっている。だが、心が追いつかない。明るく軽やかに言えるほどの余裕が無い。

そして、ここまで疲れさせられたことに腹が立ってる私の心の中の女王様はこう言う。

 

『いやいや、そんな、優しく言う必要なんてないわよ。もう既に、私はこんなに頑張ってるんだから!夫にちょっとは自分で考えさせなきゃ!』

 

私は混乱した頭のまま、とりあえず子供と風呂に入りながら考えをまとめることにした。

 

 

だが、風呂上がりに私が目にしたのは、倒れた夫の姿だった。

 

 

 

私は知らなかったが、夫は既にその時、仕事で過大なストレスを抱えていたのだ。

異動した先輩の業務が増えたことに加えて、新しく来た先輩はどうも馬が合わない。おまけにその状況が、過去のパワハラを思い起こさせて毎日苦しんでいた。

 

そこに私の意地悪な一言が来て、さらに私の突き放したような言い方で昔の職場のパワハラを思い出し、一時的に失神してしまったのだ。

 

幸いすぐに意識は戻ったが、私は泣きながら何度も何度も夫に謝った。

 

 

私は恐ろしくなった。

 

ほんの少し、疲れとイライラを吐き出しただけで、私は"加害者"となってしまったのだ。

 

同時に、自分の身体の丈夫さが憎くなった。

 

もし、私の方が先に倒れていたら、私はか弱いお姫様として、或いは哀れな被害者として、心配され、保護され、謝罪される側になれたことだろう。

 

だが私は、強かった。

 

夫に先に倒れられてしまうと、私は自分が屈強な兵士にならなければいけないような気がした。

 

私だってこんなに疲れて、頑張っているのに。

 

この時は素直に、「在宅勤務だとかえって気を使うから、子供が泣いたら抱っこしながら仕事をしてもらうか、それができないなら会社に行ってもらうほうが気が楽だ」と伝え、夫もそれを理解してくれた。

 

 

しかし、そこから私は、夫に本音を言うのが怖くなってしまった。

いつも頭の中にあのショッキングな出来事が再現される。そのたびに自分はどうしようもない疲れと、悲しみと、やり場のない怒りが沸いた。

 

出産という大仕事をしたうえで、イヤイヤ期と感受性の強い子供たちの育児も頑張ってる私が、どうしてまだ頑張らなければならないのだろう?

 

だがそれを吐き出して夫にまた倒れられては困る。だから私は、夫の言うことにできる限りYESと答えるようになった。

 

 

しかし、事態はこれで治らなかった。

そこから2ヶ月して、夫は仕事のストレスから鬱になりかけ、会社を休むことになったのだ。

 

 

頭の中が真っ白になった。

 

 

腹立たしいことに、休職になる少し前に、私は大きな懸賞に当たっていた。

賞品はなんと、"夫の大好きな有名人に会ってプレゼントをもらう権利"だ。

しかも本来ならば当選者の私しか会う権利はなかったが、主催者側のご厚意で家族全員が会わせてもらえることになって、夫と私は夢のようなひとときを過ごしたはずだった。

 

貴方がもし、一番大好きな有名人に出会えるチャンスがあったとして、それがあなたのパートナーがプレゼントしてくれたものだったら、どう思うだろう?

きっとすごく感謝して、パートナーをますます好きになって、元気も湧いてくるのではないだろうか。

私はそういう結果を期待していた。

 

だが、その夢のような時間から2週間も経たないうちに、夫は鬱状態になってしまった。

 

物凄く、裏切られたような気がした。

 

人の心というのはそんなに簡単なものではない。

楽しいことがたくさんあっても悲しい時は悲しいし、どれだけ恵まれている人でも辛い時は辛い。だから夫がそうなってしまったことは、仕方のないことだ。

頭ではそうわかっていても、心が追いつかなかった。

 

さらに4歳と2歳と3ヶ月の子供3人を抱えて、親元から遠く離れた土地で暮らしていたし、どちらの親も仕事があるため来てもらうこともできない。

 

私は何のスキルもない専業主婦なのに、夫がこのまま仕事に復帰できなかったらどうなるんだろうと考えると怖くて仕方なかったし、

私が子供3人に加えて夫のケアまでしなければならないと考えるだけで、ひどく疲れる心持ちがして苦しくなった。

 

 

夫はとりあえず、一週間会社を休むことになった。

運悪く、その時メンタルクリニックの予約はいっぱいで、精神科医に診てもらうのは一週間先になった。

 

その間、少しでも夫に元気を出してもらおうと、私はよく夫の背中や脚をマッサージした。

正直、愛情ではなく、打算で行っていた。

 

夫が消えてしまわないか、怖くて仕方なかった。

どうすれば夫が早く元気になってくれるか、そればかり考えていた。

 

あの時は冒頭で紹介したMさんに縋りたい気にすらなったが、こういう時にスピリチュアルに頼るのは自分の依存心を増幅させるだけで、かえって良くないことになりそうな気がして、それはやめておくことにした。

 

孤独と恐怖に耐えきれず、母に相談してみると「意識が変われば現実がシフトするよ❣️」という、何の役にも経たない薄っぺらでスピリチュアルなメッセージが返ってきて、余計に絶望感に見舞われた。

 

現実はただ、夫が仕事を少しの間休んでいるだけでしかないのに、私の頭の中には既に家族5人が貧しく暮らしている未来が描かれていた。

 

生きるのが怖くて仕方なかった。

不安になるたび死にたくなった。

だが死にたいと思うたびに、何故か私の頭には、ある小包のことが思い浮かんできたのだ。

 

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その小包は、夫が休職する1ヶ月ほど前に、高校時代の友人から届いたものだった。

 

実家で取れた柚子が大量にあるとのことで、誰かもらってくれない?という話に、私が飛びついたのだ。

 

着払いで送って欲しいと伝えたにも関わらず、友人は元払いで大量の柚子を送ってくれた。

そればかりか、産後すぐは料理が辛いだろうと、ささやかな出産祝いを兼ねて美味しいレトルト食品まで入っていた。

そしてそこには、私を気遣う温かいメッセージの書かれたカードまで入っていたのだ。

 

その温かい贈り物の数々を見た瞬間、柚子の爽やかな香りとともに、友人と過ごした高校時代から今までの記憶が蘇った。

 

高校の校舎や、みんなで放課後によく行ったカラオケ店、待ち合わせでよく使った繁華街のモニュメント。

そうした光景が次々と頭の中に浮かんでいった。

 

懐かしさと、今こうして離れた中で苦労しながらも、さらにコロナ禍もあったうえで、お互い生きている奇跡。そして贈り物への感謝の気持ち。

そうしたいろんな感情がごちゃ混ぜになって、何とも言えぬ温かい感覚に包まれた。

 

こんなに素晴らしい友人を持てたことは、何て幸せなことなのだろうと思った。

 

若い時は、高価な物や周りから羨ましがられる物を持つことが豊かさだと思っていたけれど、

このような温かい人間関係を築けることこそが、人生においてはずっと価値があり、豊かさをもたらすものなのだと、心から思った。

 

私は辛くなるたびに、何度も何度も小包のことを思い出した。

そして自分には支えになってくれる友人がいることを思った。

そう思うたびに、心の底の深いところから力が湧いてくる感覚がした。

そして、「とにかく生きよう」と思えたのだ。

 

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こうして生きのびた私だったが、現実はそれですぐうまくいくほど簡単な物ではない。夫はまだ会社を休んだままだ。

 

だが、絶望と恐怖を徹底的に味わううちに、私はネガティブな感情でいることにだんだんと飽きてきた。

 

私は自分のことを、何の根拠もないが"ハッピーエンドなミュージカルの主人公"だと思っているふしがある。

しかし、そんな主人公に似合わない心情でいることに、悲劇のヒロインのような気持ちでいることに、だんだんと居心地の悪さと違和感を覚え始めたのだ。

 

例えるならば、筋肉質でカッコいい服が似合う人がピンクのフリフリの衣装を着せられていたり、華奢で可愛い人がタンクトップに短パンを着させられているような、そんな感覚だ。

 

落ち込もうとすると、心の奥の方から声がした。

「ねえ、こんな気持ちでいつまでもいるなんて、ハッピーエンドの主人公に似合わなくなーい!?」

何故かオネエ口調だった。

 

そう考えると、何だか急に馬鹿馬鹿しくなってきた。

 

 

平常心に戻った私は、理性的に物事を考えるようになった。

とにかく、夫が職場に戻りやすくなる方法を考えるしかない。

 

夫の話を聞いて、ストレスの原因は主に先輩にあるようだから、先輩と距離を置けないか職場に相談することを提案した。

「どれだけ休んでも良いけど、そこをクリアしとかないと復帰しづらくなるし、復帰してもまた同じことで休んでしまうと思う」

そう説得すると、夫はそれを受け入れ、勇気を出して上司にメールで相談してくれた。

 

幸い、夫の上司は理解のある人だったので、先輩との距離について配慮してくれるという連絡が来た。

 

この時すでに会社を一週間休んでいた夫だが、予約していたメンタルクリニックへ行ってから、会社に復帰する日を医者と決めることになった。

 

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一方その頃、恐怖や不安といった感情からはある程度解放されたものの、私はとあることで夫にモヤモヤを感じはじめていた。

 

それは、帰省の日程のことだ。

 

夫が倒れたトラウマから、夫の言葉にできるだけYESと答えてきた私だったが、帰省の日程を決める時もYESを言っていた。

 

夫が、兄弟とも都合がつきやすいように、年末年始の後半に義実家へと帰省したいと言った時も、本当は前半にして欲しかったけどYESを。

飛行機が安いからと、いつもなら3泊4日している帰省を5泊6日にしてほしいと言われた時も、本当は早く帰ってゆっくりしたかったけどYESを。

 

しかし、義兄弟の帰省が私たちの日程とあまり被らなくなることが発覚し、私の我慢が水の泡になったことで、とうとう限界が来た。

 

『何で私ばっかり我慢する日程なのよ!?

確かに、あなたのご両親は立派な方だし好きだけど、それでも嫁としては気を遣うのよ!!!

貴方だって私の実家に5泊したくないでしょ!!??』

 

そう叫びたかったのだが、夫がまた倒れられたくない私は、こうした不満は限りなく冷静に、理性的に、解決策を明示した上で、夫に伝えなくてはならなかった。

 

そこで、帰省の期間を早めるか、もしくは帰りの飛行機を前の日程にできないかを、落ち着いた口調で尋ねてみたのだ。

 

私としてこれだけ譲歩し我慢したのだから(しかも不満も優しく伝えたのだから)できるだけ夫にはにこやかに対応してほしかった。

 

ところが、夫の反応は私が想定していたよりも冷たいものだった。

「嫌だ」と言いはしなかったものの、明らかに嫌そうな表情をされたことに、私はひどく傷ついた。

夫は不機嫌そうな態度のまま、予約していたメンタルクリニックへと向かった。

 

私は寝室に篭り、泣いた。

 

もうすぐクリスマスなのに、こんな険悪な状態でクリスマスを迎えるのかと思うと、やはり自分はもっと我慢すべきだったのかと後悔した。

 

今思えば、夫の対応は当たり前のことだ。

その時はクリスマスの3日ほど前で、飛行機の空席を探すのは大変だったし、日程を変える場合にはキャンセル料も払わなければいけない。

私にYESと答えられたから大丈夫と思ったろうに、後から不満を述べられることは夫にとって寝耳に水だったことだろう。にこやかに応対できるはずがない。

 

でも私は、ここまで自分が譲歩してきたのだから、それは相手にも伝わっているはずだという間違った幻想を抱いていた。

 

その後、夫はすぐ家に帰ってきたが、医者からは大事をとって2ヶ月間休職するように言われたらしい。

 

 

もうすぐこの我慢の生活も終わると思っていた私は、更に絶望的な気持ちになった。

 

 

産後すぐから3人の育児や家事をほぼ全て私がして、私は一体どこまで頑張ればいいのだろう。もう相当頑張っているのだけど!

しかも休職して一週間、夫は家事の手伝いをあまりしてくれなかった。

これから更に、2ヶ月ものあいだ夫の昼食作りまで家事が増えると思うと、ますます追い詰められたような気持ちになった。

 

私はたまらず、SNSに愚痴を吐いた。

こんなに頑張っているのに、何故こんな仕打ちをされなければいけないのだろうと辛くなった。

 

 

相変わらず寝室に篭っている私を、夫は心配してくれているだろうか。

 

心の中でニヤリと嗤う自分がいる。私はこの状態を知っている。これは"わざと空気を悪くすることで相手に罪悪感を植え付け、自分が優位に立とうとする意地悪な状態"だ。

 

そんなことをしてる自分が心底馬鹿馬鹿しくなった。

30年以上生きてきたからわかる。こんな方法で相手をコントロールしても、真の意味で幸せを感じることはできないのだ。

 

 

この時、ある友人が、SNSでの私の様子を気にかけてLINEを送ってくれた。

この友人も高校時代からの仲だが、柚子を送ってくれた子とは別の友人だ。

 

この友人、共感力が高く、愚痴を聞くのがべらぼうに上手い。

私は自分の置かれている状況を説明し、どす黒い愚痴をどろどろと吐いた。

友人は私の話にただただ共感してくれた。

 

毒を吐いて少し楽になった私は、このまま寝室に籠城よりも気分転換したくなり、近所のスターバックスへと向かうことにした。

 

「スタバ行くわ」と友人に伝えると、何と友人はスターバックスのeチケットを贈ってくれた。

 

その時の気持ちを、一生忘れることはないだろう。

 

友人にとってはささやかな気持ちに過ぎなかったかもしれないが、私はその思いがけないギフトが、言葉で言い表せないほど嬉しかったのだ。

愚痴を聞いてもらうだけで有難いのに、友人は私を励まそうと、こんなギフトまで贈ってくれた。

その友人の優しさが、心の深いところまで沁み入るようだった。

語彙力がないためうまく表せないが、本当に本当に本当に感動したのだった。

 

スタバで温かいチャイを飲みながら、LINEで友人に話を聞いてもらううちに、ネガティブな感情が消化されていった私は、だいぶ毒気が抜けてきた。

共感の力はすごい。自分の心にモヤモヤとかかっていた霧がみるみる晴れていくようだった。

そして晴れやかな気持ちになった私は、いよいよ夫と向き合わねばならないという気持ちになった。

 

なんとなく、自分の方に問題があることはわかっていた。

 

 

私は、YESを言いすぎたのだ。

 

 

『夫を気遣って譲歩する』と言えば聞こえは良いが、実際のところ、私はただ逃げていただけだった。

自分の本心を伝えることを。素直になることを。

夫に嫌われたり、傷つけたりすることが、怖かったからだ。

 

 

8年間の結婚生活で私が学んだ"夫婦が上手くいくコツ"は、『寝て忘れるほどの嫌なことは言うな、寝て忘れないほど嫌なことは話し合え』だ。

 

相手の言動にイライラしたり怒りが湧いた時、それが寝て忘れそうな…つまり自分のケア次第で発散されそうなものの場合は、言わずにいた方がうまくいく。

しかし、寝ても覚めてもそのことに腹が立ったり、モヤモヤを引きずるようなことの場合は、きちんと話し合わなければならない。

そこで我慢するのは美徳でも何でもない。ただ嫌な宿題から逃げる子供と同じだ。

 

 

家に帰ってからだったか、その翌日だったか、時系列があやふやなのだが、とにかく私は勇気を出して夫に伝えた。

 

これまで産後のしんどい身体の中頑張ってきたこと、

夫のために懸賞を当てたのに、あまり感謝されなかったように感じて悲しかったこと、

帰省の件はかなり譲歩していたつもりだったのに、夫の反応に傷ついたこと、

家事をもう少し手伝ってくれると期待していたこと、

数ヶ月前、自分の弱さを吐き出して倒れられたことがあまりにショックだったこと…

 

すると夫も私に、正直に話してくれた。

 

夏からずっと仕事が大変だったこと、

休職した最初は味覚がわからなくなるほど症状が悪くなっていたこと、

私が帰省のことを言った時はメンタルクリニックに行く前でピリピリしていて物凄くタイミングが悪かったこと、

帰省の件は、飛行機の空き状況と価格の面で提案しただけで、私も納得してYESと言ったのだと思ったこと、

あまり家事を手伝えなかった原因は、鬱の症状で身体が思うように動かなかった状態にあったこと…

 

夫は私が思っていた以上に、辛い思いをしていたのだ。

 

私は心の奥底にあった、一番の願いを伝えた。

 

「本当は、あなたともっと仲良くなりたい」

 

夫は私の願いを叶えてくれた。私達は久しぶりに手を握り、ベッドの上で寄り添うように並んで座った。

 

本当はもっと早く、こうしたかったのだとようやく気がついた。

 

 

2人でしんみりしていると、そこに4歳(当時)の娘がやってきた。

もうすぐクリスマスだ。娘はトナカイの帽子をかぶって、『赤鼻のトナカイ』を歌いながら、陽気に踊りながら歩いてきた。

 

その様子があまりに可愛らしく滑稽で、夫と私は思わず、泣き笑いのような変な顔になった。

翌々日のクリスマスが、楽しみになった。

 

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こうして私と夫は、また穏やかな生活を過ごせるようになった。

 

私は夫と、お互いが気持ちよく過ごせるように、取り決めを作ることにした。

帰省に関しては、今度からは3泊4日以上はしないことを約束した。

また夫の体調も、会社を一週間休んでだいぶ回復してきたので、昼食作りと洗濯は夫に任せることにした。

 

夫が会社を休むと聞いた当初は不安で絶望的な気持ちになった私だったが、夫に素直な気持ちを伝えてスッキリした後は、こう考えられるようになった。

 

『夫が休職中の今だからこそ、見れる景色を見よう』と。

 

恥ずかしい話だが、私の頭の中には、私自身が書いた小説の登場人物のセリフが響いていた。

小説『天使さまと呼ばないで』 第49話|小咲もも

 

私、幸福って、レールの先に存在する世界じゃなくて、レールに乗っている間に見える景色を楽しむこと、それ自体を幸福と呼ぶんじゃないかなって、最近そう思うようになったんです。

 

自分の進んでいるレールでは、見えると思ってたものが見えないかもしれない。本当は海が見たかったのに、自分の乗っているレールだと山しか見えないかもしれない。

 

でも、自分が今見ている景色は、自分にしか見ることのない、特別なものなんです。

 

夫が休養をとってるからこそ、見える景色があるー

 

そういうふうに思うと、『夫が休んでいるからこそ、夫に任せられる部分は任せて、少し育児や家事の手を抜こう』『夫が休んでるからこそ、2人で育児ができることを楽しもう』そんなふうに考えられるようになった。

 

 

思えば、私は夫と付き合う前、結婚どころか彼氏もいなくて焦っていた時に、同じようなことがあった。

 

当時友人が束縛の強い彼氏に悩んでるのを見て、

『彼氏がいても悩むことがあるなら、彼氏のいる・いないは幸福とは関係ないんだ。

じゃあ、彼氏がいない今の状態で楽しめることをしよう』と思ったのだ。

 

すると、彼氏がいない状態にネガティブな気持ちになることは無くなった。

不思議なことにそのすぐ後に、夫と付き合うことになったのだけども、もし夫と付き合えてなくても、それはそれで自分の状態を楽しめていただろう。

 

 

こうして、夫の休職のことを、ネガティブに思うことはなくなった。

 

その後、夫は思ったより早く回復し、1ヶ月もすると暇過ぎて仕事がしたいという状態にまでなった。

お医者様からも、もっと早く復帰をしていいという許可が出たので、予定より1ヶ月早く復職することができたのだ。

 

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この一連の出来事が起きてから、我が家では一つ変わったことがあった。

それは、夫が時々料理をするようになったことだ。

 

私の誕生日と結婚記念日には、近所の美味しいお肉屋さんの一番良い肉を買ってきてくれて、ステーキとスープを作ってくれた。

 

 

時々ふと、思うことがある。

 

去年のあの苦しい時期、私は"不幸"だったのだろうか?

 

もし夫が休職していなければ、私はきっと不安・恐怖・悲しみといったネガティブな感情を味わうことはなかっただろう。

 

だが、夫と本当に打ち解け、分かり合えたと感じたあの温かい瞬間も味わえなかったことだろう。

そして夫は今も、料理を作ってなかったことだろう。

 

そして何よりも、友人のあたたかさ、縁の大切さを知ることは無かっただろう。

 

30年以上生きてきて、あの時ほど友人の存在をありがたいと思ったことはない。

厳しい寒さの中でこそ、あたたかさの有り難みがわかるように、

苦しい状態だからこそ、友人の大切さが身に沁みたし、優しさこそが人を強く励ますのだと心から思った。

 

 

ところで、今年の夏、幼馴染が夫婦でコロナに感染した。

ご主人は体調不良だからと何もせず、家事と2人の子供の育児の負担はほぼ全てその幼馴染に回ってきたという。

ストレスがピークの時にたまたま私はその幼馴染に連絡をとったのだが、

去年の自分の状況と重なり、私は徹底的に幼馴染に共感し、愚痴を聞いた。

あの時に友人がそうしてくれたように。

そうして、お見舞いとして美味しいと評判のアイスクリームの詰め合わせを贈った。

「これであなたが少しでも元気になってくれたら嬉しい。あなたの健康と幸福が一番のお返しになるから、お返しは何もいらないからね」

というメッセージを添えて。

 

幼馴染はとても喜んでくれ、救われたと言ってくれた。

 

もし私が去年、あの苦しみを味合わず、友人のありがたみを感じることもなかったら、

幼馴染の話を聞いても、多分愚痴は聞いただろうが、アイスクリームを贈ることはなかったかもしれない。

 

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私の小さい頃、両親はいつも喧嘩していた。

夫婦喧嘩が始まると家の中の空気はいつも重く、ピリピリとしていて、毎日が辛かった。

一度だけ、両親が仲良く昔のフォトアルバムを見ながら談笑してるところを見て、すごく嬉しかったことを覚えている。

 

私はいつも思っていた。

『両親が仲良くしてくれていたら、どれだけ幸せなことだろう』と。

 

去年は喧嘩をしてしまったが、私たち夫婦は仲が良い方だと思う。ちなみに結婚生活8年間で、喧嘩をしたのは2度だけだ。

私は夫のことが大好きだし、夫もまた私のことを深く愛してくれていると感じている。

私はあの頃憧れていた、幸せな家庭を築けていると思っている。

 

だから、子供たちもさぞ幸せに過ごしているのだろうと思っていた。

 

だが、私が子供達や夫と過ごしていて心が温かくなった時に「幸せだなぁ」と呟くと

5歳の娘は「私は、幸せってよくわかんない」と言う。

 

娘にとっては、両親の仲が良いことは『当たり前のこと』なので、別に幸せを感じるものではないらしい。

 

 

昔、人生を助けてくれた恩人に、言われたことを思い出す。

 

「お金がないのなら、お金のありがたみがわかることに感謝なさい」

 

私はその時、いつも自分のことを不幸だと思っていた。

周りと比べて自分に何が無いかばかりを数えて、自分がこんなに不幸なのはお金がないからだといつも思っていた。

 

恩人の言葉を聞いた時、最初は綺麗事だと思った。

 

お金が無いよりあるほうが良いに決まってるではないか。何で感謝をしなくてはならないのかと思った。そんなのは貧乏人が、負け惜しみで使う言葉だと思った。

 

 

あの言葉を言われてから10年以上経つが、娘を見ていると、『無い状態を知るからこそ、有ることのありがたみがわかる』というのは、真実なのだと感じられる。

 

そういえば脳科学の本で読んだことだが、悲しみを感じることは、優しさを伸ばすことに繋がっていると、科学的にも証明されているらしい。

 

 

だからといって、わざと夫と不仲になるつもりは毛頭無いのだが、

これからの人生で子供達が何か苦しい局面に陥った時、それを一面的に不幸と捉えず、

娘の人生に豊かさをもたらす出来事でもあるのだと、

厳しい冬の寒さを味わうからこそ、春の暖かさを心から喜べるようになるのだと、

そんなふうに信じながら、見守っていきたいと思う。

 

 

 

私はこれまで、『運が悪い』と言われるのが怖かった。

運が悪いより、運が良いことの方が幸せだと思っていた。

だが、去年の"運が悪かった"私は、決して"不幸"では無かったと感じている。

 

 

人の温かさに触れられて、私は本当に幸福だった。

 

[エッセイ]足もとの幸せ

夫の友人で、プロのミュージシャンになった人がいる。

 

大学時代、夫は音楽サークルに入っていた。その活動の中で仲良くなった男性だ。

 

その男性が、奇遇なことに我が家の近くのレストランで演奏をするということで、家族で夕食を食べに行くことにした。

 

子供が生まれてからは、外に食べに行くといったら大抵ファミレスかフードコートかファストフードだ。

 

海の近くにあるそのレストランは外装も内装もお洒落な所だったから、私は久しぶりに気合を入れてドレスアップした。

 

私が近頃ハマっているのは裁縫だ。ちょうど自分用に作ったワンピースが出来上がった所だったから、私は早速、そのワンピースを着ることにした。

いつもかけている眼鏡もやめてコンタクトにし、ひさしぶりにきちんと化粧もした。

 

 

レストランの食事は美味しかった。夫の友人の演奏も素晴らしかった。素敵な夜になりそうだった。

 

しかし計算外だったことは、そこにとても美しい女性がいたことだ。

しかも、小さな子供を連れている一児の母だった。

 

 

 

急に私は、自分が惨めになった気がした。

 

 

 

近くが海で開放的な雰囲気だからだろうか、女性が着ているのは短丈のトップスとショートパンツだけ。そこから見えるウエストや脚は美しく引き締まっていて、彼女の自信を表しているようだった。

顔は小さく、横顔は彫刻のように整っている。

とても一児の母とは思えなかった。

 

私はついつい、その女性を目で追ってしまった。

 

3人の子を出産してから、私はあまりエクササイズもできていない。一時期ピラティスにハマっていたけれど、最近は裁縫にばかり心を奪われて暇があればミシンに向かっていた。今や私の身体はすっかりたるんでいる。

毎日エクササイズを頑張ったら、あんな風になれるのだろうか。

でも、生まれつきの骨格からまず違う。骨が太く顔も大きな私がどれだけダイエットを頑張ろうが、彼女のようにはなれないだろう。

 

 

 

その日着てきたワンピースが出来上がったとき、私は本当に嬉しかった。

骨太で鳩胸な私は、市販の服を着ると窮屈なプロレスラーのようになってしまう。

だから、手芸屋さんで一目惚れした生地で、私の体型に合わせて、好みのデザインで初めてワンピースを作れたことが本当に嬉しかった。

それに、そのワンピースを着た私は、自分で言うのも何だけれど、とても綺麗に見えていたのだ。

少なくとも家の鏡の前に立っていた時は。

 

しかし、身体自体が美しい女性は、どれだけ薄着であっても自分の肉体で美を表現できてしまう。私がいくら着飾っても、生まれつき美しい人には勝てっこ無いのだ。

 

 

劣等感に苛まれるにつれ、恥ずかしいことに、私の頭の中にはこんな考えが湧き始めていた。

『でも、もしかしたら彼女は私より貧乏かもよ?』

その女性と談笑している別の家族の子供が目に映った。着ていたのはFENDIの服だった。

私は横にいる、ユニクロを着た息子を見る。

 

ますます惨めになった。

 

 

しかし、私の頭は悪あがきをやめなかった。頭の中にこう語りかけて、惨めさを打ち消そうとしたのだ。

『家庭がうまくいってないかもしれないし、私の方が幸せかもよ?』

 

 

こんな自分が嫌だった。

 

 

比較して、自分の方に優れた点を見出そうとする。そして自分の方が幸せだと言い聞かせる。

昔からの、私の悪い癖だった。

 

私は以前『天使さまと呼ばないで』という小説の中で、劣等感の強い主人公がスピリチュアル教祖になっていく様子を描いたが、あの主人公はまさしく自分自身の姿だった。

小説『天使さまと呼ばないで』|小咲もも|note

 

 

近頃はその癖も大分落ち着いてきてると思っていた。

出かけるところといえば近所のスーパーか子供の幼稚園や習い事。私は自分自身を競争の目にさらすことなく、穏やかに暮らせていた。大好きな家族や友人に囲まれて。

 

それに、普段ならこう言い訳ができる。

「私は今、すっぴんだから」

「服もテキトーだから」

「育児が忙しくてエクササイズなんてできないから」

 

しかし、精一杯のオシャレと化粧をした今、私はその言い訳が使えない。おまけにスタイル抜群の彼女は、私と同じ子持ちの女性だ。

 

何より、いちいちこんな劣等感と嫉妬心で苦しくなる自分の小ささが、恥ずかしくて仕方なかった。

 

 

なぜ彼女より自分の方が幸せだと言い聞かせようとするのだろう。

彼女も幸せで私も幸せ、でいいではないか。

私の頭はまるで、彼女が私よりも幸せならば、それは私の幸せが彼女に奪われているという間違った解釈をしているようだった。

 

世の中で人を傷つけるのは、大抵、不幸に苦しむ人間だ。

だから他人の不幸を願うことは、巡り巡って自分を傷つけることを望むようなものなのだ。

だから私は他人の幸福を心から願い、祝福すべきなのだ。

 

頭ではわかっている。だが心が苦しい。

 

 

彼女たちの様子を見るに、もしかすると芸能関係かセレブな人らしかった。

 

そう、この世界には私よりも裕福で、美しい女性はたくさんいる。

その人たちはもしかすると、私がお金も置き場も無いから買うことができずただネットショップで眺めているだけのヘレンドやマイセンのティーカップで優雅にお茶をしているのかもしれない。

そう思うと、何故か自分の存在が急に小さくなった気がする。

地球の中で私という存在がどんどん小さく、小さくなっていって、誰にも見てもらえてないような気がする。

 

 

「私って、いてもいなくても、何も変わらないんじゃない?」

 

そんな自嘲的な考えが浮かんでくる。

 

 

私はたまらず、夫に話しかけた。

「あそこにいる人、すごい美人よ。芸能人かしら?」

 

しかし夫は興味なさそうに「そう」と答えた。

 

自分で言うのもなんだが、夫は私のことを愛してくれていると思う。

だから夫はその女性に本当に興味がなさそうだったし、今も昔も変わらず私(と子供)だけを見ていることが伝わった。

 

『でも、夫は私のことを愛してくれてるとわかったから私はやっぱり幸せなんだと思った。目の前にある幸せに気付かせてくれた夫に感謝☆』

 

こんなふうに、頭の中の葛藤を締めくくろうとしたのだが、脳内にいるシニカルな私はこう呟いた。

 

『でもそれって、結婚してなければ、仲の良い伴侶がいなければ、幸せになれないってことじゃないの?』

『こんなことブログやTwitterに書いたら、【結婚しなければ幸せになれない】って呪いをかけることになるんじゃないの?』

『結局私は、【他人より自分が何を持っているか】で幸せを図ろうとする域を出てないんじゃない?人との比較で自分を幸せと思おうとするなんて、愚かなことよ』

 

 

私は、幸せが何かわからなくなった。

 

 

 

 

こういう時は、逆説的に考えてみよう。

私が美しくセレブな女性を見て自分の幸せに確信を持てなくなったとき、どんな感覚がしたか。

【自分の存在が小さくなった】気がしたのだ。

 

つまり私は、自分の存在に確信を持てなくなるとき、不幸を感じるのかもしれない。

逆に言えば、自分の存在を感じられる時、幸せを感じるのでは無いか。

 

 

夫が私を見てくれて幸せだと思うのは、結婚してるからや夫と仲が良いからではなくて、夫に自分の存在を確かめてもらっているからだ。

 

美味しいものを食べて幸せだと思うのは、味覚を通して自分が今ここにいることを確かめられるからだ。

 

子供達と眠る時に幸せを感じるのは、自分と子供達が今この瞬間ともに生きていることがわかるからだ。

 

作ったワンピースが完成して幸せと思うのは、物を創り上げることで自分の存在と頑張りが証明できたような気がするからだ。

 

掃除をして綺麗になった床を見て幸せを感じるのは、自分が存在することで誰かの役に立つことが嬉しいからだ。

 

 

人は…否、少なくとも私は、自分の存在を確信することで、自分がこの世界にいて良いと感じることで、幸せを感じているようだ。

 

私の場合、夫や子供や家事や裁縫が『自分の存在を確かめる』という役割を果たしてくれているだけで、人によってそれは仕事だったり、山登りのような別の趣味だったり、友人だったり、或いは自分自身だったりするのだろう。(そしてその割合も人により違うのだろう)

 

 

そこまで考えが及んだところで、ふと右下を見ると、2歳の息子が幸せそうにニコニコしながら食事をしていた。

幸せだな、と思った。

 

 

これからも私は、自分より美しかったり、豊かだったり、或いは裁縫が上手な人を見たりするたびに、今日と同じように劣等感に苛まれるのだろう。

 

そうしてまたみっともなく別の部分を比較したり、自分のほうが優れていそうなものを探して、そんなものが見つからなくて、やっぱり自分は恥ずかしい人間だなあと思いながら、

また自分の足もとにある幸せを数えていくんだろう。

 

 

店を出ると、辺りはすっかり暗かった。

近くにビルも無く、街灯も少ないからか、空には今まで見たことがないほどたくさんの星が輝いていた。

 

 

 

街の光が無いと、こんなに星って見えるものなんだなあと感動しながら、私は何度も空を見上げて帰ったのだった。

[お知らせ]育児エッセイ漫画をnoteにまとめてます

感受性の強い娘を育てて気づいたことなどを、今Twitterに漫画でUPしてるのですが、

noteの方にもその漫画をまとめとして載せています。

(Twitterだと過去の画像を辿るのが大変なため)

小咲もものマガジン一覧|note

↑こちらがリンクです

 

育児エッセイはこの『マガジン』のカテゴリの『育児エッセイ漫画』の中にどんどん追加していきます!

 

 

なんだかnoteとブログの二足のわらじ状態になってますが…

漫画のような画像が沢山あるものや小説のようなファンタジーはnote、

文章やエッセイはブログにアップしようかなーと思ってます(わかりづらかったらすみません)

 

 

よければ読んでいただけると幸いです!

スピリチュアル元信者さんからの報告

  • 元信者さんからの報告

私は以前、平凡な主婦・ミカが偽スピリチュアル教祖様になり、霊感商法に手を染めていく小説「小説『天使さまと呼ばないで』|小咲もも|note」を書いたのですが

読者の方から、「小説やTwitterの発信をきっかけに、ハマっていたスピリチュアルなお店から抜け出すことができた」という感想を頂きました。

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その方のハマった経緯や、抜け出すきっかけについても詳しく聞かせていただいたのですが、その話がとても参考になりましたので、シェアさせていただきます(報告者さんに許可をいただいております)

 

 

  • 報告者さんがスピリチュアルサービスにハマった経緯

 

報告者さんはもともと身体が凝りやすく、時々いろんなリラクゼーションサロンやマッサージに行っていたそうです。

ある時、ポストに投函されたクーポンをきっかけに、新しいお店を訪ねてみたそうです。

 

そのお店はこんなところでした。

○スピリチュアルな要素を取り入れたマッサージのお店

○価格は普通の整体より少し割高なぐらい

○店主は溌剌とした感じのいいおばさん(Aさんとします)だった

○Aさん自身がかつてスピリチュアルや気功などの勉強をして、医者も直せなかったという自分の不調を治した経験があった

○その経験を活かして、「氣」や先祖の霊や念による不調で悩む人々を救いたくてお店を始めたらしい

○施術後、店主さんはいつも不思議な動作とともに「これで治った!」と言い切ってくれた

○施術には実際に効果があり、不調が治った

○当時体調で悩みがあったが、Aさんはそのことで不安を煽るようなことやスピリチュアルなこと(先祖や悪霊の仕業など)を言うこともなかった

 

報告者さん自体は、スピリチュアルには半信半疑なものの、それはエンターテイメントと受け止め、

またAさんが「治った」と断言してくれたことに安心感を抱いたそうです。


お話を聞いて、私もきっと当初は「スピリチュアルが好きな人がやっている、普通のリラクゼーションサロン」だったのだと思いました。


私も母が気功で不調を治した経験がありますので、スピリチュアルな要素で治る不調もあると考えています。

Aさんは実際に不思議な力もあったのかもしれません。


そこからAさんにのめり込んでいった経緯ですが、報告者さんがわかりやすく書いてくださったので、文章をそのまま使わせていただきます。

 

初回の来店後しばらくAさんの店には行きませんでしたが、いつもの店で予約が取れなかったある日ふと思い出して、再び店を訪ねてしまいました。
Aさんは再来店を喜んでくれて、私に以前より詳しく氣や霊や念の話をしてくれました。
霊感商法のようでそう言った話を聞くのは正直苦痛でしたが、お店の雰囲気やAさんとの世間話は楽しく感じました。

Aさんは体の凝りだけではなく、風邪等の目には見えない不調も治せると話しました。
その時、私はたまたま風邪をひきかけていました。それを相談すると、Aさんは何やら不思議な処置をした後に「これで大丈夫」だと言い切りました。そして、実際にそれで体調が良くなったのです。

この2回目の来店をきっかけに私は、特に不調を感じた時にAさんの店へ行くようになりました。
店に行くと体の凝りやその他の不調が楽になるので、だんだん店に通う回数が増えてしまいました。Aさんが不調を全て治ったと言い切ってくれるのが気持ちよかったですし、もし騙されていたとしても、プラセボ効果だとしても実際に体調はよくなるし、マッサージというサービスを受けているので構わないと思っていました。スピリチュアルのエンターテイメントを楽しんでいるような気持ちもありました。

店へ通うようになったある日、Aさんに「遠隔ヒーリング」の紹介をされました。10分千円程度で遠隔でもヒーリングを行える、支払いは来店でのツケ払いということでした。お客さんによっては毎日のように遠隔を依頼されるということで、話を聞いていると、来店している人の中でも依存心の強い人が多くこのサービスを利用しているようでした。
最初は抵抗がありましたが、ある時、大切な予定の前に体調を崩し「ものは試しに」とお願いしてみたところ、体調を崩さず予定をこなすことができました。
私はAさんの不思議な力を完全には信じたわけではありませんでしたが、これもプラセボ効果でもなんでも、体調が改善するなら構わないと感じました。
それ以来、店に行けないときは、遠隔サービスという目には見えないサービスにも時々ツケでお金を払うようになってしまいました。

Aさんは、一度の施術で不調が治り切らないときは「症状が重いから」と説明しました。そういったことは普通のマッサージや病院でもよくあることだし、症状が良くなることの方が多かったので気にしませんでした。

そうやって店に通っているうちに、コロナ禍になりました。Aさんは「コロナの気配がわかる、浄化できる」と言い始め、ある時、私の近くにコロナ感染の疑いが強い人がいることを言い当てました。(注釈:当時はまだコロナが流行し始めで感染自体が珍しい時期でしたが、実際に報告者さんの近くにいた人が、検査をしなかったため真偽不明なものの感染の疑いがかなり強かったそうです)
不安が増す私に、Aさんから「コロナを含めて、健康を損ねていないか遠隔で定期的にチェックできる」と提案されました。
チェックの月額はマッサージ1回分より安く、いつものように来店でのツケ払い、もし不調が見つかったら別料金ということでした。
体の弱い家族がいてコロナが特に不安だった私は、そのサービスをお願いして、Aさんのお店に継続課金することになってしまいます。

「先日コロナについて言い当てられたし、もしかしたら、Aさんの話は本当かもしれない。」という考えは0ではありませんでしたが、この時もAさんの話を心から信じていたわけではありませんでした。ただ、「もし嘘でも、月数千円で不安が解消されるなら安心料として構わない」と思っていました。
なお、最後までこのサービスで感染や不調を指摘されることはありませんでした。

この頃「天使さまと呼ばないで」を読みました。遠隔健康チェックという目には見えないサービスを受けている自分を客観視するきっかけになりましたが、まだ不安がありAさんの店から離れることができませんでした。

 

その後、私は妊娠をして、ますますコロナへの不安が増す事なりました。

妊娠について相談した時「お腹の赤ちゃんのパワーが万全ではないので、自分が何とかしてあげる」とAさんは言いました。
そして施術をおこなってから、この件に関しては特別な施術であり、従来の施術の数倍の金額が必要だと話をされました。
その特別な施術とやらは、事前に金額を知らせず、私の承認も取らずAさんが行ったサービスだったので大きな抵抗を感じました。
「赤ちゃんの体調を万全にするためにはこの後も同じ施術が必要」だと言われた時は、さすがに断りました。
けれどAさんには「このまま赤ちゃんの不調を知っていて何もしないのは心苦しい」「ただ、値引きをすることはあなたの運を使ってしまうことになり、あなたのためではない」と言われてしまいます。
私は、今までにAさんの施術で自分の体調が良くなることを何度も経験していました。そして私には、Aさんの話の真偽を確認する方法はありません。
産まれた赤ちゃんに何かあった時に後悔することが怖くなり、結局、その後も何度か高額な遠隔での施術をお願いしてしまいました。
出産まで何度も同じ事があったらと怖かったのですが、数回でいつものように「もう赤ちゃんは大丈夫だ」と言われることになりました。

 

この頃から、Aさんは少しずつ変わってきました。他のお客さんが体調不良になった話や、そのために特別な祈祷を行った話、その祈祷が高額な話等をするようになりました。特に、赤ちゃんに関して不安を煽るような話を何度も聞きました。
私は毎回聞き流すよう努めていましたが、言外に高額サービスを勧められているのだと感じられるものでした。
また、施術を行う事で自分の体にも負担がかかり辛い事、そのためサービスの値上げを行う可能性があるという話もされました。

Aさんと自分の関係がおかしくなっている事や、これがいわゆる霊感商法である事は薄々わかっていました。私はだんだんAさんに会う事、店に行く事が嫌になってきました。

けれど、コロナに感染していたら助けてもらえるという、月数千円の健康チェックはどうしても不安で断ち切る事ができませんでした。

その上、妊娠に関する事でどうしても不安があった時、遠隔で2回ほどAさんに相談をしてしまいました。実際にそれで状態は良くなりましたが、だんだんAさんに相談しても、いい気分や安心よりも、嫌な気分や自分への嫌悪感が勝るようになりました。

色々な事があった妊娠中でしたが、幸い、子供は無事に生まれてきてくれました。それまでは毎日のように心配ばかりしていましたが、出産後に子育てを通して、だんだん幸せを感じる日が多くなりました。

 

少しずつ、私の「Aさんとの関係を断ち切るべきだ」という想いが強くなってきました。
けれど子供へのコロナ感染の心配やAさんと再び話すことの憂鬱さで決断を先延ばしにしていたある日、親戚が一家でコロナに感染してしまったという話を聞きました。
幸い重症化せず、一時は大変だったようですが無事に療養を終えたとのことで、詳しく話を聞くことができました。

その時に、私は「もしコロナに感染しても、そうやって立ち向かえばいいんだ」という当たり前のことに気づきました。急に、ずっと悩んでいた漠然としたコロナへの不安が晴れていくのを感じました。

私は、Aさんへ今までのツケになっていた遠隔の支払いをしたいこと、来店ではなく振込を行いたいことを連絡しました。


すると、下記のような返信が来たのです。

・徳の低い先祖がいる人を見ているせいで自分の体調が悪くなっている
・前回、遠隔でみた症状は強い霊のせいだったので、いつもより高い金額をもらう必要がある
・悪霊のせいで体調が優れない赤ちゃんが自分の親戚にもいる
・家等の建物に霊が祟るせいで、体調が悪化してしまっている人も多い

 

そして、遠隔サービスについて数万単位の金額が請求として記載されており、「値引きを行うとあなたの運が減ってしまうので、あなたのためにならない」と説明がありました。

遠隔サービスを以前頼んだ時は、どちらも10分程度離しただけです。店に掲示されている金額の通りなら、合計2000円程度のサービスのはずでした。
また、家のお祓いが特別高額サービスとして用意されている話を、以前Aさんから聞かされていました。

私は赤ちゃんの不調に関する言い値での施術をきっかけに、Aさんにとっては言い値で請求を行ってもいい金ヅルになってしまっていたことを実感しました。

そして、サービスの値上げ、自分の不調のアピール、さらなる高額サービスの示唆や不安を煽るような話…。
Aさんが「天使さまと呼ばないで」のミカのような状態になっていることを改めて感じました。

Aさんへどう対応するかは迷いました。
勉強代だと思って言い値で払う事、このまま踏み倒す事、色々考えました。
結局、「事前に金額がわかっていたらサービスを頼まなかった」という理由で請求額では払えない事を伝え、減額してもらって振込を行う事で決着しました。

振込完了の連絡を行った後、Aさんからの最後の返信には「子育て中のお客さんが命に関わる体調不良になっており、自分が治療をしているので、あなたも気をつけたほうがいい」というまるで脅しのようにも感じる記載がありました。

出会った頃のAさんはこのような話をする方ではなかったので、残念に感じながらAさんとの関係は終わりました。

 

 

 

  • スピリチュアルにハマる怖さ

 

ここで私が大切だと思う点は


○Aさんの施術は、実際に効果があった

○報告者さんは最後まで、完全にAさんの力を信用していたわけではなかった

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という点です。

 

話を聞いて、私はスピリチュアルにハマる危険性が『効果がない』ことにあるわけではないのだと思いました。

むしろ効果があるものも実在するからこそ、混乱してしまうのではないでしょうか。

一番の問題は、『全てが一つの手段で解決できると思い込み、思考を放棄してしまう』という点にあるのだと思います。

(これはあらゆるカルト的なもの…スピリチュアルじゃなくても、陰謀論マルチ商法自己啓発セミナーなどの問題も同じことだと思います。『これだけで全て解決する』と思わせることが怖いのです)

 

 

  • スピリチュアル依存から抜け出したきっかけ

 

報告者さんは、スピリチュアル依存から抜け出せたきっかけをこう語ってくれました。


☆不安ではなく、今ある幸せに目を向けるようになった。

報告者さんにとって一番大きなきっかけは、お子さんが無事に産まれたことです。

コロナ禍での妊娠の間、報告者さんは不安な気持ちにずっと悩まされてきました。

Aさんと出会って一時的には安心を得ますが、それは『他者から与えられる紛い物の安心感で、自分の腹から抱いた安心感では無かったから、時間が経つとまた不安になってしまった』と報告者さんは言います。

更に、不安な気持ちをなくそうと、報告者さんはいつもコロナの不安なニュースやネガティブな情報ばかり見てしまい、かえって不安な気持ちが増してしまうという悪循環にハマってしまったそうです。

しかしお子さんを育てる中で、不安なニュースを見るよりもお子さんとの触れ合いに時間を注ぐようになり、必要以上の不安を感じなくなりました。

それに伴って、Aさんへの依存心も和らいでいったそうです。

 

☆「人生には山も谷もあって当たり前」ということを受け止められた。

私は『ネガティブなことを恐れすぎると、カルト的なものにハマる』という話をかねてからしていますが、報告者さんにはその言葉がいつも心に響いていたそうです。しかし、完全にAさんとの縁を断ち切るにはすぐには勇気が出なかったそうです。

ですがここで、親族がコロナに実際に感染し、療養したのを実際に目にしたことで、

「もし感染したとしても、療養すればいいんだ。それと同じように、ネガティブなことが起きたとしても、それはそれとして対処していけばいいだけの話なんだ」と思うようになったそうです。

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頭では理解していた言葉に加えて、実際に身近な人の経験を通して

「ネガティブを恐れすぎなくてもいい」ということを、腹の底から理解できたのです。

 

 

  • スピリチュアルにハマりすぎないために

 

報告者さんの体験談を踏まえて、これからこうしたカルト的なものにハマりすぎないためにはどうすればいいのでしょう。

私なりの答えを考えてみました。

 

 

☆不思議な力は実際にあるが、それは特別ではないと理解する


私は、Aさんには本当に不思議な力があったように思うし、全てを気のせいで片付けることはできないと思います。

気のせいで片付けてしまうと、また他の「不思議な能力」がある人に出会った時に、必要以上に陶酔してしまうのではないでしょうか。


ここで捉えておくべきは、こうした不思議な力(氣を操れたり、予知能力的なもの)は、特別なものではないと理解することです。

聴力や視力と同じ、人間に備わった能力の一つだと思うといいでしょう。


この世界には「聴力が優れているから指揮者になれた人」や「動体視力の良さを活かしてスポーツ選手になった人」がいますね。

そうした人の能力を「すごい」とは思いますが「人間的に優れているからそんな力があるのだ」とはあまり思わないでしょう。


しかし、第六感のような目に見えないものになると途端に「神様から選ばれた人だからだ」と思ってしまいます。これは現代社会が、あまりに物質的な価値を重視しすぎてるからかもしれません。

これから何か不思議な能力がある人に出会ったとしも、「ああこの人は、スピリチュアルな能力が人より強いのね」とフラットに受け止めることが大切なのだと思います

 

実際に私は伯母が人の心を読むことに長けていて、人が言っていない事でもぴたりと当てる人です。

また、私は昔、たまたま出会った勘の鋭い人に悩みを言い当てられて助けられた経験があります。

私自身も、時折予知夢を見たり、虫の知らせが当たることがあります。

私の周りの友人にも「妙に勘が鋭くて、顔を見ただけで性格や体調や未来を当てる人を知ってる」という子が何人かいます。

不思議な力をもつ人は表立ってあまり言わないだけで、きっとたくさんいるのだと思います。

 

 

☆不思議な力で体調が良くなることもあるが、2割ぐらいの確率と捉えておく


上で話した通り、私の母は気功で長年の悩みだった冷え症が治ったそうです。

 

私自身も、霊的な原因で体調不良になった覚えがあります。{ある日母と喧嘩した時に、家の中に急に変な淀んだ空気が流れたような気がしました(意味は違いますが「魔がさす」という表現がぴったり来るような感覚でした)そしてそこから急に風邪を引いたことがあったのです。母もその時、家の中が何か変な空気になったことを肌で感じたと言いました}

 

また友人から、昔子供を産んで身体が悪くなってしまった親戚が、占い師から「もう一人子供を産んだら治る」と言われ、子供を産んだら本当に治った…という話も聞いたことがあります。


だから私は個人的には、いわゆる氣(この漢字を使うと胡散臭くなるので抵抗があるのですが)や霊といったスピリチュアルな要因で体調不良が起こることもありうると思っています。

でもそれは多分、数多ある中の原因の一つなのではないでしょうか。

 

病気の原因には、生活習慣、遺伝、ストレス、疲労、偶然…などがあると思いますが

「霊的原因」もその一つに過ぎないのではないかと思います。


病気の原因を全て「遺伝のせい」「生活習慣のせい」と片付けてしまうと、その他の要因が見えなくなるのと同じように、

「全てスピリチュアルなもののせい」と思うからおかしくなるのではないかと思います。

 

もし、氣や霊の力で不調が治ったとしたら、「あら、この原因はスピリチュアルなものだったのね」「2割の確率が当たったのね」と思った方が、全否定したり全肯定したりするよりも健全ではないかなと思います。

 

 

☆ネガティブを恐れすぎない

 

これはもう上でも説明してるので必要ないかもしれませんが、ネガティブを恐れすぎないことです。


では実際に、どうすればネガティブを恐れすぎずに済むのでしょう?


まず、ネガティブを恐れすぎる時というのは、ネガティブなことが起きる=不幸、と決め付けてる時だと私は考えます。

ですから、恐れているネガティブなことが実際に起きた時に「必ず全員が不幸になるか」を考えてみたらいいと思います。


例えば受験に失敗することを恐れている場合は

「受験に失敗した全ての人間がみんな不幸になっているか?」と考えてみます。

貧乏になることを恐れている場合は

「貧しい人間はみんな絶対に不幸か?」と考えてみます。

すると、そうではない存在もいると気づけるのではないでしょうか。


また、逆のパターンで「ポジティブなことが起きたら絶対に幸福になるか」も考えてみましょう。

「受験に成功した人はみんな必ず幸福になる」→うーん、違うなぁ…

「お金持ちはみんな幸福である」→いや、不幸そうな人もいるなぁ…

と、思えることでしょう。

そうすると、受験の失敗も貧乏も、ただの過程や環境の一つでしかなく、自分の未来を完全に決定づけるものではないと思えるのではないでしょうか。

 

 

☆依存するのは、スピリチュアルなことを信じているかどうかではなく、どれだけ強い不安を感じているかによると知る


これは今回一番私にとって目から鱗だったことです。

報告者さんは最後まで、Aさんの力には半信半疑でした。

つまり、スピリチュアルを信じているから依存するのではなく、心の中に強い不安があると、その不安を解消するために何かに縋りつきたくなるのです。

それが報告者さんにとってはたまたまAさんだっただけで、人よっては「情報商材」だったり「陰謀論」だったり「マルチ商法」だったり「自己啓発セミナー」だったりするのでしょう。

ですから、「私はスピリチュアルなんて信じない、だから大丈夫!」という人はちょっと気をつけたほうがいいかもしれません。

スピリチュアルじゃなくても、他のものにハマってしまうかもしれませんから。


不安に苛まれた時は、上に書いたように、目の前にある幸福に目を向けたり、「不安が現実化したとしても不幸が決定づけられるわけではない」ということを思い出せばいいと思います。

 

 

  • Aさんを変えたもの

 

最初は、スピリチュアルな要素はありつつも。恐怖心や不安感を煽ることなく施術をしてくれたAさん。

この頃は、本人の言う通り善意でリラクゼーションをしていたのかもしれません。

そんなAさんをおかしくしたのは、おそらくコロナ禍でAさん自身が抱えていた恐怖と、依存心の強い客の存在だったのではないかと報告者さんはおっしゃいました。


Aさんが遠隔サービスを始めたのは、もしかすると最初は不安な人を救うつもりだったのかもしれません。「治った」と言い切ってくれるのも、お客様を励まし、プラセボ効果も狙ったのかもしれません。

しかし、「いつでも答えを言ってくれる」「治ったと断言してくれる」というインスタントな安心感は、自分の力で人生を切り拓けるという自信の裏付けがない、まがい物の安心感です。

また、Aさんの存在が無ければ成り立たない安心感です。

つまりAさんは利用者に安心感を与えていたのではなく、実際には『Aさん抜きでは安心できない』という不安感を与えてしまっていました。


こうしてお客さんがAさんへ依存するにつれ、Aさんの傲慢さが増していったように思います。

だから最後にはノーマスクになったり、「何でも治せる」と豪語するようになったのかもしれません。


またAさんは恐怖心を植え付けることで客の金払いが良くなることも、おそらく肌で感じていたのではないでしょうか。

会話の中に他人の不幸や噂話が増えたのは、そうした打算もあったのではないかと思います。


コロナ禍にしたがって施術料を高くしたり、後出しや言い値で料金を上げようとしたのは、Aさん自身も何か不安や恐怖(店舗のテナント料が払えるかや、収入に対してなど)を感じていたからかもしれません。

 


「施術やサービスに実際に効果があった」ということは、本来ならば良いことなはずです。

しかしそのことと様々な不安感が報告者さんの依存心を強め、

Aさんも弱さがあったからそこにつけ込んでしまったのだと思います。

Aさんが目先の利益にとらわれず、遠隔サービスのような依存心を強くするシステムを辞め、依存心の強いお客さんはあえて突き放してくれるような人だったら、もしかすると報告者さんはAさんと程よい距離感でサービスが利用し続けられたのかもしれません。

 


Aさんに依存する気持ちを断ち、自分の足で道を切り開くことを選んだ報告者さんは、ご立派だと私は思いました。

最後の清算の際に、言われるがまま払うでもなく支払いから逃げるのでもなく、きちんとAさんに金額の交渉をされて清算したことは、自分で自分の人生に責任を持つことの第一歩だったのではないかと思います。

 

報告者さん、この度は貴重な体験談と報告をありがとうございました。

 

  • 手前味噌ですが…

 

私の書いた小説をきっかけに、スピリチュアル依存から抜け出してくださった方がいらっしゃることを、素直に嬉しく思います。

また、小説を書くときは「もし私が教祖様だったら、どんな言い訳をするだろう?」と想像しながら書いたのですが…それが本当にAさんの言い訳にそっくりだったことにびっくりしました。

(私も教祖業に向いてるのかもしれませんね笑、教祖化しないように気をつけようと思います)

 

最初にもリンクを貼りましたが、良ければ小説もぜひ読んでみてください。

小説『天使さまと呼ばないで』|小咲もも|note

 

最後に、報告者さんからいただいた嬉しい感想を載せさせていただきます。

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読んでいただき、ありがとうございました。

感受性が強い子を育てて 2

前回感受性が強い子を育てて 1 - 感情の考察、日常の幸福に引き続き、感受性が強い娘を育てるにあたって、どうして感受性の強い子が『ワガママ』に見えてしまうかの話や、自分なりの子供との付き合い方について語る。

 

 

☆「できない」を「やだ!」と言う

これは感受性の強さ関係が無いかもしれないのだけど、Twitterでも書いたことがある話。

娘がたくさんのおもちゃを出して遊んだ後、私が「片付けなさい」と言うと、「全部?」と聞かれたことがあった。

全部自分が出したものだから当たり前じゃない、と思いながら私が「全部!」と答えると、みるみるうちに泣きそうな顔になって「嫌だ!」と娘は答えた。

私はなんてワガママな子だと思い、腹が立ったのだけど、その泣きそうな顔にどこか見覚えがあって、記憶を辿ってみた。

するとそれは、私がたくさんの仕事に押し潰されそうな時の表情と一緒だということに気がついたのだ。

もっというと、たくさんの仕事を抱えていて、頭の中はそれを片付けることで既にストレスを感じていて、余計に疲れてしまっている時の表情だった。

 

その瞬間、私はなぜ娘が「嫌だ!」と言ったのか合点がいった。

やりたくなかったからではない、できないと思ったからなのだ。

 

私も若い時は、たくさんの仕事を抱えている時、その仕事をやらなければと考えるだけで疲れて、そうするともっと体が動かなくなって、でもそんな体が動かない自分なんてダメだ!と自分を責めて、するともっと体が動きたくなってどうにもなくなる・・ということを何度も経験した。

大人になった今は、そんな時どうすればいいかわかる。

それは、『とにかく深く考えずに、できることをひとつずつやっていく。そしてひとつでもできたのなら、自分を褒める』ということだ。

 

この時の娘はきっと、散らばったたくさんのおもちゃを見て、まずそれを全て片付けることを想像したのだろう。そして考えるだけで疲れてしまったのだ。

娘の「嫌だ!」という叫びを私は「こんなことしたくない!」と言ってるのだと思ったが実際は違った。彼女が本当に言いたかったことは

「こんなにたくさん、どうすればいいかわからない!助けて!」の意味だったのだ。

 

そのことに気がついて、私は「何個なら片付けられる?」と質問を変えてみた。その時は「5個」と答えたのだが、内心私はもっとたくさん片付けてほしいと思ったのだが、彼女の今できることを尊重しようと5個で了承した。

翌日、同じような状況になったのだが、彼女はその時「6個片付ける」と言ってくれた。

(ちなみに、「何個片付けられる?」と聞くより「ママとどっちが多く片付けられるか勝負しよう」と聞いた方がたくさん片付けてくれることが後日わかった)

 

子供と接していつも思うのだが、子供はこちらを困らせようとか、悪い子になろうという意思を持っていることはほとんどない。

ただ、うまくできる自信がなかったり、どうすればいいかわからなかったり、それをうまく伝えられないだけなのだ。

 

子供が「嫌だ!」と言った時、つい叱りたくなってしまうが、どうしてできないのかや、どのぐらいならできるのかを尋ねて、できる方法を考えたり、今できる範囲でやってもらうこと(そしてそれを認めること)というのは大事だと思う。

子供が成長して新たなことを挑戦する時、きっとその経験を生かして、どうすればできるかを考えてみたり、自分にできる範囲のことから始めてみたり、してくれるのではないだろうか。

 

 

 

☆失敗ではなく、「実験した」 

感受性の強い子は、完璧主義になりやすいらしい。

失敗の痛みを他人より多く感じてしまうからかもしれない。

 

私も30年以上生きてきてようやく、失敗を受け入れられるようになった。

娘はまだ失敗するのが怖いようだ。これは私がどうこうするというよりも、娘自身がいろいろ経験していく中で慣れていくしか無いのかもしれない。

 

ただ最近、私が気をつけていることは、失敗したことを「実験した」だとか「〜とわかったね」と言い換えることだ。

 

たとえば、食べたことのないお菓子を買う時。

娘があまり好きではなさそうなお菓子を食べてみると言う時がある。

私は内心、「これ残すんじゃないだろうか」と思いながらそれを見る。

食べてみてやっぱり、娘は「これ好きじゃない」と言うことがある。

そんな時に私は、「そうだったの、じゃあ残していいよ。食べてみないとわかんないもんね」と声をかける。すると娘はホッとした顔をする。

 

以前は「もー、だから言ったでしょ」みたいな声がけをしてしまっていた。大いに反省している。

食べたことがないものを食べて、合わないことがあるなんて当然ではないか。

私も買ってみた洋服が似合わなかったり、後でもっと気にいるものを発見して後悔したことなど何度もある。

 

これは私自身が、食べ物を粗末にすることを厳しく禁止されていたので、食べ物を残すことに抵抗があり、どうしてもそう言いたくなっていたのだが、

10年前に伯母のある欧米に行ったとき、衝撃的な体験をしたことを思い出した。

私がどの料理も無理して完食することを、伯母は辞めるように言ったのだ。

当時の私は太っていたからというのもあるが、伯母は「無理して食べて太るなんて不健康じゃない」と言った。

当時の私はいつも、皿に残っている料理を見ると頭の中で「食べなさい!」という声がしていた。今思えばあれは母の声だった。

とにかく食べ物を残すことにすごく罪悪感があって、それは今も完全には消えていないのだが、

子供の食べ物に関しては、子供はまだ自分が食べられる量を自分で把握する能力が未熟なので、残しても仕方がないと思うようにしている。

もちろんできるだけ残さないに越したことはないのだけど、あまりに量が残っている時は自分が食べるようにしている。

 

話が逸れてしまったが、子供が何か失敗したとき、それを「これで〇〇ということがわかったね」「これで〜という実験になったね」と言い換えてみることはオススメだ。

そしてこれは自分自身が何か失敗した時にも、とてもオススメの言い方なのだ。

私は料理や裁縫でヘマをした時は「〜という実験結果が得られた」と頭の中で言うことにしている。そうすると、次に進むのがちょっと楽になるのだ。

 

ちなみに、子供に早く寝て欲しい時、「早く寝なさい」だと子供は反発するのだが

「早く寝たら明日の朝どんなふうに変わるか実験してみよう」と言うとやる気になってくれる。

翌朝「昨日早く寝たから、今日はいつもより気持ちいいよね」と言い、子供が賛同したとすれば、早寝を"しなければいけないから"ではなく、"気持ちいいから"というポジティブな理由でしたくなることだろう。

ただもし、「いつもと変わんない」なんて子供が言ったとしても、その結果は尊重してほしい。

 

 

 

想像の世界は現実と同じ

小さな子供にとって、想像の世界は現実と同じもののようである。

だからあなたも、子供の想像に対して現実と同じように敬意を払ってみてほしい。

 

こんなことがあった。

娘がおままごとをしている時、お皿を落として泣いてしまった。

「せっかく作った料理なのに」と。

お皿の横には使った食材のおもちゃが散らばっている。

そんなの、お皿に乗せ直せばいいだけじゃないか、何でそんなことで泣くのよ、と私は思った。

「またお皿に乗せたらいいじゃない」と言うと、娘は「作り直す!」と言う。

そろそろ寝てほしいというのに、こんなことで機嫌を悪くして更に作り直しで寝る時間まで遅くなるなんて、まっぴらごめんだと私はイライラした。

 

だが、よく観察すると、娘の目にはそれが本物のように映っているようなのだ。

 

私から見たら、プラスチックでできてるから全然形が歪んでなどいない食材の形をしたおもちゃが、

娘の目にはぐちゃぐちゃに変形した食事に見えていて、さらにお皿の周りは溢れた汁でべちゃべちゃに汚れているように見えていたのだ。

 

こんな時、私は大人の論理は押し付けず、娘の世界を尊重する。

娘に見えてるのと同じように、「本当だ!こぼれちゃったね、ここはママが拭いておくね」と言い、ハンカチでその場を拭く。そうしてイライラしつつも、作り直すことを了承する。

(だが人間ができてないので、「早くしてね」と小言を言ってしまう時がある)

 

こうすると、大人の論理を無理に押し付けるより、結果的にスムーズに進むことが多い。

何より、「この程度のことで機嫌悪くしないでよ!」と思うことが少なくなる。

 

 

☆「やりたい!」は一番強いエネルギー

子供を育ててわかったことなのだが、「やりたい!」という気持ちほど人間を突き動かす衝動は無い。

なので私は「やりたい!」と娘がなっている時は、できるだけそれを尊重する。

禁止するのは生命の危険があることと、他人に迷惑をかけることだけだ。

 

昔はこのことにずいぶん悩んだ。

藤井聡太くんの母親は、聡太くんが集中してる時は決して邪魔しなかったという。

この話を聞いて、私は同じように子供の集中は邪魔しないようにしようと思ってはいたのだ。

 

だが実際には、寝る時間をとっくに過ぎているのに絵を描き続けて、なかなかそれが終わらず、眠さでイライラしはじめ、うまく絵が描けないことに苛立ち始めて癇癪を始めて、しかもそんな時に限って消しゴムをうまくかけられなくて紙にシワが寄ってしまい、娘は「なんとかして!!」とどうにもならないことでこちらに怒りをぶつけてくる。「今日はもう眠さでうまく描けないみたいだから明日にしよう」などと声をかけると「眠くない!」と言い張り、頑なに辞めようとしない。

そうしたことが何度もあった(今もたまにある)

 

そんなことがあると、私は娘に「好きなだけやっていいよ」と声をかけるのがいいのか、「もう辞めて寝なさい!」と徹底的に強制するのがいいのか、どちらがいいのかわからなくなる。

 

しかし、やりたい!のエネルギーは強力なので、これを辞めさせようとすると、物凄く鬼のような言い方をしないといけないし、それで無理だと最終的に行き着くところは暴力だろう。

 

今のところ私の中の最適解は、「やりたいことはできるだけ優先」したうえで、「絶対に譲れない線引き」を明確にすることだ。

この線引きは、できるだけ"やりたいこと"を始める前にする。

 

たとえば、寝る前に絵を描くときには、小さめの紙にするだとか、

お風呂で歌を歌いたいとき(娘は風呂の中でいつまでも歌ってなかなか体を洗おうとしない。「早く終わらせて」などと言われて邪魔されようものなら激怒する)には、何曲歌うか予め決めておく、などだ。

 

最初は時間で決めていた。「あと5分」のように。

しかし4歳の娘にはまだ時間の感覚がしっかりとは無いため、この方法はあまりうまくいかなかった。

しかも約束した時間を守らないと私は余計にイライラしてしまうので、時間で区切ることはあまりしないようにしている(もう少し大きくなったら有効だと思う)

 

また、事前にこの取り決めをしておいた方が良いのは、やってる最中に決めようとすると口を挟まれることに怒るからである(でもこれは、大人だって同じだろう)

 

最近は「寝る前や、出かける日の朝に何かしたいことがあったら、『〜してもいい?』と尋ねてくれる?そうしたら、どのぐらいできるかを予め考えられるから」と伝えるようにしていて、娘はそれを守ってくれるので、だいぶ楽になった。

 

また、この取り決めを守ってくれたときには「守ってくれてありがとう」とお礼を言うことも、次にまた守ってもらうために大切なことだ。

 

 

 

☆かけられた言葉がセルフイメージになりやすい

これも感受性の強さは関係ない話かもしれないが、

あなたが子供に「ダメな子」という扱いをすると、子供も自分をダメな子、と思ってしまうかもしれない。

 

この話はまた、Twitterでもしたことがある話なのだが、

私の娘は朝が弱いうえに、小さな事で機嫌を悪くしたり、急いでるときに限っていらんことをしたりするので、幼稚園に出る時はいつも時間との戦いである。

 

以前の私はギリギリの時間になるとつい

「もー!だから早くしてって言ったでしょう」だとか「あのときこんなことするから・・」と、今書いていて自分でも嫌になるぐらい、嫌味な母親になっていた。

だが、ある時こう思った。

(いや、でも、ちゃんと間に合ってるよね?)と。

そのことに気がついてから、娘がいらないことをしてギリギリになってしまったとしても、最終的に間に合った場合は

「おかげで間に合った!ありがとう」と伝えるようにしたのだ。

 

すると、娘は以前よりも積極的に協力するようになってくれた。

そうすると具体的に褒めるところが増える。

「あの時すぐに靴を履いてくれたから間に合ったよ」「ご飯をすぐ食べてくれたから助かったよ」というふうに。

すると娘はますます協力的になってくれた。

 

そもそも子供は、「早くして」という抽象的な指示が一体何を指しているのかをわかっていない。(だから私は『早くして』という言葉を使わないようにしている・・と言えたらかっこいいのだが、残念ながら私は未熟な人間なので、今でもつい急いでいると『早くして!』と言ってしまう。反省である)

だからこうして、具体的な行動を誉めることは有効なようだ。

 

これは仕事でも同じことだと思う。というか自分で書いていて思うのだが、ここに書いてあることは大人相手であっても有効な方法もあるんじゃ無いかと思う。

 

 

 

☆事前説明は必須

感受性が強い子は、悔しさや"期待はずれ"の残念感も人一倍感じやすい。

だからこそ、事前説明は必須だ。

 

たとえばくじを引く時なら、「これは当たりが出るのがとても珍しいものだから、当たりが出なくてがっかりしたからといって、こちらに怒りをぶつけないでね」だとか、

勝負事をする時なら「負けて悔しいと感じるのはオッケーだけど、怒りをこちらにぶつけないようにしてね」だとかだ。

 

事前説明をせずにしてももちろん良いのだが、そうするとうまくいかなかった時の怒りをこちらに全てぶつけてくる。

そうするとこっちだって人間なので辛いし、イライラするし、「そんなこと言うならもう二度としないで!」と言いたくなる(そしてまた、しなくてもいい喧嘩になる)

 

事前説明を心がけると、たまに説明を忘れてしまって子供の機嫌が悪くなったときには

「ああ、ママが予め言ってなかったから、そりゃあ残念に思っても仕方がないよね」と子供の気持ちに寄り添いやすくもなる。

 

うまくいかないことに怒りをぶつけてくるタイプの子には、特にお勧めの方法だ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

ざーっと色々書いてきたが、参考になるものはあっただろうか。もしあったなら嬉しい。

 

こう色々と書くと、感受性の強い子は何で面倒くさいんだ、と思う方もいるかもしれないし、まあ実際に面倒くさいことは多い。 

だが、感受性の強いことによるメリットもたくさんある。

人への共感がしやすいから優しさもあるし、強く願ったことは叶いやすい(科学的に証明できないから、あくまで私の意見でしかないのだが)また感じ取るものが多い分、芸術にそれを開花させたり、予知的な力もあったりする。

 

また、予知能力とはちょっと違うのだが、『感情のざらつき』にも敏感だ。

ざらつき、というのは私の感覚なのだが、私は自分が悪い方向に行ってる時、なんだか心がざらざらした感覚になることがある。

それは道義的におかしいことをしたときや、ささやかなもので言えば裁縫をして失敗している時にも、このざらつきを感じる。

ざらつきを感じた時、私は自分がしてきたことを見返してみる。すると大抵、間違った方向に自分が進んでいることや、裁縫だと何かミスをしでかしていることに気づくのだ。

忘れ物をしてるときにも、このざらつきを感じることがあって、そういう時は人より早く忘れ物に気がつけたりもする。

 

そんなわけで、感受性が強いことによるメリットももちろんあることを知っておいてほしい。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

子供を育ててイライラする時というのは、大抵子供が自分の思う通りに行かず、子供が我を通そうとする時だ。

そんな時、大人は大人の理屈を振りかざし、それに従わない子供を悪に見立ててしまう。

私もそんな感覚に陥る時がかつてはよくあったのだが、そんな時は必ずこう思うようにしている。

『私が子供に言うことを聞いてくれない、と思うのと同じように、子供は私のことを「言うことを聞いてくれない」と思っているし、

私がワガママに見えているのだな』と。

子供には子供の理屈があるのだ。それは大人と違うかもしれないが、そこには優劣はない。

大人に従うべき、と思う根底には『大人の理屈の方が優れている』という考えがあり、それは大人の驕りでしかない。

 

ただ、大人の方が経験が多く視野も広がっている分、子供よりも物事を長い目で見られることもまた事実である。

だから、「大人が正しいから従わせる」のでは無く、「子供よりもたくさん見えている部分を伝えている」というふうに考える。

 

その見えている部分を伝えた上で、子供が大人のやり方と違う道を選んだのならば、尊重することが大事なんじゃないかなと思う(命の危険がない限りは)。たとえ失敗したとしても、それもまた大切な経験だ。

 

こうは書いたけど、もちろんこれが正解とは限らない。

大人は一切口を挟まず、全て子供の意思を尊重してたくさん失敗させるっていうのも、できたらいいんだろうな・・とは思う(だが、失敗するたびに怒りをぶつけられることに、今の私のキャパシティでは耐えられる気がしない)

 

だから読んでみて、これは違うな、とか、やってみてうまくいかないな、と思うことがあれば

「小咲のやり方は自分には合わないという実験結果が得られた」と思っていただきたい。

私も藤井聡太くんのお母さんみたいにはなれなかったので(^_^;)

 

これらの話が、読んでくれている方に何かヒントになればとても嬉しいなあと思う。

 

 

 

感受性が強い子を育てて 1

感受性の強い子供を育てることは、正直すごく大変だ。

あなたの子供がもし感受性が強いならば、きっとあなたも大変な思いをしているのではないだろうか。

 

私自身、小さい頃は感受性の強い子供だった。

 

些細なことで機嫌が悪くなり、そのことで母から咎められたり、周りを困らせたりすることが辛かった。

 

母はよく「そんなことで泣くなんて」と私を嗤ったり、「何でそんなことを言うの!」と怒ったりしたから、私は自分がそんな感情を抱くこと自体が良くないと思うようになった。

 

そうして私はいつしか、自分の感じていることやしたいことがわからなくなってしまった。

 

だが、どんな感情でも持っていいということや、感情を押し殺すことは自分を尊重しないことだと気づいてからは、少しずつ自分の感情に素直になれるようになっていった。

 

娘が生まれた時、私は自分ならば子供の感情を尊重する子育てができると自負していた。

 

だが実際に自我が強くなっていく娘を育てていくうちに、それが難しいことを理解するようになった。

何故なら、子供の感受性を尊重することが、まるで子供のわがままを押し通してしまうように感じ、躾として良くないと思ってしまうからだ。

私は親になって初めて、母がなぜ私の感受性を尊重できなかったかも理解できるようになり、母も母で大変だったのだろうと思えるようになった。

 

しかし、自分なりに試行錯誤したり仮説を立てて実践してみたりして、

感受性の強い子がどうしてワガママに見えるのか、という原因を理解できるようになった。

 

それを今回はシェアしたいと思う。

 

あなたがもし、子育てをしていて

「どうしてこんなに理不尽なことをするの!?」だとか

「どうしてこんなにワガママなことを言うの!?」と腹が立った時、

この私の話が役に立てばいいなと思う。

 

人が人に腹を立てる時というのは、大抵の場合、相手のことが理解できない時だ。

 

私の話は、「こんなふうに育てましょう!」だとか「こうすればうまくいく!」というような話ではない。

だが、子供のわがままや理不尽に見える行動が何故起きているかを理解することには役立つかもしれない。

 

理解できると、頭に血が昇ることが少なくなる。

頭に血が昇ることが少なくなれば、冷静に解決策を考えることができるようになる。

 

人はそれぞれ違うから、私の解決策はあなたの子供には役立たないかもしれないけれど

あなたが解決策を導くための、支えになるとすごく嬉しいなと思う。

 

それではこれから、本題に入る。

 

 

 

☆そもそもなぜ、子供がわがままに見えるのか

子供が、「パンが食べたい」と言ったのにパンが食卓に出てから「ご飯がいい」だとか

「このお菓子嫌い」とお菓子をくれた人の目の前で言うだとか

「明日は必ず幼稚園に行く」と約束したのに起きると突然「行きたくない!」だとか言って、腹が立ったことはないだろうか。

 

なぜこんなことが起きるかと言えば、「子供は考えていることをそのまま口に出すから」である。

 

私たちだって普段は「さっきプリンを注文したけどやっぱりケーキがいいな」だとか「この人好きじゃないけど、波風立てないためにニコニコしておかないとな」だとか「もうお酒は飲まないって約束したけど、飲みたいな」のような、表立っては言えないけど思ってしまうあまり品のよくないことというのはあるはずだ。

 

子供はそれをそのまま、口に出しているだけなのだ。

 

あなたがもし、約束を決して破らず愛想笑いをしたこともない清廉潔白な人間ならば「そんなことを言うな」という権利があるかもしれないが、そうでないのならば「ああ、私が心の中で思っていることを口に出しているのね」と思っておくと、子供の言うことを全否定せずに済むだろう。

 

「そんなこと言うな」とつい言いたくなることも多いかもしれないが、そうすると子供は自分がそんな気持ちになったこと自体を責める可能性がある。

 

ここでおすすめの言い方は、「言うな」ではなく、「思ってもいいけど、それをすると約束を破ることになるから守ろう」だとか「思っちゃうのはわかるけど、聞いた人が傷つくから言うのはやめておこう」などである。

つまりは、そうした感情や思考を持つこと自体は尊重するが、表には出さない方がいいと伝えることである。

 

 

 

☆「我慢しなさい!」と言いたくなるわけ

子供がワガママを言った時に、つい「我慢しなさい!」「そんなこと言うな!」と言いたくなることはないだろうか。

それは何故かと言えば、子供は不満を述べる時に、感情を乗せてしまうからだ。

 

たとえば、子供が家まであと少しというときに「歩きたくない!」と言うと、「我慢しなさい」とつい言いたくなる。

しかし、もし子供が「ごめん、どうしても疲れたから抱っこしてほしいな」と申し訳なさそうに言うと、あなたは子供のために何かしてあげたくならないだろうか。

子供はこういう言い方ができない、というより知らないだけなのだ。

 

そして、不満の言い方は感情のバロメーターでもある。

子供は不快を強く感じているほど、その感情が言葉に乗って言い方がキツくなる。

また感受性の強い子供は他人よりも感じ取る分が多いものだから、感受性が強ければ強いほど言い方はキツくなるだろう。

そして、子供がこうした言い方をした時に、あなたがイライラしたり、怒ったりしてしまうのも無理はないと思う。

なぜなら、怒りの感情はぶつけられると怒りで応酬したくなるものだからだ。

しかも子供は暑いだとか寒いだとかの、こちらにはどうもできない自然現象に対してまでこちらに怒りをぶつけてくる。理不尽に見えても仕方がない。

 

ここで伝えるべきメッセージは「我慢しろ」ではないとは私は思う。

何故ならば、不満は自分がどうすれば快適になるかを教えてくれるヒントだからだ。

これを我慢してしまうと、もっと言うと感じ取ることを禁止してしまうと、いずれ自分がどういう状態を心地よく感じるかがわからなくなってしまうのだ。

 

ここで言うべきは「不満を伝えるのはいいけれど、そんな言い方をされると傷つくからやめてね」だとか「不満を言うのも仕方ないけれど、怒りの気持ちをこちらにぶつけるのはやめてね」ということである。

他人に怒りをぶつけるのはマナー違反ということを、伝えるのである。

また、「怒りをぶつけながら言うと、相手は言うことを聞きたくなくなっちゃうんだよ。それは損だよ」と伝えるのもオススメだ。

子供にも実際に体感してもらうのもいいかもしれない。たとえば「それ取って!」と怒りながら言ってみた場合と「それ、取ってくれない?」と優しく言ってみた場合を再現してみて、どちらがより相手に協力したくなるかを尋ねてみるといい。きっと後者と答えるだろう。

 

 

余談だが、私は「我慢しなさい」という言葉は極力言わないようにしている。

我慢というのは一見、美徳のように思えるが、どうすれば自分の不満を解決できるか思考する機会を奪うのだ。

また、「我慢しなさい」と言われると、その感情を持つこと自体を禁止されてる感覚がする(これは私だけかもしれないが)

もちろん時には少しの間耐えてほしい状況も出てくるが、そんな時は私は我慢ではなく「耐えてね」だとか「辛抱してね」だとかの言葉を使う。

 

「少しの間、暑いのを我慢して」と言われると、暑いと感じること自体を罪と言われてるような気がするが

「少しの間、暑いのを耐えてね」と言われば、暑いと感じつつも涼しくなるのを待とう、と言われてる気にはならないだろうか(私だけかもしれないけど)

そもそも我慢というのはもともとは我に執着する意味であり、語源からしてあまり良い言葉ではないようだ。

そういうこともあって私は我慢という言葉を使わないようにしている。

代わりに「どうすればその不満は解決できると思う?」と尋ねるか、前述の通り「あと少しだから耐えてね」と声掛けするようにしている。

 

先程、不満の言い方は感情のバロメーターだと言ったが、この考え方はあなたが辛くならないためにも大切なことだと思う。

子供が理不尽なことに感情的に文句を言う時、つい自分自身を責められているような気がするが、そうではない。

それは子供がどれだけ不満を感じているかの指標であり、子供自身がそれに困っているから溢れ出てしまうだけなのだ。

そう考えると、子供のことを「意地悪な加害者」ではなく「すごく困っている人」と捉えられるようになり、手を差し伸べたくなるだろう。

 

 

 

☆心の傷が身体にも影響する

我が家では以前こんなことがあった。

みんなで公園に行こうと言う時、娘がちょっと危ないことをしようとしたので私が注意すると、娘は体が動かなくなった。

早く公園に行こう、と言っても「歩けない」と言う。

私はイライラした。公園で遊びたいのは娘なのに、公園で遊べるぐらい元気なら歩けて当たり前なのに、何を言うのだと思った。

「歩くのが辛いなら、公園で遊ぶのも無理でしょ?家に帰ろう」と言うと、娘は「公園で遊びたい」と言う。

この現象、すごくワガママに見えないだろうか?

 

この時、私は少しの間だけ抱っこをして連れていくことを了承したのだが、こう思うようになった。

(もしかして、心が傷ついたからそれが身体にも影響したのか?)と。

そして娘にこう尋ねてみた。

「もしかしてさっきママが注意したことで、心が傷ついたの?だから動ける元気がなくなっちゃったの?」と。

すると娘は「うん」と言った。

私が「じゃあ、心が傷ついて動ける元気がない、って言ってくれたらわかりやすいよ」と伝えると、娘はこう言った。

「その言い方が難しくて、わかんなかった」と。

確かに、こんな言い方は4歳の娘ができなくて当たり前だなと思った。

 

私自身、心が辛くなると体が動かなくなる経験はしたことがある。鬱病も、こうした状況と似ているものだと思う。

だが子供のこととなると、そうなることをちっとも考えられなかった。

 

子供は、特に感受性の強い子供は、些細なことで傷つく。

大人はそれを軽く見て「この程度のことでどうして身体が動かなくなるの」「ただのワガママでしょ」とつい思ってしまう。

或いは子供が大人を困らせるためにわざとやってるようにすら見える。

だが子供にとっては、それは体が動かなくなるほどの辛いことかもしれないし、本当に体が動かなくて困ってるかもしれないのだ。

 

こんな時、つい「このぐらい大丈夫でしょ!」と言ったり、無理矢理体を動かそうとしたり、或いは体が動かないことを怒ったりしてしまいたくなるが、

鬱病の人にそれをして良くなるか考えてみれば、この方法はかえって子供を苦しめることになることがわかるのではないだろうか。

 

こんな時に必要なのは、見守ることと優しい声掛けと手助けだ。

子供の気分が回復するのを見守り、少し気分が回復してきたら優しく声をかけ、必要ならば手助けするのだ。

 

私もまだまだ完全ではなくて、つい自分が抑えられず感情的に怒ってしまうことがある。時間に焦ってるときは特にそうだ。

だが最近だんだんその頻度は減ってきた。

なぜなら、感情的に怒ったら余計に子供の気分が回復しなくなり、そうなるといろんな物事がさらにうまく回らなくなることを体感したからだ。

私は自分に損なことはしたくない性格なので、感情的になりそうなときは「でもここで感情的になったら後で余計にしんどくなるしな」と思うと、ぐっとこらえることができる(できないこともたまにあるけど)

 

 

ちなみに、感情的に怒ってしまって子供がそれに反発すると、あとは感情の応酬になるので、言葉がどんどんキツくなる。つまりはひどい言葉を言ってより相手を傷つけられる方が勝つ。或いは感受性が強くて怒りのパワーをたくさん出せる方が勝つ。

言葉でその決着がつかなくなると、最終的には力でねじ伏せなければならなくなるので、そうなると人は暴力に頼るんだろうなと思う。

昔は虐待のニュースを見ると、「ひどい親」と憤っていたけど、虐待する親の中には子供を苦しめたいからしてるわけではなくて、どうすればこの感情の応酬を終わらせられるかを知らなくて、ただ相手をねじ伏せることで言うことを聞かせなければ躾にならないと思い込んで、してしまう人もいるんじゃないかなと思う。

 

 

 

そんなことで、ざっと自分の経験則的なことを書いてみたけどかなり長くなりそうなので、次回もまたこうした経験則を書こうと思う。

 

感受性の強い子供を育てるのは本当に大変だ、もちろん感受性の強い子にもいいところはたくさんあって、それはまた次回書くつもりだけど、

少し前の私のように、子供が何故こんなに理不尽な、或いはわがままなのかが理解できなくて、辛い思いやしんどい思いをしている親御さんが他にもいるんではないかと思う。

 

そんな親御さんの力になれたら私は本当に嬉しい。

 

 

あなたは頑張ってる。

そして、あなたの子供もきっと、頑張ってる。

 

 

 

つづく。

[メッセージ]いつも心にともしびを

 

 

叶えたい夢があるなら、頭の片隅にいつもそれを置いておきなさい。いつかそれは叶うから。

 

 

これは私が若い頃出会った、自己肯定感について色々と教えてくださったDさんの言葉です。

 

あなたには、何か夢があるでしょうか。

それは、難しい夢でしょうか。

それでも、その夢をいつか叶えたいなら、あなたには是非、自分自身の一番の味方でいて欲しいのです。

 

自分自身の味方でいるというのは、闇雲に自分を過剰評価することではありません。

 

それは、まるで花びらが開くように頭の中に浮かんだ、想像すると胸がじんわりと温かくなる願いを、それがどれだけ馬鹿げていたものであっても、否定しないということです。

 

否定しないということは、

「バカね私、こんなのありえないのに」だとか

「こんなの叶うわけないじゃない」とかいう冷たい言葉をかけず、

 

「私にはこんな夢があるのね」

「私にとって必要なことなら、いつかきっと叶うわね」

という、あなたの願いのありのままを認めるということであります。

 

冒頭の言葉を教えてくださったDさんは、若い頃にいろいろと苦労された結果、とある企業の社長にまで上りつめた方でした。

Dさんも人生でこのことを実感されていたからこそ、私に教えてくれたのでしょう。

 

途方もない夢が頭に浮かんだ時、私はいつもこの言葉を思い出すのです。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

実は、Dさんにこの言葉を教えていただく前から、私はすでに「信じれば叶う」ということを信じていました。

というより、体感として理解していました。

 

そもそもDさんと出会えたのも、「映画『サブリナ』のように、人生の大切なことを教えてくれる老紳士と出会いたい」という夢を描いたすぐ後だったのです。

 

それでも、この言葉が私の心にずっと残っているのは、これが願いを叶えるために必要なことの本質をついたものだからでしょう。

 

叶えたい夢がある時には、その夢を頭の中心にでかでかと置いて固執するのではなく、そっと片隅に置きながら、いつも通りの日常を積み重ねる。

中でも、"片隅に"ということが大事なのだと思うのです。

 

 

 

☆☆☆

 

 

夢を信じる上でひとつ、大切なことがあります。

 

それは、夢が叶ったからといって幸福になるとは限らないと知ることです。

 

私たちは夢が思い浮かんだ時、その夢があまりに素敵なものだと、夢さえ叶えば幸福になれると思い込んでしまいます。

しかし夢と幸福とはまた別物です。

 

彼氏ができる夢が叶ったとして、その彼氏があなたをちっとも大切にしてくれないのであれば、付き合うことが幸福とは限りません。

美容師になる夢が叶ったとしても、美容師の仕事があなたの性質に向いてなければ、幸福と呼べない日々が続くでしょう。

大きな家に買う夢が叶ったとしても、その家の隣に住む人が迷惑な人だったら、買わない方が良かったと思うかもしれません。

憧れの芸能人に会う夢が叶ったとして、その芸能人が物凄く意地の悪い性格であれば、会わない方が好きなままでいられて良かったと思うかもしれません。

 

夢=幸福ではないということは是非、心に留めておいてください。

 

なぜなら、夢を幸福そのものだと思い込めば思い込むほど、叶っていない今の状況が不幸のように思えてしまうからです。

そうするとあなたは、目の前にじゅうぶんあったはずのたくさんの幸福のかけらを、手のひらから取りこぼしてしまうことになるのです。

 

また、私はいつも夢が浮かんだ時には、「自分にとって何か必要なことなら叶うだろうな」と思うことにしています。

そうすると、焦ることなんてないのだと思えて、少し心がホッとします。

あとは日常に心を戻して、自分にできる限りのことをします。

 

ここで覚えておいて欲しいことは、『必要なこと』であって、『幸せになる』ということではないと言うことです。

 

たとえば私は、『こんな見た目の人と付き合いたい』と願った理想通りの人と付き合えたことがありましたが、その恋愛がうまくいくことはありませんでした。

夢さえ叶えば幸せになれる、幸せになる夢なら叶うと信じていた私は、理想通りの人と巡り会えたのにどうして幸せを感じられないのかといつも不思議に思っていました。

 

しかし、そこで気づいたのは、私が本当に求めていたのは、私が幸せを感じるために最も必要としていたことは、『私を大切にしてくれること』であって、

見た目などは、自分の幸せとは何の関係もない、瑣末なことだったということです。

 

夢が叶ったはずの過去の恋愛は幸せなものではありませんでしたが、そのおかげで、私は自分が心の奥底で本当は何を求めていたかに気づくことができました。

 

それから私は、私のことを本当に大切にしてくれる夫と交際し、結婚しましたが、

あの時の経験がなければ、夫と付き合っても、それこそ見た目だとか瑣末なことばかりに気を取られて、彼の良さは見えず、結婚することも無かったかもしれません。

 

もしあなたが、夢が叶ったはずなのに幸福を感じられないならば、

自分にとって本当に大切なものは何か、考えてみるチャンスです。

そしてまた新たな夢が浮かんだならば、その夢を否定せずに頭の片隅に置いてみてください。

 

 

夢がなかなか叶わないと、自分が不幸に思えてくるものですが、先ほど申しました通り、

夢が叶う=幸せが確約されるわけではないし、

自分にとって何か必要なことであればいつか叶うんだなと、頭の片隅に置きながら日々を過ごしていると、その夢に固執しなくなります。

 

そうなった時にふっと不思議と叶ったり、或いは叶わなかったからこそ出会えた幸せに気づいたりするはずです。

 

ちなみに、夢は「叶えなきゃ!」と意気込んでいる時ほど叶いづらい性質があるので(あなたも、LINEやメールなどで、返信が来て欲しい!と願ってる時ほど返信が来ず、諦めて他のことをした時にいつの間にか返信が来ていたような経験がありませんか?)

そんな意味でも、夢に固執しないようにすることはおすすめなのです。

 

 

☆☆☆

 

 

 

マルチ商法や偽スピリチュアルの世界でも『夢を叶える』ことについてはよく語られますね。

私がそうしたものにわりかし批判的な立場をとっていることは、このブログを読んでくださってる方も既にご存知のことかもしれません。

しかし私は、彼らの謳う「たとえ周りにバカにされても、夢を信じよう」ということ自体を否定する気持ちはまったくありません。この言葉は、幸福に生きる上で大切な真理だと思います。

 

ただ彼らの唱える「夢を信じよう」という言葉にどうしても違和感があるのもまた事実です。

 

彼らのやり方には、Dさんの教えてくださった言葉や自分の経験則から信じている法則と違う点があります。

 

それは、夢だけを見て、現実を見ていないことです。

 

どういうことかと言いますと、Dさんの教えてくれた「夢を信じる」という言葉においての夢というのは、たとえるならばドライブでの目的地のようなものです。

 

あなたは車に乗る時(車に乗れない方は自転車でも)遊園地に行きたいだとか、近くのショッピングモールに行きたいだとか、そうした目的地をまずは意識しますね。

 

その後、実際に現在地から目的地までのルートを頭の中で考えたり、或いはナビで確認して、交通ルールを守りつつ進むことでしょう。

もし、ナビが無く土地勘もない状態で目的地に辿り着きたい場合は、人に尋ねたり色んな道を試行錯誤で進みながら探すことでしょう。

また目的地が「どこか美味しいレストランに行きたい」という漠然としたものであれば、周りを見渡して良いレストランがないか探しつつ、道を進んでいくことでしょう。

 

では、マルチ商法や、偽スピリチュアルの唱える『夢を信じる』という言葉になぜ違和感を抱いてしまうかと言えば、

この"目の前の道をどう行くか"という視点が抜けているからではないか、と思うのです。

 

目的地さえ頭に浮かんでいれば、体を動かさなくとも魔法のようにいつのまにか目的地の前についているだとか、

目的地の方角まで、交通ルールを無視して真っ直ぐつっきれば到着するだとか、

行きたいお店を探して自分の足で行くのではなくて、周りの人間から集めたお金でその店を家の目の前に作るだとか、

そうした現実を無視した、荒唐無稽なやり方が、彼らの謳う『夢を叶える』ことなのではないかなと、そう思うのです。

 

もちろん人生には不思議なことに、思いもよらない方法で夢が叶うことはあり得ます。

 

素敵なレストランに行きたいと思った翌日に、家の前にいきなり理想通りのレストランがオープンすることだってあり得るでしょう。

ただ、そうなると夢が叶う確率はとても低くなってしまいます。

 

また、目的地が変わることだってあり得ます。

美味しいお蕎麦屋さんに行きたいと思っていたら、ふと見つけたパスタ屋さんの方がどうにも気になって、そちらに変えてみるとそれが大当たりで、行き先を変えて良かったと思うこともあるでしょう。

でもそれは実際に、道を進んでみなければ分かり得なかったことなのです。

 

何も動かずに夢だけを考えて叶うのならば、それは確かに魅力的ですが、こうした未知と出逢いを逃してしまうと思えば、少し損な気がしませんか。

 

 

先程、夢を目的地にたとえましたが、

もし、あなたの夢が途方もない物で、どんな風にすれば叶うか今はよくわからなかったとしても、

あなたのその夢を否定することはありません。

その夢を頭の片隅に置きながら、今あなたにできる限りのことをすればいいのです。

そうすれば、いつかそのチャンスが巡ってきたとき、たとえの中で言えば目的地に近づいた時、

あなたはすぐにそれを見つけ、到達することができるでしょう。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

実はこのブログの話、数ヶ月前からずっと頭に浮かんではいたのですが、なかなかまとまった時間が取れず書けずにいました。

 

そうしているうちに、私自身が、また不思議と夢が叶う経験をしました。

夫の大好きな有名人に会う夢がまた叶ったのです。

 

また、と言うのはこれで結婚して7年間で3度目だからです。

 

何度も書いた話ですが、結婚して2年の間に夫が大好きなミュージシャンに会う楽屋招待券と、夫が大好きなスポーツ選手に会える権利に当選しています。

 

もうこのようなレベルの幸運はそうそう起きはしないかなあと思っていたのですが、

昨年はコロナ禍での出産で、夫にも色々と大変な思いをさせたので、何か特別なプレゼントを贈りたいなと願っていました。

 

しかし、私は専業主婦だからお金も無いし、育児で時間も無いし、そもそも夫は物欲があまり無い人です。

なので何か物をあげるよりも、また前のように好きな有名人と会える方がずっと喜んでもらえるだろうな・・・と思っていて、

でももうそんな機会なんてそうそう無いかな、とあまり期待はしてなかったのですが

たまたま夫の好きな有名人と会える企画を知り、応募してみると当選したのです。

さらに、もともとその企画は、応募者の私だけがその有名人に会えるようなものだったのですが、先方のご厚意で、夫を含む家族全員にも対面させてもらうことができました。

 

夫の好きな有名人に夫が会えた、と書くとまるで私というより夫の幸運のように見えるかもしれませんが、

私は夫の『好きなものにひたむきになれるところ』を尊敬していて、可愛いなあとも思っていて、だからそんな夫が好きな人に会えることは自分のことのように嬉しく感じます。

 

また夫と交際している時から、私は『この人にとっての幸福の女神になりたいな』と思っていたので、その夢がまた叶ったように感じられて、そういう意味でも今回の出来事はとても嬉しいものでありました。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

もちろん、私が言っていることは、何の科学的根拠もないことですし、身元バレが怖い私は何の証拠も載せることもできないので、信じられない方もいるかもしれません。

それに私は、『このブログを読めば夢が叶います』と言えるような超能力も持っていません。

 

ただ、私が伝えたいことは、『自分自身の一番の味方であって欲しい』ということです。

 

あなたの心に、途方もない夢、馬鹿みたいな夢、叶いそうもない夢がふっと浮かんだ時、

「こんなこと叶うわけない」と自分のことを卑下したり、馬鹿にしそうになったりしても、少し堪えて

「私にはこんな夢があるんだね」「自分にとって必要なことなら、きっと叶うね」と優しく声をかけてみてください。

「絶対叶う!」と意気込まなくてもいいから、ただ自分で自分の可能性を全否定することだけを、止めてみてください。

 

そうすると、少し心が軽くなります。

自分が自分を受け止められたことに、心がホッとします。

 

 

ただ、もしその夢が、誰かを不幸を願うような夢なら、ちょっと立ち止まってください。

どんな夢も持つのは自由・・ですが、人を不幸にさせる夢は、あなた自身をも不幸にさせてしまうかもしれません。

そんな夢が浮かんでくるなら、あなたは疲れていたり、深い悲しみが癒えてなかったりしているので、

「ああ、私は疲れてるんだな」「それだけ、悲しかったんだな」と優しく声をかけて、

そうして何か温かい飲み物を飲んだり、甘い物を食べたり、何か自分に優しいことをしてみてください。

そしてあなた自身を幸福にしてくれそうな夢を、思い描いてみてください。

 

 

今回のブログのタイトルの『ともしび』とは、あなたの夢のことです。

 

頭の片隅に置いておいたあなたの夢は、きっと暗がりを照らす灯火のように、そっとあなたの心を照らし続けてくれることでしょう。

そしてその灯火が、あなたの夢を現実のものにする道筋を照らしてくれたり、或いは思いがけない出会いや、新しい夢へと案内してくれるかもしれません。

 

さあ、今日から新しい年が始まります。

 

このブログを読んでくださった方の心に、明るく優しい光が灯りますように。

そうしてその灯火が、あなたにとっての幸福を照らし出してくれますように。